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健康は美しさに似ている 2017年1月10日

こんにちは。久々に長文モードです。長文ですが、ここ数年考えていたこと、試行錯誤してきたことと、最近身近に起こった色んな出来事を少しだけ整理してみたので、忘れないうちに書いておこうと思います。

最近のいろいろな健康に関する記事を読んでいて、そもそも「健康」って、客観的に評価できるものなんだろうか、と疑問を感じていました。

みんな、「健康になりたい」んじゃなくて、本当は「自分は健康だと感じていたい」≒「自信を持って前を向いて歩ける自分でいたい、いきいきしていたい」んじゃないかなあ、と思うのです。

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学部の時に「主観的健康感とその関連要因」というテーマで卒論を考えていたのは、腐っていた自分の学生時代に、色んな人とのつながりや温かさに触れて、”こんなにも人との関わりで、ご飯の美味しさが変わるのかっ”とおったまげたからです。この差はなに、健康って一体なんだ、と思ったんですね。

きっかけは自分の経験だったけれど、卒論のテーマが果たして自分が考えたかったことに迫る切り口だったのかどうか、よくわからないまま時間は迫っていました。

縦軸は身体的な健康度(α(→))、横軸は精神的な健康度(β(→))、総合的な健康はその合計(α(→)+β(→))になるのかなあああぁぁぁ・・・なんてベクトルを書いたりして、でもすっきりせず、恥ずかしくて担当教官にも大学院の先輩にも言えず(だってみんなそんなこと当たり前に、そしてもっとアカデミックに、沢山考えてきた人ばかりに決まってるし、当時の私は本当に落ちこぼれで問題児、、、苦笑)、一人で悶々と考えていました。

…でもまてよ、たとえ末期の癌患者さんだって、それを受け止め、精神的に健康だったらその人は健康なんじゃないだろうか。私が知りたいのは、身体的な健康ではなく、その人が健康と感じているかどうかなのかな?健康と感じるかどうかは身体的な健康と無関係ではないよな?どう考えたらいいのかな?みんな、健康になりたい、というよりも、「自分は健康だと感じていたい」のだとしたら、健康と感じるためには何が必要かを探せばいいのかな?

そんな風に考えて、本当は色んな人に一人ひとりにじっくり話を聞いて、あなたって健康?健康って感じるのってどうして?てゆうか健康ってどういういことだと思ってる?と聞きたいと思っていました。でも何の資格も持ってないぺーぺーの学部生にはむりだよそんなの、と言われて結局量的研究をして(分析は9割がたコンピューターと先輩にやってもらって)、どうにか卒業したのでした。

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今思うと、健康というのは、もしかしたら美しさと似ているのかもしれません。その判断は文化によっても個人によっても環境によっても年齢や時代によっても異なり、境界線はとても曖昧なようです。

先日モルディブで、大学の看護学の先生と買い物に行った際、「野菜はどこで買うんですか?」と尋ねた所、「モルディブの人は野菜は食べないわ。ここではフレッシュな作物は獲れないから。果物もあまり食べないわ。」と言って、お昼はポテトとチキンナゲットとサンドイッチを頬張っていました。野菜を食べよう、野菜から食べよう、なんて日常的に言われまくっている日本人の私にしてみたら衝撃的でしたが、それでも彼らは健康に生きているように見えましたし、「野菜食ったほうがいいっすよ」なんて到底言えるわけがありません。なんせ彼女はモルディブ唯一の大学の看護学の先生ですし。かといって私は、今日も子どもたちに「野菜をちゃんとたべなさーい」と叫ぶのをやめないでしょう。

健康とか、それにまつわる行為がとてもあやふやで曖昧であることの良い例かもしれません。

また、私は若い頃から便秘がちだったけれど、3日に一回しか便通がない人でも毎日はつらつしている人もいれば、1日でも出なければ頭痛がしたり気持ちが悪くなったりする人がいます。2日にいっぺん出ているんだから問題ないですよ、と言われたって具合が悪いものは具合が悪いし、何日便通がなかろうが自分の体調が良ければそれでいわけです。つまり客観的に評価するというよりは、その人が快適かどうかが問題なんだよなあ、と思います。

もう一つ例をあげます。

中学生の時、精神的にも身体的にもやつれていたころ、「自分は病気だ」と思い、「誰かに助けを求めなくては」と考えつきました。その頃いつもかかっていた小児科の先生に自分の状況を手紙に書き、風邪の受診の際に、震える思いでその手紙を先生に渡しましたが、先生からは結局なんのリアクションもなく、手を差し伸べてくれることはありませんでした。

先生は、私のことを問題ないと考えて特に何もしなかったのかもしれません。忙しくて構っていられなかったのかもしれません。もしかしたら病気ではなかったのかもしれませんし、疲れていただけかもしれないし、気持ちの問題だったかもしれません。でも私は自分が「病気だ」と思ってしまった以上、あのときの私は病気だったのだと思います。

医者がどんなに「大丈夫。あなたは健康ですよ」と言っても、毎日気持ちが晴れなくて身体が重いと思っている人は、自分では不健康だと感じていて、それは紛れもなく不健康なんだろうと思うのです。

健康の要因として最近流行りの「社会的つながり」、「ソーシャルキャピタル」についても同様です。人と豊かに関わりを持てる人が長生きで病気も少ないということは科学的事実として認識が深まっている、というか最近は少し飽き飽きするくらいあちこちで耳にします。しかしそれは科学的事実であるだけで、だからといって人間関係を豊かにして長生きをすることや病気をなくすことが最重要価値かというと必ずしもそうではない、というかそれは個人の考え次第としか言えないように思います。

 豊かな人間関係から生まれる素晴らしい副産物もたくさんありますが、同時に孤独からしか生み出されない価値のあるものも数多くこの世には存在するように思います。

また、たばこは身体の健康を害することで広く知られているけれど、高校の頃好きだったoasisの「cigarettes and alcohol」という曲とそのフレーズにとてつもなく魅力を感じていました。クソ真面目だった私はそういうものにとても救われたような気がします。孤独で息苦しかった10代から20代前半に、お酒や音楽や夜通し街をさまよう時間がなかったら私はどうなっていたんだろう、とも思います。

こうして見てくると、「健康」やそれにまつわる行為に関する認識は、「美しさ」のそれとシンクロがあるような気がします。一見不健康に見えるものでも、本人や周囲にとってそれが生きるために必要不可欠だったり、とても価値のあるものだったりする場合も大いにあります。それは、醜いもの、危険なもの、臭いもの、恐ろしいものにこそある美しさと、よく似ているように感じます。


このように曖昧で不確実な「健康」に関して、医療や医学研究ができることは、あくまでも科学的事実の提示だけです。(と思います。)それをどう判断するかは、個人の歴史や哲学によるよるのではないでしょうか。その上でその人の判断を尊重したり手助けするために国や自治体や医療機関が上手に支援してくれるような、そんな体制が理想だなあと思います。

その人の判断や意思が介在せずにお上や医療機関や回りの人間が生きる方針を勝手に(無意識であったとしても)決定していくのはとても恐ろしいことだと感じます。そして悲しいことに、実際の生き死にや医療の現場では、悪意なく無意識にそういうことが行われているというのが、最近の実感です。

大事なのは、「その人」の中にある価値がなんなのか、「その人」にとっての健康な生き方ってなんなのか、ということなのに。

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アカデミックな研究とか正直あんまり馴染みがなく、楽しい本ばかり読んでいるんですが、最近読んだ2冊の本から、印象的で、とても共感できる部分がありましたので紹介します。

一冊は川内有緒さんの「晴れたら空に骨まいて」(ポプラ社)

この中で印象的だったのは、夫婦でロタ島に移住し、その後ガンで先立った妻を「なんとか素敵ないい女として、恥ずかしくないように送ってやりたい」と考え続けた初老の男性の言葉と、ソレに続く川内さんの一節です。

「『大丈夫!ヘビースモーカーだし、アルコールもいっぱい飲むからすぐあっちにいける!』『今の長生きって結局は医療で生かされているだけじゃん。俺は一人暮らしだし、脳梗塞とかで倒れてもだーれも気づかない。だから大丈夫、ちゃんと死ねる!』そう言われると、はっとした。そうだ、彼らはこういう人だから、ここにいるんだ。長生きは彼の人生の目的じゃない。人は何年呼吸するかではなく、どう毎日を過ごしたかだ。一見すると明於さんについてきたような格好の久美子さんだったが、真実の彼女は自分が生きたいように精一杯日々を生き、自分が望む通りの「死」を目指し、晴れ晴れと迷いなく進んでいった。そして明於さんは、その彼女の選択の全てを自然に受け入れて、見送り、今はその後の現実を生きる。」

もう一冊は星野源さんの「蘇る変態」(マガジンハウス)

とにかくエロネタが多いし面白い(イケナイ)本ですが、脳溢血で倒れ、2度の手術を経た星野さんの言葉は真に迫るものがありました。

「景色の変わらない病室の中は一見時が止まったように見えるけれど、そんなことは決してなく、働いて、休んで、あくせく動いている人たちと同じかソレ以上に、その生活は紛れもなく人生そのものだった。生きた証や実感というものは、その人の外的行動の多さに比例するのではなく、胸の中にある心の振り子の振り幅の大きさに比例するのだと思う。」

医学的・科学的な研究はきっとすごく大事だし、必要なことだと思うけれど、正直に告白すると、数や統計で論理的に展開する文章が固くて苦手です。だからかもしれないけれど、個人的にはこうやっていろんな生き方をしている人がふと漏らす言葉というのに、実はとても大事な科学のヒントがあって、そういう幅のある人達が分野を超えて科学する、ということにとても興味があります。

最後にもう一つ、森田洋之さんの「医療崩壊のススメ」というトーク(TEDxKagoshima)もご紹介したいと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=lL8aJE9Xp3Y

最後の方はお金の話になっていますが、おっしゃっているのは「医療ありきではなく、人々の生き方ありきであるべきであって、医療はそれを支えるという形があっていいのではないか。そうすれば自ずと幸せも寿命もついてくるし、医療費だって削減できる」ということだと私なりに解釈しました。

川内さんも、星野さんも、森田さんも、切り口も文脈も向いている方向も、おそらく言いたいことも、本当はそれぞれ別なのでしょうけれど、おっしゃっている事の本質は同じような気がして、とても興味深いなと感じました。

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健康って結局何なのか。

健康は美しさと同じで、その人の育った文化とか、地域とか、家庭とか風景とうかそういうもので形作られて、そしてそれはその人の生きる気力や実感であり、その人の生きる価値観そのものだ、と今の私は考えます。

だから「あなたの健康の秘訣」も「あなたの美しさの秘訣」も、あなたの中にしかないんです、たぶん。

マスメディアに流されることなく、そのことを個人個人がきちんと受け止めて自分の中の「健康」や「美しさ」を育て、確立し、確認することが大事な気がします。そして同時に、それを行政や医療者や知識人たちが認め、それぞれが生きやすくする体制を整えて行くこともやはり大事だなあと思うのです。

私は言うばっかりですが(てへっ)・・・そのうち何かできるといいなあっと思います。アカデミックなやり方にこだわることなく、楽しくて、面白くて、幅広くて、多面的で、ゆるい感じで。

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はるかが沢山のトラブルを抱えて生まれて、当時入院していたNICUに通う車中、どっしりと存在感のある富士山が見えて、とても美しいと思いました。そして同時に、はるかは富士山みたいだ、と思いました。

その時は直感的にそう思ったけど、今はなんとなくそう思った理由が分かるような気がします。

はるかはとても美しいです。持って生まれた運命を軽々と受け止め、乗り越え、全力で笑い、泣き、眠るはるかは、とても美しいと私は思っています。彼女は、彼女自身の価値をちゃんと持っていて、今はそれを曲げることなく生きているからだと思います。彼女が美しいままでいられるよう、私は彼女の健康を守っていきたい。

※この文章は2017年1月10日にFacebookに書いたものを転載したものです


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