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息子と日本旅:番外編 母の思い出

9歳のとき、生まれて初めて一人で電車に乗って旅をした。そのきっかけとなった出会いについて書こうと思う。

つなぎのジーパンをはいたお姉さんとの出会い

小学生の頃、毎年家族で秋に黒姫で開かれる朗読会に参加していた。私も姉も童話を創作するのが好きで、コンテストに応募したり朗読会で自分の作品を朗読したりしていた。

私が小学3年生のときに参加した朗読会に、つなぎのジーパンをはいた女子大生の(正確には大学院生の)お姉さんが参加していた。「なめとこ山の熊」をバリバリの岩手弁で朗読していた彼女の存在感は圧倒的なものがあって、夜行で東京に帰るという彼女を、家に一泊していきなさいよ、と誘ったのは私の母だった。

それが今泉宜子さんである。

今泉さんはとにかくよく食べた。母が夕食に用意した栗おこわも、サンマの塩焼きもパクパク食べて、父と一緒に日本酒を豪快に飲んで楽しそうに笑った。そして、朗読会で読んだ「なめとこ山の熊」の本にメッセージを書いて、私と姉にプレゼントしてくれた。私はまだ9歳で、彼女は23歳だったけれど、私達は「友達」になった。

一番大事にしていたスヌーピーのメモ帳に、「私の新しいお友達 るいちゃんへ」というメッセージと共に連絡先を書いてくれたのが嬉しくて嬉しくて、そのメモ帳を大事に大事に引き出しにしまい、その年から私は今泉さんと文通を始めた。

「宮沢賢治と私の故郷である岩手県に遊びにきませんか」という招待をうけたのはその1年後だった。私はもちろん胸を躍らせて、生まれて初めて一人で旅に出ることにした。父の助けを借りて岩手のことを調べ、宮沢賢治について調べ、雨ニモマケズを暗記して、新幹線の時間を記して旅のしおりを作った。

家族旅行に連れられていくのとは違う、自主的な「旅」を意識したのはこのときが初めてだったと思う。(とは言っても今考えると両親や今泉さんにだいぶん全部準備してもらった上での、おままごと的自主的、であった)

知らなかった世界に飛び込むときは、いつだってワクワクする。怖いもの知らずだった9歳の私も、これ以上ないほどに目を輝かせて旅にでかけた。

岩手一人旅

岩手で私を迎え入れてくれたのは、実家に戻ってもやっぱりつなぎのジーパンをはいていた今泉さんと、そのご両親。私はすぐに本当の子供のように接してくれるご両親が大好きになった。少しタレ目で優しいお母さんは「たんたんたぬきのお母さん」、静かでちょっとお腹の出た黒縁メガネのお父さんは「アザラシお父さん」と勝手に命名し、めいっぱいかわいがってもらった。二人はたくさん美味しいご飯をごちそうしてくれ、宮沢賢治のゆかりの地を案内してくれた。

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中でも今泉さんに連れられていった種山ヶ原の森の植林とスターウォッチングの集まりは、当時の私にとって驚きと発見に満ち溢れた刺激的な経験だった。森に木を植える、ということの意味、森のサイクル、全てが初めて知ることだった。何十年も何百年も先を見据えたロマンあふれる行為。木を植える、ということに強烈に興味をいだいたのもこのときだ。(その後何年か私は木を植える、ということを目指して本を読み、農学部に憧れた。)

夜は山にテントを張って、日本全国から集まった仲間たちと一緒に星を見た。バイクで岩手までやってきた、きのこに詳しい神社の神主さんもいれば、看護学科の学生さんも、会社員も、しらない地域から参加している生意気な小学生の男子もいた。夜はドラム缶のお風呂を炊いてきゃあきゃあ言いながらお風呂に入り、ずんだ餅を食べ、地元の子どもたちが太鼓を披露してくれた。あれがどんな集まりでどんな会だったのか今となってはよくわからないし、何泊かある中でたくさんの経験をしたので、いくつかのイベントが記憶の中でごっちゃになっているのかもしれないけれど、多様な集まりに身を置き、次々に新しい人達に出会う自分にドキドキしっぱなしだった。

このキャンプの中で、とても印象的だった出来事がある。

私達は星を見ながら炭焼きをして、木酢液を集めた。木酢液を集めるために一晩中炭焼きの見守りが必要で、私達はグループごとに交代で見守りをしたのだけれど、私達のグループのとき、何かのトラブルで次のグループとの交代が遅れた。夏とはいえ冷え込む真夜中の山の上で、よし、とグループにいたおじさんが火をおこしてコーヒーを入れてくれた。

もちろん小学生だった私はブラックのコーヒーなんて飲んだこともなかったのだけれど、おじさんが入れてくれたコーヒーはあったかくて美味しくて、こんなに美味しいものが世界にあったのだろうか、とふいに涙が溢れそうになった。当方にくれてしまいそうだった状況をたった一杯の手淹れのコーヒーが一転させて、みんなの空気がぐっと変化したのを感じた。

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後にも先にも、このときほど美味しいコーヒーはないだろう。いつか私もこんなタイミングでこんなふうにコーヒーを入れられる人になりたいな、と幼心に思った。

別れの朝、目が覚めると今泉さんが夜通し作ってくれた旅のアルバムをプレゼントしてくれた。たくさんの写真が綺麗にフィルムに配置され、ところどころ楽しいコメントが書かれていた。プレゼントって、こんなに心があたたかくなるんだ。こういうのが、プレゼントって言うんだな。帰りの電車の中で、ずっとじんじんと心の奥が熱を帯びていた。

25年の時を経て

今泉さんとはその後も手紙のやり取りをして、中学生のときに一度だけ東京に会いにいったことがあったけれど、だんだんと年賀状だけになり、引っ越しを重ねるうちに、ここ数年は連絡をとらなくなってしまっていた。

彼女は出会った当時、東京大学教養学部比較文化研究室というところにいた。その後、別の大学で勉強して、明治神宮の国際神道文化研究所というところに就職し、ロンドンに留学もしたらしい、というところまでは知っていた。だから今回日本を身軽に旅できることになって、久しぶりにお会いしたいなあ、と明治神宮の研究所を検索してみた。すると、ちゃんとまだ彼女の名前があったので、研究所経由で連絡をすると、当時と変わらない今泉さんの文体でメールが返ってきた。こうして私は、25年の時を経て今泉さんとまた再会することになった。


待ち合わせの鳥居の下に近づくと、50メートルくらい先から大きく手を降っている黒髪がきれいな女性が見えた。すぐに今泉さんだ、とわかった。

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25年前とかわらず美人で、知的で、やさしい今泉さんは、でも、もうつなぎのジーパンははいていなかった。

私が当時出会った年齢の息子に、今泉さんが丁寧に明治神宮を案内し、研究室を案内してくれた。明治神宮がまつっている明治天皇と昭憲皇太后のこと、お二人が創った和歌のこと、100年前に作られた杜のこと、杜と神社、湧き水と神社の関係。普段ひっこみ思案の息子はいきいきと神宮の森の静かな森の中を駆け巡り、今泉さんの説明を興味深そうに聞いていてはメモをとっていて、なんだか不思議な感じがした。

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あれからいろんなことがあって、人間関係を作り維持していくことに、つい逃げ腰になってしまうことも多かったけれど、またこうして何も変わっていないかのように彼女に再会できたことは、ただただ奇跡のようで、不思議で、生きていてよかったなあ、とこみ上げてくるものがあった。

今泉さんのしごと

息子が「今泉さんは研究所でどんな仕事をしているんですか?」と聞くと、今泉さんは、「あのねえ、本を読んで本を書く仕事をしてるの。いいでしょ?」といたずらっぽく笑ってみせた。他にも、神社の中には植物を診る専門の人、ジオラマを作る専門の人、神主さん、いろんな仕事をしている人がいた。これでもかとギュウギュウに本が積み上げられた研究室の中で嬉しそうに仕事の話をしている今泉さんを見て、息子は何を感じただろうか。

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最後に今泉さんの著書を2冊ご紹介。

「明治日本のナイチンゲールたち」今泉宜子 扶桑社BOOKS

昭憲皇太后基金について、お恥ずかしながらこの本を読むまで全く知らなかった。人道支援や国際協力といった分野の先駆けとして世界で高く評価された昭憲皇太后の功績が、どうして日本ではこんなに知られていないのだろう。私が知らなかっただけで、みんなは普通に知っていることなのかな。開発援助に関わる人にはぜひ読んでみてほしい。


「明治神宮ー伝統を創った大プロジェクト」今泉宜子 新潮選書

今回プレゼントしてもらった1冊。明治神宮は単なる天皇をまつった神社というだけではなく、100年前に東大農学部の専門家たちが計画的に創った人工の森であることを、これもお恥ずかしながら今回初めて知った。近代日本の象徴としての明治神宮が、森としての成長、まちづくりや教育、文化など、あらゆるものことと深く関わりながら100年を歩んできたらしいということも。楽しみに読む。

本日の支出

電車代  500円

路上のアーティストの絵2枚 2500円

路上のハンドパン奏者への投げ銭 100円

おやつ(たいやき) 200円

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神宮内では今泉さんのおかげで一銭も使っていません。ありがとうございました。

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