アンクル編集子

ロイヤリティバンクの中の人。出版社勤務ののち独立し、雑誌やWEBなどに記事を執筆。柳原…

アンクル編集子

ロイヤリティバンクの中の人。出版社勤務ののち独立し、雑誌やWEBなどに記事を執筆。柳原良平作品の素晴らしさに魅せられ、本コラムの連載を開始。

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  • 柳原良平記事まとめ

    アンクルトリスの生みの親、グラフィックデザイナーの柳原良平さんに関する記事をまとめたマガジンです。 柳原良平ファン必見!

最近の記事

柳原良平主義〜RyoheIZM 39〜

描きたくない被写体 描こうと思えば 柳原良平は広告出身の画家でありデザイナーだ。発注されれば基本的にはなんでも描かねばならない。とはいえ、どんな注文があろうが柳原はプロ中のプロ。描けないものなどはない。だが描きたくないものがあるらしい。 少年時代に戦争を体験した柳原は小学校2年ですでに、すべての戦艦や重巡洋艦の名前を、漢字で読み書きができるようになっていたと。そのくらい船が好きで、そこから客船のフォルムの美しさに惹かれて「船キチ良平」になった。 船は好きでも 船につい

    • 柳原良平主義〜RyoheIZM 38〜

      切り絵と、上野リチの授業 恩師の影響 自身の切り絵について柳原良平は、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)時代に教えを受けた、上野リチに影響を受けているかもしれないと言った。 それで上野リチという存在を調べるうちに、この人がいなかったらひょっとすると柳原の切り絵は生まれなかったのでは?とまで思えてきた。彼女の授業内容や教育方針が、とても画期的だったからだ。 上野リチという衝撃 上野リチとは、フェリース・リチ・リックス(1893〜1967)というオーストリア人女性で

      • 柳原良平主義〜37〜

        切り絵のメカニズム 柳原式、切り絵の基本 柳原良平の切り絵を間近で見るたびに受けるインパクトは、どこからくるのか?とよく考える。構図や色彩感だけでなく、対象をシンプル化する潔さやデフォルメのセンスもあるのだろう。しかしよく考えると、そうしたアーティスティックな側面のみならず、職人技に裏打ちされた精密さも、ひと役買っている気がしてならない。 例えばの話だが、濃紺の台紙に円状の黄色い紙を貼れば『満月の夜』という作品になるかもしれない。だが柳原がそれをする場合、そう簡単には済ま

        • 柳原良平主義〜RyoheIZM 36〜

          横浜の表札ハーバー以外にも 柳原良平は横浜を愛したが、横浜も柳原良平が大好きだった。柳原が描く港町・横浜の絵は、横浜市民の誇りであり、自慢のタネとなっていた。だから横浜に生まれ育った多くの企業は、自社商品をアピールするため、こぞって柳原に絵やデザインを依頼した。柳原の作品は、横浜を象徴するアイコンのような存在だった。 その代表的な例が、横濱ハーバーで知られる洋菓子メーカー、ありあけで、その逸話は以前(第6回)に書いたが、他にも横浜にある多くの会社の広告デザインを柳原は手が

        柳原良平主義〜RyoheIZM 39〜

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        • 柳原良平記事まとめ
          17本

        記事

          柳原良平主義〜RyoheIZM 35〜

          子供のための抽象画 絵本を次々と 柳原良平は、絵本『かおかお どんなかお』(こぐま社刊)の大ヒットを受けて、いくつも絵本を出すことになる。『のりもの いっぱい』や『やさい だいすき』(同社刊)では、乗り物や野菜に顔を描いて擬人化し、対象物に親しみを感じさせるというやり方で子供の心をとらえた。 見えないものを描く ただ『かおかお〜』と『のりもの〜』の間に柳原は、ちょっとした冒険をしている。においという目に見えないものを描くことになったのだ。目に見えないものをどうやって描く

          柳原良平主義〜RyoheIZM 35〜

          柳原良平主義〜RyoheIZM 34〜

          絵本と擬人化 ヒットのわけは? 前回、柳原良平が描いたロングセラーの大ヒット絵本『かおかお どんなかお』が生まれた経緯について書いた。今回は、ヒットの要因について考えてみる。 たとえば子供が産まれ、絵本を買い与えようと考える親はみな、今ならばネット検索し、どんな絵本が評判になっているのか調べるだろう。口コミなども熱心にチェックするかもしれない。 大人には分からない 『かおかお どんなかお』の口コミを読んで面白いと思うのは、親はさほど面白いと思わないのに、子供が気に入っ

          柳原良平主義〜RyoheIZM 34〜

          柳原良平主義〜RyoheIZM 33〜

          絵本作家として柳原良平は絵本作家としても知られている。本コラムでも紹介した『しょうぼうてい しゅつどうせよ』(福音館書店刊)などは1964年、柳原が寿屋(現サントリーホールディングス)を退社し、サン・アドを立ち上げた年、つまり広告制作で超多忙だった時期に出版されている。ちなみに、このとき柳原は33歳。 翌1965年には、これも本コラムで紹介した『三人のおまわりさん』(学習研究社刊)で独特な挿絵を描いている。ただこの2冊は、ともに作者がおり、柳原は絵のみを担当。だがその後、柳

          柳原良平主義〜RyoheIZM 33〜

          柳原良平主義〜RyoheIZM 32〜

          PR誌と立体作品 中高時代から 柳原良平は、立体の製作も得意だった。高校時代から大阪商船(現在の商船三井)の工務部に出入りし、建造中の船が完成する前に、設計図を借りて(1/200縮尺で)模型を作ってしまったりしていたくらいなのだから。 と、この話は以前にも書いたが、柳原のアートに対する興味は、そもそも絵画など平面作品に止まっていない。実際に柳原は、寿屋時代にも立体をいくつも製作している。 ユニークなキャラクター それは、続々と店舗数を増やしていくトリスバーを応援するた

          柳原良平主義〜RyoheIZM 32〜

          柳原良平主義〜RhoheIZM 31〜

          駅を飾る大作 壁画がお出迎え 大桟橋や山下公園にほど近い、みなとみらい線の日本大通り駅。改札を出るとすぐ、柳原良平による大きな3点の壁画が出迎えてくれる。どれも柳原らしい作風なので、見る人が見ればすぐにそれとわかるが、知らない人でもこういう作品をみれば、きっと港町・横浜に来た感慨が深まるのではないだろうか。 壁画はいずれも陶器によるモザイクのような作品で、あの柔らかくて人懐っこいタッチの絵柄が5メートル四方ほどの大きさをもって目の前に立ちはだかるが、初めて観ても懐かしいよ

          柳原良平主義〜RhoheIZM 31〜

          柳原長平主義〜RyoheIZM 30〜

          リトグラフをもう一度版画の一種として知られるリトグラフ。柳原良平は55歳でこの技法に出会い、興味を持って工房に通い、熱心に作品作りに励んだ。と、この話はNo. 15で書いた。が、さらに書いておきたいことがあり、多少の重複をお詫びしつつ、ここに追記させていただく。ご興味のある方は、No. 15を読み返していただけると幸いだ。 原画の存在は? 柳原のリトグラフには原画が存在せず、その理由は、柳原自身が原版に直接描いていくからだ、と以前に書いた。その様子を、柳原良平作品を管理し

          柳原長平主義〜RyoheIZM 30〜

          柳原良平主義〜RyoheIZM 29〜

          画家、のち、デザイナー柳原良平は画家であるが、デザイナーでもあることは以前に何度か書いた。寿屋(現サントリーホールディングス)時代にデザイナーであり、多忙な挿絵画家でもあったので、確かにそのとおりではある。 個展にて 柳原は1975年からほぼ毎年、地元・横浜の『せんたあ画廊』をホームにして個展を開催してきた(現在は、画廊AKIRA-ISAOに引き継がれている)。個展には柳原ファンが大挙して訪れ、すぐにあちこちの作品の隅に、売約済みのピンが刺さる。 来場客はみな壁にかけら

          柳原良平主義〜RyoheIZM 29〜

          柳原良平主義〜RyoheIZM 28〜

          アンクルトリスと、ちびまる子ちゃん 2.5頭身の不思議 アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい! ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。だがこのふたりの秀逸なキャラクターには、2.5頭身であること以外に

          柳原良平主義〜RyoheIZM 28〜

          柳原良平主義〜RyoheIZM 27〜

          名コンビ 大ヒットしたキャンペーン 山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。 レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。 成功の要因は? 何しろ当時の社長であった佐治敬三が、のちに「端

          柳原良平主義〜RyoheIZM 27〜

          柳原良平主義〜RyoheIZM 26〜

          葛飾北斎と柳原良平 江戸末期の天才浮世絵師 『冨嶽三十六景』などを代表作とする世界的にも著名な画家・葛飾北斎(1760年〜1849年)。少年時代から版画彫りで生計を立て、19歳で浮世絵界の一大勢力のひとつの門戸を叩き、ほどなくデビューを果たして以来、生涯で34,000点にも及ぶ作品を描いた浮世絵師だ。 数の多さと多様性 作品の多さも柳原と共通するが、手法やジャンルの多様さも似ている。北斎は筆によるフルカラーの浮世絵だけでなく、モノクロの線画や版画、さらには西洋から渡来し

          柳原良平主義〜RyoheIZM 26〜

          柳原良平主義〜RyoheIZM 25〜

          ゴッホと柳原良平 アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。 ゴッホのひまわり たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。 アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひ

          柳原良平主義〜RyoheIZM 25〜

          柳原良平主義〜RyoheIZM 24〜

          海洋画家としての柳原良平 孤高の海洋画家 海洋画家と呼ばれる、船や海、港を専門に描く画家がいる。高橋健一、飯塚羚児、亀山和明や野上隼夫、世界に目を向けるとイヴァン・アイヴァゾフスキーやウィリアム・ターナーなどなど、その数は多い。 柳原良平も当然そのひとりに数えられていると思ったのだが、彼のことを純粋な海洋画家と呼ぶ記述には出会ったことがない(他の海洋画家との比較はあったが)。 船以外でも有名 もちろん、アンクルトリスをはじめ海事関連以外の作品も数多いこともあるかもしれ

          柳原良平主義〜RyoheIZM 24〜