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柳原良平主義〜RyoheIZM 42〜

アニメ作家、柳原良平


漫画家になる前から

漫画家だけでなく柳原良平は、アニメ作家でもあった。そもそもアンクルトリスは、最初からテレビCMのためにデビューさせたキャラクター。つまり柳原は、1958年からアニメーション作家でもあった。漫画家として認知されるずいぶん前からの話だ。

そして柳原は2年後の1960年に、久里洋二、真鍋博とともに『アニメーション3人の会』を設立。これは日本のアニメーションの発展のために結成された自主制作グループで、定期的に上映会を開催し、それぞれが製作した作品を上映した。

え、あの神様も!

1964年の4回目からは『アニメーション・フェスティバル』と改名され、3人だけでなく多くのアニメ製作を志す者が所属した。ここに加わった者の中には手塚治虫もいたという。

今や日本のアニメは世界中から高い評価を受け、漫画と同様、日本を代表するカルチャーのひとつと言われるまでになった。しかし柳原がアニメーション製作に取り組んでいた頃は、まだアニメーションという言葉すら定着していない時代だった。

アニメーションという言葉

『アニメーション3人の会』が発足された翌年、発起人のひとりである真鍋博が、記者会見で「今年は『アニメーション3人の会』をさらに発展させようと〜」と話している途中で、記者から「アニメーションって何ですか?」と質問が飛んだ。真鍋は「ドウガ(動画)のことです」と答えたそうだが、当の質問者は、記事上で『アニメーション(童画)』と書いたという。

つまり悪く解釈すると、(大人の鑑賞に耐えるものでなく)子供だましの作品という意味にも受け取れる。漫画もアニメも、子供の観るコンテンツに過ぎなかった当時の状況を鑑みると、致し方ない勘違いだったかもしれないが。

しかし、柳原たちが”動画”でもなく、”アニメーション”という新語を看板に掲げたのには理由があった。アニメーションの動詞形であるアニメートとは、今でこそ”アニメ化する”と訳されるものの、本来は”命やエネルギーを与える”とか、”生きている特徴を与える”といった意味を持っている。柳原たち3人は、本来なら動かない一枚の絵に命を与え、生き生きと動かすことに夢中になっていたのだ。

アニメ史

アニメーションの歴史は100年以上にわたる。アメリカでは、1910年代に産業となり、1914年に『恐竜ガーディ』などが発表される。その約10年後にウォルト・ディズニーがスタジオを設立し、ミッキーマウスの3 作目として有名な『蒸気船ウィリー』(1923年)を生み出す。これは初の本格的なトーキー(音声付き作品)として歴史的アニメとなった。

その後ディズニーは、フルカラーの長編アニメ『白雪姫』(1937年)を発表し、以来アニメ製作のお手本として、長きにわたって世界中から注目されている。2013年の『アナと雪の女王』などの成功例を見れば、誰もが納得せざるを得ない。

一方、日本でも

しかし日本のアニメ史も負けていない。日本最古のアニメとされる『活動写真』と銘打たれた3秒間(それでも数十枚の絵を要する)の作品など、1907年から1911年の間に製作されたとされており、これはアメリカでアニメが産業化した時代にあたる。その後も北山清太郎の『猿蟹合戦』をはじめ、多くの作品が発表され続けた。

日本が太平洋戦争の真っ最中だった1943年には『くもとちゅうりっぷ』が上映され、これを観た手塚治虫は、お手本はディズニーばかりではないのだと涙を流して感激したという。ついでに言えば、同じ館内にいたもうひとりの巨匠が、『宇宙戦艦ヤマト』で知られる松本零士だった。

日本にアニメ文化が根付く

そんな刺激もあってか、手塚治虫は自身のスタジオ、虫プロダクションにアニメ部門を設置し『鉄腕アトム』を製作。そしてその2年後の1965年、フルカラーのテレビアニメ『ジャングル大帝』が実現する。

壮大な大自然の映像と、そのバックに流れる冨田勲による、これまた壮大なオーケストレーションがシンクロする『ジャングル大帝』のオープニング。これを観て鳥肌を立てながらワクワクする者はいても、子供だましなどと揶揄する者はいない。

この『ジャングル大帝』は海をわたり、アメリカで『Kimba the White Lion』として放送されるまでになる。それが結局は、パクリと噂されるほど内容が酷似した、よりによってアニメの本家ディズニーの『ライオン・キング』(1994年)となり、それがミュージカル化され、日本に逆輸入(?)されているのを見ると、皮肉な展開というより、日本産のアニメが誇らしく思えてくる。

柳原たちの役割

途中で、話が逸れたと思われた方もいるかもしれない。だが言いたかったのは、そんな輝かしい日本のアニメ史上においても、柳原良平が重要な役割を果たしていたということ。

日本のアニメの歴史において、アンクルトリスは『鉄腕アトム』より前に発表されている。ただしそれはCMというジャンルにおける短い秒数のアニメだ。しかし柳原は、それだけでは満足できず、CMのように制約を受けることのない本格的な作品としてのアニメ作りを模索し『アニメーション3人の会』を立ち上げ『池田屋騒動』(1964年)などを製作したのだ。

アニメ製作はとかくお金がかかることで知られているが、CMのようにスポンサーのつかない自主制作グループの上映会は、完全自腹の赤字興行だったと聞く。身銭を切ってまでアニメーションの発展に賭けた3人の魂は、やがて多くの賛同者を生み、日本のカルチャーを代表するまでに育った、と書くのは決して大袈裟ではないと思う。(以下、次号)


※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。                                                                                                                  

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