柳原良平主義〜RyoheIZM 33〜
絵本作家として
柳原良平は絵本作家としても知られている。本コラムでも紹介した『しょうぼうてい しゅつどうせよ』(福音館書店刊)などは1964年、柳原が寿屋(現サントリーホールディングス)を退社し、サン・アドを立ち上げた年、つまり広告制作で超多忙だった時期に出版されている。ちなみに、このとき柳原は33歳。
翌1965年には、これも本コラムで紹介した『三人のおまわりさん』(学習研究社刊)で独特な挿絵を描いている。ただこの2冊は、ともに作者がおり、柳原は絵のみを担当。だがその後、柳原はひとりで絵本の大ヒットを飛ばす。
いきなり大ヒット!
『かおかお どんなかお』(1988年、こぐま社刊)がそれだ。全編切り絵による作品で、ピンクの円の中に目や鼻、そして口が、ページを追うごとに加わっていって顔が完成し、そのあとは楽しい顔や悲しい顔など、さまざまな表情が登場していく。
この本を出すことになったのは、丸善で行われた『漫画家の絵本の会』による展覧会が発端となった。年に一度、丸善では絵本を出版している漫画家が集まって、それぞれの描き下ろし作品を展示するイベントが開催されていた。元こぐま社の編集者、関谷裕子氏が柳原との出会いについて話してくれた。
きっかけは展覧会
「1987年のこと、こぐま社の創業者、佐藤英和ともうひとりの編集者と一緒にこの展覧会に行ったんですけど、手塚治虫先生をはじめ永島慎二先生とか、そうそうたる方々が、それぞれの作品を展示していらっしゃいました。その中にひと際シンプルで、いろんな顔が描かれている、切り絵による一連の作品が飾ってあったんです。それを見た瞬間、『あ、これ絶対に赤ちゃんは大好きだ!』って思ったんです。創業者の佐藤もそう思ったらしくて。それで、この作品を作った柳原先生のところに行って『これ、絵本にしたいです』って言ったんです」
このときは文字やストーリーなどは何もなく、単にいろいろな表情の顔が切り絵で表現されていただけだった。幼児を惹きつける絵かどうか、見た瞬間にピンときたというのは、関谷氏の、絵本の編集者ならではの勘だろう。
絵本の特殊性
関谷氏は言う。「絵本って特殊なんです。作る人(著者、編集者)も売る人(出版社、書店)も、買う人(親、図書館)も全部大人なのに、読む人だけが子供っていう。そんな出版物は、他にないですよね」
確かに。子供が興味を示すかどうか見極めるためには、子供の目を持たないとならない。言うのは簡単だが、いい大人にとってはなかなか難しい。絵本の特徴はもうひとつある。
独特な出版事情
「大人の本だったら、世の中が変われば新しいものが売れたり、賞を獲ったら売れたりしますでしょ。でも子供の絵本の場合、何十年前の本がいつまでたってもいちばん人気があったりするんです。新刊がなかなか勝てないから編集者としてはなかなかツラいです(笑)」
柳原も関谷氏の話を聞いたとき、これが本になるのか?と半信半疑だったらしい。だが出版してみたら大ヒット! 以来、快調に重版を重ね、2024年3月の時点で、なんと128版(!)という超ロング・セラーぶりを誇っている。
「先生も『本当に売れるの?』っておっしゃってました。でも大ヒットでした。その後も重版を繰り返しているのを見て、先生の奥様が『本当にすごい本ね、あの本は』っておっしゃってました」
顔を並べた理由
しかし柳原は1987年の展覧会で、なぜ顔の切り絵などを並べたのだろう。『漫画家の絵本の会』での描き下ろし(切り絵だから切りおろし?)だから、最初から子供向けに、という意図はあったはずなのだが。関谷氏は言う。
「ずいぶんあとになってから先生に『なんであの展覧会のとき顔だけをずらっと並べたんですか?』って聞いたんですよ。そうしたら『うん、時間がなかったんだよ』って、それで終わっちゃいました(笑)」
絵本に挑戦する意味
結局、真意は計りかねたようだが、その後も柳原は意欲的に絵本に取り組み、出した本を次々にヒットさせる。柳原には、絵本に取り組む意味があった。
「先生がおっしゃっていたのは、描いたのが柳原良平だからっていうんじゃなくて、中身に惹かれて初めて選んでもらえるということ。先生って本当に有名な方だから、大人は何をやっても『ああ、柳原先生の〜』っていう評価になりがちじゃないですか。そういうこと関係ナシで選んでもらえるっていうことに意味があるんだって。『絵本は真剣勝負だから。小さい子の絵本は、それが嬉しいんだよね』ともおっしゃっていました。本当にそうだと思います」
赤ちゃんは柳原良平など知らない。面白いと思わなければ見向きもしない。子供が淘汰する絵本の世界は、ひょっとしたら大人向けの本以上に、厳しい実力主義が貫かれているのかもしれない。(以下、次号)
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