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柳原良平主義〜RyoheIZM 36〜

横浜の表札

ハーバー以外にも

柳原良平は横浜を愛したが、横浜も柳原良平が大好きだった。柳原が描く港町・横浜の絵は、横浜市民の誇りであり、自慢のタネとなっていた。だから横浜に生まれ育った多くの企業は、自社商品をアピールするため、こぞって柳原に絵やデザインを依頼した。柳原の作品は、横浜を象徴するアイコンのような存在だった。

その代表的な例が、横濱ハーバーで知られる洋菓子メーカー、ありあけで、その逸話は以前(第6回)に書いたが、他にも横浜にある多くの会社の広告デザインを柳原は手がけている。

おしゃれスーパー

国際貿易港として、戦後における日本経済の発展を牽引した横浜港。そのお膝元である横浜元町で、1958年に開店したスーパーマーケットが、もとまちユニオンだ。

世界中から珍しい商品がいち早く届くことに加えて、横浜に駐留していた米軍関係者の利用を見込んで、日本ではあまり見ない商品を数多く扱ったユニオンは、洗練されたスーパーとしてのステイタスを築いた。ここでしか手に入らない商品を求め、遠方から来店する日本人客も多かった。

そんなユニオンでは1980年ごろ、大創業祭のポスターに、柳原による白い帆に赤い”U”の字がデザインされた帆船の絵を使用した。老若男女が楽しそうに乗っている白い帆船。そんな船が青い海と空に浮かび上がる、スッキリしたデザインのもので、港町・横浜のおしゃれなスーパーのイメージを端的に表現した。

シルクセンター

輸入品を扱ったユニオンとは逆に、輸出による戦後の発展に目を転じると、重要な輸出品としては生糸と絹製品が真っ先に浮かぶ。そんな絹貿易の振興、発展を目的に設立された財団法人シルクセンターは大桟橋近くにあり、ここも横浜のシンボルのひとつとなっている。

そしてここでも、ショッピング・アーケードで扱うショッピング・バッグに柳原の絵を起用した(1970年ごろ)。土産を買う外国人の船員に商品を手渡す女性店員の姿が描かれており、微笑ましい。

旅行社、FM局、乗車券

モダンな観光地としても発展した横浜だが、柳原は市内の旅行社のパンフレットで表紙を描いている(1979年)。観光中のカップルが描かれているが、肩からカメラを下げた男性の顔は”例の”メガネ男、つまり柳原自身だ。ということは隣にいる女性は柳原夫人だろうか。

横浜を拠点に発信するNHKの横浜放送局(横浜FM)も、1977年ごろに作った番組表の表紙には柳原お得意の、船の絵を使った。イギリスの豪華客船、クイーンエリザベス2が入港する様子が描かれている。

また馬油を使った横浜生まれのスキンケアクリームのパッケージ(12種類)や(2023年)、横浜ロイヤルパークホテルの30周年記念で発売されたオリジナルサブレ缶(2023年、冒頭のビジュアルが印刷されている)にも、柳原の描いた作品が使用されている。

さらには1980年に100周年を迎えた横浜商工会議所を記念して、市営バスと地下鉄の乗車券をセットにしたものに付けられたビジュアルも柳原の絵だし、1985年には石川町駅前郵便局で柳原が描いたペン画のスタンプカードというのもある。1993年には、横浜市立元街小学校の創立120周年記念として、柳原による小学生の絵がプリントされたTシャツが製作された。

シウマイの醤油差しまで

シウマイで有名な崎陽軒も、横浜を代表する企業のひとつとして知られているが、ここでも柳原は活躍。シウマイの箱にひょうちゃんというニックネームの、陶器によるひょうたん型の醤油差しが入っており、何人かの画家がこのひょうちゃんに顔を描き込んでいるのだが、柳原もそのひとりとして参加している。2008年の創業100周年記念のときだ。

とまあ枚挙にいとまがないが、こうしたことから柳原は、横浜の経済発展を、ビジュアル面で支えてきたことがわかる。またあらゆる業種にわたって使用されていることにも驚かされる。それだけ柳原の絵は、横浜中から求められていた。

横浜に来た人はさまざまな場所で、知らず知らずのうちに柳原の絵やデザインに触れていたはずだ。まるで横浜という家の表札のように。(以下、次号)


※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。                               

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