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地元エッセイ(4)おじいちゃんは七夕エンディング

 毎年七夕には必ず実家に連絡するようにしている。

 理由は祖父の命日だからだ。

 あの日のことは今でも思い出せる。病床についている祖父のもとに学校に行く前に寄った。起きていなかった。頬は痩せこけていたけれど、物心ついたときからそんな人だったから、特に驚きもしなかった。

 ぼくにとってはいつもの祖父だったわけだ。

 祖父との二人での思い出はあまりない。思い出せるのは学校に帰って居間に行くと、コタツに入ってテレビを見ている姿だ。
 
 うちは年がら年中こたつを出していた。もちろん夏にはこたつ布団はつけていなかったし、コンセントも抜かれていた。

 学校から帰ってきて、玄関と居間の間にランドセルを置く。
 そのときに必ずと言っていいほど目に入った、祖父がテレビを見ている姿。笑点か相撲だった。

 笑っているところも、熱くなっているところも思い出せない。
 
 犬の散歩から帰ってくると、その横で宿題をすませたけれど、教えてもらった記憶はない。

 小学生の頃、本を読んでいるところを見てもらいサインをもらうという宿題があった。
 
 父は仕事で、祖母は夕食を作っていたから祖父に読み聞かせをした。

 わざわざ声に出して読む必要はなかったけど、国語の時間に気持ちを込めて読んでいると褒められたことがうれしかったのだろう。

 読み終わっても祖父は何も言わなかった。ただサインだけして、テレビに目を向けた。読み聞かせをしている最中もテレビから目を離さないでいた。

 三回目くらいで、テレビが聞こえないから、と断られ、それからは犬に聞いてもらって、自分ぽくない字でサインした。

 コメントも書かないといけなかったので、本の内容と読んでいるときの工夫点を客観的に書いた。

 先生からは「すごく素敵なコメントですね」と褒められたけど、全くうれしくなくて、むしろ悲しかった。

 その宿題はとある頃から全くなくなった。低学年だけの宿題だったのかもしれない。

 祖父はぼくが中学生になってから入院した。
 それから祖母が泊まり込むようになり、その間の夕食は父と外食になった。電車で通う高校に通っていた兄を迎えに行ってその流れでテキトーにすませた。

 いつも行く中華屋の近くにゲームショップがあって、毎回寄ってくれたから、ぼくはずっと祖父が入院してくれていたらいいのに、と思っていた。

 そんな矢先、祖父が亡くなった。ぼくが中学二年生のときの七夕の日だった。

 授業で七夕のお願いごとを書いていたときだった。ぼくは書くことがなくて、世界平和って書いた。そのあと五分も経たないうちに先生から呼び出されて、祖父が亡くなったことを告げられた。

 病院は学校から徒歩圏内にあるところだったけど、ぼくがその日学校に戻ることはなかった。ぼくは、ラッキーとしか思っていなかった。

 祖母の言葉を聞くまでは。

 祖母は気が動転していたのだろう。

「あんたが、朝に来たから未練がなくなって天国に行ってしまった」と言った。

 ぼくはその言葉で泣いた。

 でもその場にいた誰も、ぼくがそんな理由で泣いたのだと分かる人はいなかったと思う。それくらい、その場の空気は悲しみに埋めつくされていた。

 次の日の葬式、子どもだったぼくはすることもなかったので、従兄弟と遊ぶことにした。その当時、兄が買ってきたバイオハザードにハマっていたので、一緒にプレイしようと誘った。

 しかし従兄弟は首を横に振った。

 戦国無双やメタルギアも勧めてみたけれど、やりたがらない。

 理由を聞くと、「こんな日に人が死ぬゲームなんてやりたくない」とのこと。

 ぼくは「バイオはゾンビだからもう死んでるけど」と言って一人で笑った。

 今思えば、従兄弟が正しい。だけどぼくは当時早くゲームをやりたいという一心でいっぱいだった。

 多分それくらい祖父のことがどうでもよかった。

 翌日、学校には行かなかった。学校の制度で、忌引は当日、お通夜の日、葬式、翌日まで休んで良かったからだ。ぼくは別に悲しくなかったけれど、ラッキーと思って、そのルールをフル活用してゲーム三昧。

 祖母からの言葉、バイオハザード事件、ずっと入院していてくれと思ったこと、葬式で泣かなかったこと、次の日ラッキーと休んだこと。

 七夕の日になるとこれらのことをぶわっと思い出して申し訳なくなる。あの頃、僕はあまりにも幼すぎた。

 だからぼくはいつも七夕に、祖父に線香をあげてほしいと実家に電話をするのだ。

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