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黄金時代のオランダのレース ー 小さな貿易大国 ー その1

 私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。


ネーデルラント連邦共和国

ー オランダの歴史

 現在、私たちが知っているオランダ王国は、その昔ネーデルラント17州と呼ばれる現在のベルギーなども含む広大な地域の一部だったのです。

 このネーデルラントは16世紀のおわりまで、ブルゴーニュ公国から婚姻により相続したスペイン系ハプスブルク家が統治する領土のひとつでした。16世紀末期に【 ユトレヒト同盟 】を結んだ北部の7州が英仏両国と批准した【 グリニッジ条約 】により、半ば一方的にスペイン国王フェリペ2世の統治権を否認してネーデルラント連邦共和国を成立させてしまいます。

 この一方的な北ネーデルラントの主張を認めない旧宗主国のスペインとの戦争は、共和国成立後も続きやがては三十年戦争に発展します。

 こうして、小国のネーデルラント連邦共和国の諸州は大国スペイン王国を前にして、国を富ませるために1602年にアムステルダム証券取引所と合同で有名な【 連邦東インド会社 】を設立しました。

 私たちが歴史で習った【 オランダ東インド会社 】は、こうして誕生したんですね。この会社設立が契機となってネーデルラント連邦共和国は東アジアに進出して当時香辛料貿易を独占していたポルトガル王国からその覇権を奪い、海上貿易立国として繁栄しました。(連邦共和国全体では、対アジア貿易よりも、バルト海と地中海を経由した海上貿易の利益がほとんであったのが実情らしいです…)

 この国際貿易によって商都アムステルダムに富が流入して、17世紀は【 オランダの黄金時代 】と呼ばれているんです。

 総督のオラニエ公を頂点とする連邦共和国では、貿易による商人の地位は向上して貴族のような暮らしぶりをする富裕の商人もあらわれました。

17世紀の画家ピーテル・ヤコブスゾーン・コッデの描いた商人の家族の集団肖像画https://wikioo.org/paintings.php?refarticle=AQQSZG&titlepainting=Family+portrait+with+husband%2C+wife+and+two+daughters+seated+at+a+table+draped+in+red+cloth%2C+a+son+playing+a+lute%2C+another+son+holding+a+fiddle+beside+a+lady+playing+the+virginal%2C+a+maidservant+pouring+wine+by+the+window%2C+and+a+dog+resting+on+the+floor&artistname=Pieter+Jacobs+Codde

ー 商人たちの時代

 17世紀の半ばまでネーデルラントでは宗主国であった( 南ネーデルラントはスペイン領のまま )スペイン王国の影響を受け、彼らのファッションにもそれは色濃く反映されているんです。

 漆黒の衣服に純白のラフ(襞襟)や襟とカフスを合わせたファッションは、当時カトリックの守護者を自認したスペイン王国で好まれた重厚なスタイルでした。

 さらに、オランダの商人たちのあいだで信仰が広まったカルヴァン派の質実で敬虔な教義もあって、内省的な黒一色の衣服は商人たちに好意的に受け入れられたのでした。


黄金時代のレース

ー 富裕の証し

 南ネーデルラント(現在のベルギー周辺)は古くから、上質な羊毛と亜麻織物の産業で経済的に豊かでした。レース産業もそのような南ネーデルラントで発展することになります。

 北ネーデルラントのハールレム周辺では、この亜麻の原料となるフラックスの高い漂白技術と紡績技術で知られていました。

 ハールレムで精錬された白くしなやかな亜麻糸があったからこそ、南ネーデルラントのとくにアントワープ周辺を中心とする地域で優れたレースが作られるようになりました。

ミヒール・ヤンスゾーン・ファン・ミールフェルトが描いたザーラ・ファン・ボスハールトの肖像
カットワークによるレースを嵌め込んだコイフを被っている
ヨハネス・コルネリスゾーン・フェルスプロンクの描いた
『ハーレレムの聖エリーザベト病院の理事たちの集団肖像画』
カットワークレースが嵌め込まれた17世紀初頭の女性用コイフ
この時代には珍しくコットンモスリンで作られている

 スペイン王国とは異なり、南北ネーデルラントの商家では【 コイフ 】と呼ばれるボンネットが好まれました。敬虔なプロテスタントである商人の妻や娘たちは髪を隠し、二種類のコイフを重ねて着用しました。このために禁欲的な頭巾は【 ダッチ・コイフ 】と呼ばれているんですよね。

 このようなカットワーク・レースで装飾された【 コイフ 】のいくつかがヨーロッパの博物館などのレース・コレクションに残されています。よく知られたものでは、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に所蔵されている幼児用の小さな【 コイフ 】があります。

ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の幼児用コイフに幾何学モチーフとS字モチーフが見られますhttps://collections.vam.ac.uk/item/O90001/babys-coif-unknown/
幾何学モチーフとS字形のモチーフを組み合わせたデザインは
ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の幼児用コイフにも見られる当時の流行です

 通常はリノンやゴーズなどの亜麻製の織物をつかって作られることの多い【 コイフ 】ですが、私のコレクションのものは17世紀初頭当時では珍しいコットン・モスリンで作られているんです。

 モスリンはベンガル地方、現在のバングラデシュの都市ダッカを中心に手織りにより製造されていました。

 西暦2世紀頃には既に非常に高価な綿織物として扱われていたそうで、古代オリエント世界に広く流通していたことが知られています。当時ギリシャや中東の商人により象牙や鼈甲、犀角などとの取引にコットン・モスリンが対価として利用されていたそうなのです。

 モスリンはヨーロッパ人がインドに渡る遥か以前から、バリガザの港からの貿易によってインド周辺の各地へと広まっていきました。

 15世紀末にヴァスコ・ダ・ガマによりインド航路が開拓されたことで、ポルトガルによりインドの綿織物はインドネシアとの交易品として香辛料と交換されていました。

 北ネーデルラントでは連邦東インド会社による直接貿易を行うことで、キャリコやモスリンなどの珍しいインドの綿織物がムガル帝国から17世紀から18世紀にかけてヨーロッパにもたらされました。

 17世紀当時にはコットンモスリンはヨーロッパでは非常に貴重で高価な織物だったので、裕福な商人は自らの富をあらわすものとして、コットンモスリンを珍重したそうです。
 

その2につづく

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