Ambient あとがき(私的な小説の方法)
アンビエントという言葉は濫用されています。かくいう私も、濫用者の一人。
だから、べつに、言語使用のガバナンスを求めて自らの首を絞める目的はありません。
なけなしの誠意で、アンビエントという言葉の使用意図だけここに書き残そうというだけです。ついでに各作品の短い解釈もつけて、これで「Ambient」という短編小説のシリーズはいったんおしまいです。
全8作、ちょうどいい分量になりました。
アンビエントについてざっくりした思考
たとえばアンビエント・ミュージックの、その空間に適した音楽、というアイデア自体が虚構なのではないかと考えてしまいます。
どんなにコンセプトを固めようとも、その場所の雰囲気を感受するアレンジの効かない主体があるはずです。したがって、いくら一人称を排除しようと、「わたしの感じた」アンビエントにしかならないのではないか、と。
ろ過装置自体が否が応でも持ってしまう個別性を、どのように追加でろ過、もしくは前もって規格化すればよいのか? これは、自然主義の徹底と、その後必定の隘路に似ているのかもしれません。
私の意図は批判ではなく、そう自覚することで見えてくるアンビエントがあるのではないか、ということです。主情的に表現してよいのだと開き直れば、その場所の拡張という方向に舵を取ることもできます。現実の場所に固執する必要もなくなります。
だだっ広い空港をリミナルスペースのように過剰に拡張することができます。ポスト・ブラックメタルのように暗黒世界の闇を執拗に描写することや、デジタル・ゲームのフィールドで勇壮さや悲哀を掻き立て、独自の楽器が奏でる音で異文化性を説明することや、郷愁の80年代をサイケデリックかつチープ感満載でノスタルジックに蘇らせることが、できます。
これら音楽の例を小説の方法と重ね合わせた上で、すべてアンビエントと呼ぶとすれば、まるで私は言葉の定義を揺るがす無法者じみてきますが、すでに実際に濫用されているわけですからしょうがないです。
無法者は「私」というよりは、「私たち」です。
そんな言い訳を用意したうえで、私はアンビエントを小説の方法論として敷衍しようとしています。
たとえば目の前に脱ぎ捨てられた一着のドレスがあります。ドレスと、そのドレスが脱ぎ捨てられた場所と状況には、多くの情報が含まれています。着用者の身長、身幅、肩幅、ウエスト、腰回りのサイズといった数値。服のデザインから垣間見える好みや性格、どのような場所に出入りしているのか。等々。
目の前にある確固たるドレスから、曖昧な、しかしとても印象的な着用者をイメージできます。それがアンビエントです。(今だけはこの場所を、言葉の濫用が許される無法地帯と思ってください)
アンビエントがはっきりした形をとると、今度は相互作用で確固たるドレスに対する印象にゆらぎが生まれます。この現実の揺れる感じ、文学タームに置き換えるなら、異化効果とでも言ったらよいでしょうか。これがまず敷衍の第一歩です。
つぎに、もし、このアンビエントの方法を、きわめて非現実的な対象にたいして適用しようとするとどうなるのでしょうか。今度はドレスの例はつかえません。抽象的になりますが、たとえば固有名詞。
実在しない、非現実の固有名詞とはなにか?
それは自分以外には感知できないなにかです。その固有名詞から受け取った印象をアンビエントに変換して表現できれば、それを凝視することできっと、象られた実在しない固有名詞が現れるはずです。自分以外の人にも感知できるはずです。
いいえ、凝視する必要はありません。アンビエントは環境音として聞き流してよいものです。小説に置き換えるなら、気軽に読み飛ばすことで、むしろ分かる(会える)のです。
もしかして、文学という制度が許さないでしょうか? 読み飛ばすことは冒涜である、として?
けれど、私たちは文学をまるで教科書かなにかのようにすみからすみまで注意して読まなければならないのでしょうか? 学則に忠実な生徒会役員のように? あるいはPTAの会長を親にもつ哀れな一人息子のように?
そういう場合もあるでしょう。
ケース・バイ・ケース、ということにしておきましょうか。
短編小説としての Ambient
以下が、書き始める前の注意事項でした。
最低限の可読性があれば、文体・構成は自由
約2000文字にとどめる
不用意な漢字の多用しない
「取り囲まれている」というイメージ
上の3つはリーダビリティに関係しています。文体・構成を自由にいじってよい代わりに、分量はなるべくコンパクトにしました。それ以上の長さは、書き手のひいき目を入れてもなかなか、読みたいという気持ちをもたらしてくれませんでした。
漢字については言わずもがなです。個人的な趣味を反映すると、漢字は、湿った岩の下の虫のように増えてしてしまうのですが、趣味的な好みは方法論にはなり得ないので、今回は減らしていく方針でした。
「取り囲まれている」というイメージは重要です。あらゆる象徴に反映されます。一作品ずつの短評の中で、個々に触れていけたらいいと思います。()の中に簡単にまとめました。
/ のうしろは対立するイメージです。
まえもって断っておくと、じつのところ、陰鬱な話ばかりです。
https://note.com/rootroom/n/n19ff64e59128?magazine_key=m96ac45fabf27
https://note.com/rootroom/n/n8d9edaeba697?magazine_key=m96ac45fabf27
蛇足1:異なる入り口と、同じ出口(だけど出口も複数口)
これは8作書いたあとに立ち上がってきた命題です。言い換えると、
たとえば、眼の前にあるPCは、私が所有するPCですが、PCという言葉は普遍です。私の所有している言葉ではありません。逆に言えば、あらゆる固有のPCの束として厚みのある言葉ということでもあります。
そのため、その言葉を使うということは、様々な時代の、様々なメーカーの、さまざまなスペックのPCとのあいだのリンクが取り付けられることだと考えることができます。
この取り囲まれた言葉を可視化することは、アンビエントという方法の一つの徹底となるはずです。が、それをやるとすれば、書かれるものは極めて複雑難解なものとなり、他者からの理解を拒みます。
その点、聞き入らなくてもいい、無視してもいい、というアンビエントの条件に適応していなくもないですが、少なくとも私には、小説とはそのようなものであって良いのか、もっと低俗であるべきなのでは、という思いがよぎります。
この方法論の先の、きらめく結晶のような完成形は魅力的です。しかし、私は一度これとよく似た方法論を先取りし、それによって隘路に陥ったことがありました。
異なる入り口なのに、同じような出口が用意されているとは、奇妙なことです。
アンビエント:現実は言葉でしかなく、それらの言葉を関係性として取り出す。そのとき、言葉の関係性自体が変化する。
リバースリアリズム:すでにある言葉によって現実を再構成する。そのとき、たった今書いた文章(言葉)は過去に向かって引用される
※リバースリアリズムという思いつきについては下記記事にざっくりとした記述あり
蛇足2:未開の紀行文
アンビエントの記述法として、紀行文のスタイルが可能だったかもしれません。ただし、楽しむために必要となる前提知識が多すぎるという見積もりとなり、実現しませんでした。
紀行文で扱うのは現実の風土と、そこに根付く文学的文脈です。この現実の風土を、フィクション内の虚構化された風景に置き換えることを試みもしました。そうして出力された文章は、評論や書評に近いものでした。そのようだと、うまく紀行文を換骨したことにはなりません。
アンビエントという形式から離れて、シンプルに「異界紀行」というかたちで異形の土地をめぐりながら、奇異なる詩情をつむぐということは、面白いかもしれません。
美でも崇高でもないものの起源を探るような・・・・・・。
と、ここまで書いてやっと思いだしたのですがすでに一度作ったことがありました。もう少しアイデアを深めて、シリーズ化できたら面白そうですが時間がたりない。
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