【短編小説】覧古
覧古
碧園外楼に登らなければ残櫂を得られない、そんな時代はとうに過ぎ去った。13年前に開発された"えんと"のおかげで残櫂に頼らなくてよくなったためである。
最近の若い子はかつて残櫂があったことを知らない。じっさい、数ヶ月前に私の公的サイト"えん鬱鬱まい"で:広げていた文章内で、残櫂に説明なしに言い及んだところ、親愛なる読者諸賢から私的サイト”まいし”の方に直接「はてな:残櫂」との指摘が矢のように飛んできた。
諸賢であってもこの通りなのである。これは残櫂に限った話ではなく、情磊々や木鉄にについても、すでに同じ状況にある。どちらも”ぽらま”や”とろこれ”といった代替物によって上書きされた名詞群である・・・・・・。
かといって、単純に若い世代を責めるわけにもいかない。どうして彼ら彼女らにカビ臭い文化防衛軍への徴兵を強制できよう? あんなものは、猫の小便の染みた小説と同じで、燃やす以外に救いはない。
それに共和王朝政府による”あにくろ”の影響も大きい。そもそもあにくろは、脳に流入する情報の過剰が引き起こす健康障害を減らす、という名目で施行された。なかでも歴史情報が人間の可用情報量を特に圧迫するという脳科学的知見が、歴史情報に対する摂取制限量を厳しいものとした。
歴史情報への鍵は公開されていて申請すれば誰でも手にすることができる、という建前は存在する。ならいいじゃないか、とはならない。なぜならその申請を出すまでに少なく見積もって 6 の事前申請と、必要書類を紙で準備する必要がある。このたらい回しによって、暇人以外にだれも歴史情報を得ようとしない時代がうまれ、それにしたがい脳に空き容量が生まれた人々の健康被害は減少する、万歳・・・・・・。
歴史情報は日々積もる埃の層を厚くしている。
(注:もしこの文章を読み込んだうえで、残櫂について知りたいという若い読者がいるなら、あむか駅前の”かいらす同年窓”という餃子バーに行くと良い。そこなら旧来の基準で、歴史に情報を取得することができる。司書は無愛想だが、私の名前を出せば多少は優遇してくれるはずだ)
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碧園外楼に登らなければ残櫂を得られない、そんな時代はとうに過ぎ去った。
しかし私はまだ、その遺物に憧れている。
金曜定時、私は即時退勤して、送信筒で約30分、あむか駅前の船沙睡と落ち合った。船沙睡の鳴らす、さりんさりん、という鈴の音を聞くと学生時代が懐かしくよみがえる気がした。
微風はぬるく、月明かりは寒い。人影の絶えた駅前を、無人循環車両だけが錆びた車体を休みなく滑らせている。
碧園外楼行の電磁切符を買うと、古い券売機に特有のしびれる感じが右掌に広がって、少し嫌な気分になった。
改札内の商業施設のすべての店舗に金属製の幕が降ろされて、もう何年になるだろう。あむか駅がこれほど暗い廃墟として成長しているとは想定外であった。まるで奥歯の虫歯のようにひっそりと勢力を強めてきたらしい。古い探訪者の記録では、いつもここは賑わっていたのだ。不幸中の幸いと言おうか、根っからの陰部好きの船沙睡にはむしろ魅力を感じさせ、奴が燐銀豆さん、と楽しげに呼ぶ声に振り向くと、食酒家廊なる飲食店街の奥に鉄幕の降りていない店が一つ。まるで私たちを誘うような黝い穴を無警戒に広げていた。
たしかに私たちは、電車が来るまでの時間を持て余していた。
鉄幕の失われていたおかげで侵入は容易であった。かつての夕暮れ時、斜めに差す赤い太陽光を反射させながら飛び散っただろう硝子の破片は、すでに粉々に砕けてきれいな砂と言えるほどの無害な粒子となりさらさら。時間だけは平等である。
見るとこの店では、今では変わり者の常食とみなされる養殖の豚や牛の肉を加熱処理したあの柔物を提供していたらしい。写真付きの小冊子に、食欲を減衰させる写真が自信たっぷりに一覧に表示されている。
が、じつのところ私にとって錠艦萼や髄脳麺などは好きな食べ物である。特に錠艦萼は今で言う”かまさけ”によく似た味がして、辛いものが苦手ならむしろ錠艦萼の味を気に入るだろう。(注:この文章は誤りである。執筆後、久しぶりに錠艦萼を食べる機会を得たが、辛味が強いのは錠艦萼の方であった。これも、あむか駅から無人車両に乗って5分程の場所にある食堂堂濶で食べることができる。もしその気があれば、私の名前を出せばいくらか割り引いてくれるよう言っておいた)
暗い店内を小型飛光体で照らし、船沙睡は好き勝手歩き回っている。奥の厨房はひときわ暗く、なにかしら具体的なかたちをとらない恐怖が隠れているのではないかと期待させた。日常に飽いた私たちは、そのような体験を求めていた。
しかし当然、白い光に照らしてしまうと、そこに恐ろしいものはなにもなく、業務用冷蔵庫が大きな体をさみしげに佇ませるだけだった。冷え切った内臓も今では温まっているはずだがまだ凍えるらしい。
私たちは厨房を退き、もっとも汚されていない座席に向かい合って座った。小型飛光体の電源を回して店内の再生装置を起動すると音楽が湧いた。どこかで聞いたことがあるような気もしたが私の思い出には残っていない。
悪いものではないのだろう。けれど感傷的すぎて少し下品に思われた。
私たちは職場での話をそれとなくしつつ、残念ながら互いの職場に興味がなかったために直ちに終焉した。茹ですぎの乾麺のようにぼそぼそと途切れがちの会話は、碧園外楼の話題に至って初めて多少の継続をみた。
「運良く残櫂が見られれば幸せです」
「もう概念ごと消滅してしまったのだという説もあるようです。概念泉に戻ってしまったという説です」
「その解釈が妥当であるとき、私たちの生活はとてもつまらないものになるようです」
「そのようです」
「まるで、羽をつけて飛び去ったように」
「それは、天使のようでしたか?」
「いいえ、羽虫です」
「ところで、私は途中で眠るかもしれません。あなたは私を起こしてくれますか?」
「はい、私はあなたを起こします。しかし、私も眠ってしまうかもしれません。私はとても疲れています」
「もし私たちが眠りながら黄沼まで行ってしまったらどうでしょう」
「もし私たちが眠りながら黄沼まで行ってしまったら、それは笑い話になります」
「ははは」
「ははは」
「今日を楽しみにしてきました」
「それは私も同様です」
「仕事中、ずっと壁の時計を見ていました」
「私も時計ばかり見ていました。どうして時計はあれほどまでにのろまな機械なのでしょう?」
「腹が立ちます」
「とても腹が立ちます。思い出すことは私を再び腹立たせます」
「内臓を煮る、という言葉を知っていますか?」
「その言葉を知りません」
---☆
電車が到着し、あむか駅に電車到着の放送が流れた。私たちは未練なく店を出る。小型飛光体を収納に戻したため音楽が途絶え、引いていた暗闇が満潮のようにそそくさと戻った。
駅の内部は道は入り組み、私たちは停止した可動階段を昇った。大小様々な広告で埋め尽くされ、それらの多くに人間の姿が描かれている。彼らが誰で、なにを訴えているのか、さっぱり理解できなかった。
たまに、これらの広告を面白がって収集する者を見かけるから不思議だ。性格もよく知らない人間の写真を、自分の部屋に貼ったりするというのは不気味な趣向に思われる。
電車から数匹の”まるさか”が降りてきた。私たちは会釈をしたが、まるさかたちは私たちを気味悪がって、たちどころに泳ぎ去った。
また最近の子は、という言い方になってしまうが、きっとまるさかを資料集以外で見たことがない子が過半数を占める。送信筒のほうが便利で、電車に乗る機会そのものが減っているから仕方ない。
私が子供の頃、電車に乗るときはいつもまるさかたちと一緒だった。
車内の座席に躰を沈めるなり、船沙睡が寝息を立て始めた。したがって、私は眠ることができなくなった。悔しかった。しかし、窓外の景色には退屈しなかった。
特に紫色に発光する名前のわからない花が関東平野を埋め尽くす彩は壮観だった。車内放送は時々流れたが、自動再生なのだろう、特に意味をなしているとは思えなかった。駅員の手で”じゅろう駅”に停車したとき、停止についての自動再生はなかった。
取り除かれずに残った自動化機構の残骸が、あらゆる場所で幽霊のように囁きうごめいている。
碧園外楼にほど近いじゅろう駅で降りて、私たちは山道を登る。この国の殆どが山地、つまり森で構成されていたことを思い出させる道であった。
すでに麓から、碧園外楼の荘厳な姿は見えていた。かつての宗教施設は、一度遊園施設として改修されたのち、今は誰も寄り付かない。どんな気分でこの道を歩けばよいだろう。
過去、宗教犯罪者にこの坂を登らせ、改心が無ければ天蓬崖から突き落としたというから、死へのおそれだろうか。少し過去、碧園外楼は一日に1万5千人が訪れるほどの人気施設であったというから、胸の躍る気分だろうか。
けれども私はそのとき、なにも感じなかった。
旅というのはそういうものだ。帰宅してからやっと感情が追いつく。だから私はいま筆を執ることができている、あふれる感情を記録するためだ。
私たちは碧園外楼を取り囲む、春夏秋冬を寓意する(今では灰色の土塊の積もるばかりの)庭園をまっすぐに抜け、碧園外楼に入る。両開きの扉に鍵はなく簡単に開いた。主に蜘蛛の居城と化した階段もあるが、かつて商業利用されていた時代の名残で昇降機が残っている。小型飛光体の電源を回して、私たちは最上階まで一気に昇る。相当な高さであった。
「この高さから落ちたら死んでしまうでしょうか?」
「ええ、死んでしまうに決まっています」
碧園外楼の頂上からは、星々が地に垂れている様子が見て取れた。雲は薄く、ねっとり包み込むような寒さを与えてきたが、視界が奪われるほどの濃さはなかった。あむか駅前で見たときもあの場所にあった月は等しい大きさと輝きのため、おそらく私が電車で移動したのと同じだけの距離を後ろから追ってきたに違いなかった。
私たちのほかに人の気配はない。金曜の夜に廃墟の灯台で夜景を嗜むなど狂気の振る舞いであって、繁盛していなくて正しい。けれども、野生のけだものに襲われる不安は胸裏にはためく。暗黒の山中から突き上がる獣の遠吠えに、空腹のいら立ちが感じられた。
私たちはそこに折りたたみ式の小屋を建築して籠城した。はめ込み式の窓から外の様子が見える。もし残櫂の予兆が窓に映れば、すぐにでも飛び出す準備があった。淹れた珈琲が冷め、新たに湯を沸かし、新たに珈琲を淹れ、また珈琲が冷めた。私はバックパックから紫のパテを取り出して食べた。船沙睡にもオレンジのパテを勧めたが、まだ要らないと言って珈琲を啜った。
あまり期待させても仕方ないから言ってしまうが、私たちは残櫂そのものとは遭遇できなかった。しかし、予兆に触れることはできた。それは、ありきたりと言えばありきたりだが、奇妙といえば奇妙な体験であった。
日曜日の17時35分、ちょうど太陽の尻が溶けていた。
乱反射する真紅の光線に追い立てられるようにして、そろそろ帰ろうか、としぶしぶ帰り支度を始めていた。金曜の夜から始めた観察は、取り上げる事柄のない土曜を安安と跨いで、日曜を迎え、華厳の滝の急流のようにたちどころにこの時間まで流されていた。見れなくて当然、と私たちは了承しあっていたが、心のうちではもしかしたら見れるのではないか、という期待がしっかり座していたらしい。それなりに落ち込んでいた。
私が小屋を畳んでいる間、船沙睡は真紅の欄干によりかかり、沈む太陽に視線を注いでいた。私は船沙睡の感傷的な未練がましさにいくらか同情する気分であったため、片付けを手伝わないことに文句を言わなかった。
「あそこにあるのは何でしょうか?」
私は船沙睡に背を向けていたが、その劈くような声はただならぬ雰囲気があった。私はその場で振り返り「どうしましたか」と大声で尋ねた。
「太陽の中に、暗黒の点があります」
「それは黒点というものでしょう。太陽のほくろです」
「いいえ違います。黒点についての知識は私も備えています」
「すると、そこに見えるものは黒点ではないということになりますか」
「そこにあるもは黒点ではないと考えられます」
「見せてください」
「見せてあげます」
私は片付け途中の小屋を放り出し、船沙睡のいる欄干に駆け寄った。鳳凰の彫り物が飾りとなっていて、とさかが身を乗り出す私の腹を服越しに刺した。
それは黒点にしては大きいように思われた。それどころか、見つめるうちにその大きさを増していくのだった。
「太陽がほくろに飲み込まれたらどうなりますか!」
船沙睡は叫んだ。
私は黙っていた。下腹部に、どこか馴染みのある感覚、疼きのようなものが生まれつつあったからだ。それは、えんとを生身に適用したときの、初期感覚に近いものだった。近いものと言ったのは、現実には全く違うのだが、他に似ているものが思いつかなかったためだ。すぐに船沙睡も、その感覚に気づいたらしい。口を閉ざし、私たちは互いの顔を見合った。
しかし、黒点はその大きさを頂点に、徐々に小さくなっていってしまった。私たちは穴が開くほどその黒点を見つめ、各々が異なる姿をその黒点に重ねていた。私は漆黒の薔薇であった。太陽に咲く漆黒の薔薇が、しかし、蕾から花開くことはなかった。船沙睡はそれを天使だと言った。天蓬崖の逸話に想像力が引っ張られているのだと私は思ったが、口にはしなかった。他人の幻視に口を挟むのは野暮である。
結局、下腹部に湧き上がった心地よい高揚は、熱力学の第2法則に従って冷めていってしまった。私たちは残櫂を見ることは叶わなかった。いや、見ることはできたのかもしれないが、得るまではいかなかった。
それにしても、えんとが見せる予兆と、今回の予兆の雰囲気の違いは一体何だったのだろうか。ここでも歴史的印象操作が行われていると、勘ぐってしまほどであった。えんとが幼い子供にも提供されているように、残櫂を提供してよいという判断は私には下すことができない。説明し難いが、残櫂の予兆には厭な後味があると言おうか、花園に漂う猫の死骸の匂いのような、美しい横顔の目尻に溜まった目やにのような、うっ、と一歩退かせるなにかがあった。
なんとも中途半端な話になってしまったが、おかげで現実感のある話になったと、そう考えることにしよう。
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「残櫂は見れませんでしたが、悪くない週末でした」
と帰りの電車で船沙睡は言ってくれた。私も同じ気持ちであった。私は船沙睡の顔に覆いかぶさるようにして接吻した。
帰り道、私たちは森の騒音から離れ、静かな電車の中で深く眠ることができた。あむか駅が終点なのだ。その先には電車など立ち入る隙の無い私たちの都市が狭苦しく広がっている。
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