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素朴なTwitter小説解説No.3[煙]

 卒論提出が終わりました。旅行に行きたかったですが、それも叶わずという感じで家にいます。コロナに対する憎しみは、第何回か忘れましたが、水上滝太郎の「貝殻追放」のオマージュ作品を作ったときに書いているので、よろしければ是非。貝殻追放という印象的な題は、追放したい人間を貝殻に書いて集計していた古代ギリシャの風習からとっているのですね。この多数決のなかに、善悪の判断(人間?)はなく、ただ快不快による判断(動物?)だけがあるというのがポイントです。
「そういう考え方は近代において開発(再発見)されたのであって、そもそもだれにも判断などできませんが、それは?」というような皮相な見方もありますが、そうなると、他人の目を気にして、他人の快不快の原則の中で生きることが強いられるわけで、同じく近代において開発された自由を求める権利も失うわけでしょう……。
 たしか、トリビュート作品は、魂の腐敗臭(だったかな?)という題にしましたが、まさに、この腐敗臭なるものは快不快原則で排除されるものです。これは「文学臭」という言葉も念頭に置きましたが、ともあれ、まず第一に考えたのは、「きみの魂は不快だよね」と言われたらどうすれば良いのか、ということした。どうしようもないですよね。でも、こういう場面は結構ありふれていると思うのです。多くの人が、こっそり我慢しているというだけで。

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 人間暇になると、ろくなことをしません。最近のぼくも例に漏れず、文学理論めいたことをこねくり回して遊んでいたりしています。これが結構たのしく、個人的に驚くべき発見があったので、ぜひ共有させてください。
 そもそも、日本の近代文学というのは、江戸時代(以前)の文芸作品を西欧の文学史に接続させるところから始まるわけです。いわば、レギュレーションを統一したわけですね。そのときに、要領よく継承されたものと、残念ながらこぼれ落ちていったものと、両方があります。とにかく重要な点は、江戸から明治にかけて、文学が「進化した」わけではないということです。あるのは変化であり、価値ではありません。(これは教科書的な整理だと思います)
 とはいえ「だからニホンの古典はすばらしい!」みたいなことが言いたいわけではありません。(たしかにこの前、昔使っていたガラケーを押し入より発見し、あれ、ガラケーのデザインってなんか逆にクールじゃね? みたいな気持ちになったりしましたが。)
 先にぼくの問題意識を書いておくべきでした。
 ぼくはとにかく、安易なリアリズムに違和感があるのです。リアリズムとは、一個の現実をみんなで共有することではありません(とぼくは思っています)。それぞれ固有の現実を、それぞれが所有するということです。それぞれにリアリズムがあるのです。一つの確定した法則があり、その法則に導かれて数多の小説が生成されるのではありません。その逆なのです(料理のレシピと、物理学等の公式との違いをイメージしてください)。
 今、固定されたリアリズムを抜け出す方法は「微細」か「奇抜」の徹底のどちらかしかないように思います。「微細」とは身近な物事を、繊細な感性で描きとるものです。気にしすぎ系、といってもいいです。思春期系ともいえます。逆に、年寄り系でもあります。ここには慢心があります。自意識があります。そしてなにより、ここには他人に理解される範囲での逸脱、という打算があります。「奇抜」とは文字通りの奇抜です。奇抜は奇抜なので、特に言えることがありません。これは、人の背後から近づいて「わっ」とやるの(Jumpscare)に似ています。お約束を破ることで驚きにつながると考えれば、お約束を知っているという点で多少、知的かもしれません。一見、個性的のように見えますが、効果は驚くほど均一ですし、内部のしかけもまるで「理解したいという欲望を誘発するほど魅力である自分」を前提とした鼻持ちならなさがあるように思います。そしてここにも、他人に理解される範囲での逸脱という打算があります。
 で、最後の仕上げに、「時事問題」を味の素のごとく振りかけて出来上がり、召し上がれ、となるわけです。
 それが好まれる時代もあったのでしょう。そしてそれがまさしく現在なのかもしれず、あるいはこれから数十年と続いてくのかもしれません。それどころか、ぼくが全くの無能で、言うこと為すことすべてナンセンスであるということに気づいていない(基地の中に入れない)人間である可能性も否めません。
 まあ、とにかく、この二つ「微細」「奇抜」(これらはたった今便宜のためにつけた名前で気に入ってません)の共通項は、現実に対してリアリズムを置いている、という点です。つまり、リアリズムは現実を表現する手段なのですね。ぼくはこれを転倒させるべきだと思います。現実を表現するために、リアリズムを放棄するのです。「なんだ、そんなことか」と思われるかもしれませんが、これはぼくにとってかなりの発見でした。
 これは別の言い方をすると、ものを書くときになにかを「引用する」ではなく「引用される」のだと考えるということです。すべてがひっくり返るのです。虚構は虚構として存在し、そこへ迷い込む現実を見ることが、小説における新しいリアリズム、すなわちリバース(裏返った)リアリズムです(これは、漫画の主人公が必殺技名を叫ぶのに似た冗談です)。
 核心へのほふく前進めいたさらなる換言。ふつうは生きている世界に、死んでいる世界が侵入することで作品の深みが増します。ただ、このリアリズムは死んでいる世界に生きている世界が侵入することになります。だから(?)、時間という概念も消滅します。因果関係ではなく、アナロジーによって回転する世界になると思います。それが背景となります。「自然」から自然らしさを取り出してくる従来のリアリズムは不要になります。

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出典:https://www.jinjahoncho.or.jp/shinto/shinwa/story2

 あくまでも、小説の一つの技法の可能性の提示でした。
(まとめ)リアリズム小説は、生きたふりをして死んでいる。新しいリアリズム小説は、死んだふりをして生きている。

 これが一つです。じつはあと二つ組み合わせて、バランスをとりながら一つの小説を組み上げようと考えているのですが、そのあたりのことはまた次回に書きたいと思います。

 第3回のTwitter小説は横光利一「火」でした。
 トリビュート小説「煙」は、循環ですね。「母」のモチーフと「火」のモチーフです。で、あとは書き方ですね。こういう書き方は、短編でないと難しいです。ああいうのは書き方自体が主題化するので、長くなってもあんまり意味がないです。要するに文体だからです。裸の人体も、目の前に突っ立っているだけなら、長く見ててもそんなに面白くないと思います。それがどんなにプロポーションのとれた体だったとしても。そんな感じです。
 あるいは、循環というか、回帰かもしれません。ブーメランみたいに戻ってこようとする、帰巣本能としての愛情……。

 脇道にそらしていこうという努力を怠った結果、小説の話ばかりになってしまいました。では今回はこのへんで。

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