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【短編小説】Ambient:院内は夜よりも暗かった

ベッドの上に、スマホを忘れてきていた。
財布の革の柔らかい感触しかポケットにつっこんだ手に伝わってこなくて初めて気づいた。が、スマホなんてなくても財布があればなんとかなる。ぼくは取りに戻らないことにして先に進んだ。

アルミ製の取手の扉を開けてすぐ、左に注意。この時点で気づかれてしまうかどうかは運だった。いくら静かにやってもバレるときはバレる、そう教わっていた。
今回は祈りが届いたらしい、ぼくは初めて神の存在を信じかけた。

ナースステーションの看護師は引き継ぎ事項でも記入しているらしくうつむいたまま、監視人としての役を果たしていない。暗がりで忍び足の病人の存在に、まるで気づいていない。

照明の落とされた病室の扉が一直線に並ぶこの廊下には、無限のようなものを感じる。でももちろん、無限のはずない。

ナースステーションから反対方向、無限では無い廊下の端に、非常階段へと出れる透明の非常口がある。先月、706番室で質屋を営む年寄りから、定価2400円のアイドルの写真集と交換した非常口の鍵が鍵穴にぴったり合った。秋の夜風が音もなく吹き込んでぼくのギシギシの髪ですら揺れた、というようり小刻みに振動した。

国道から上ってくる自動車の駆動音が勢い余ってナースステーションまで届いてしまう前に迅速に外に出ると、不思議と息がしやすかった。室外機のホコリまみれのトンネルをくぐり抜けてやってくる空気とは、透明感が違っているような気がしたが、思い込みだろう。

鉄なのかアルミなのかわからない、白く塗装された非常階段を下っていく。踏むと、軽やかな金属音が水滴のように落下していく。

総合病院に似つかわしい広大な駐車場が、落書きされた平板な荒野として眼下に黒黒と広がっている。この総合病院は路面店だから、すぐそばを国道が通っている。24時をまわっているとはいえ、車の通りは少なくない。電気自動車ばかりの気の抜けたような音の合間、たまに通る大型トラックは、音やら排気ガスやらを大量に撒き散らして一目散に走り去る。排気ガスのせいで空気は臭くなったと思うけど、夜空に拡散されてしまって、ぼくの鼻ではぜんぜん感知できない。

とっくに受付時間を過ぎた一階は当然真っ暗で、非常口の透明な扉は鏡の代わりになってぼくを映した。病院服の上にカーディガンを羽織ってわずかに猫背。見るからに病人ぽい風貌。それとも、自己暗示のせいでそう見えるのだろうか。

医者によれば、ぼくは疑いの余地なく病人らしい。でも、目に見えるわかりやすい病人ぽさに甘んじたくない。でも、そうは言っても、周りの目にぼくは、なんの変哲もない、正真正銘のどこにでもありふれているただの病人に見えているのかもしれない。どんなに努力したところで、病人なりの努力でしかない・・・・・・。

もう一度鍵を使って、どこかから漏れてくる光のおかげでなんとか少しずつ廊下を進む。しばらくしてその光の正体がわかったが、それは窓を通して外から入ってきているのだった。院内は夜よりも暗かった。

普段なら年寄りが肩を寄せ合う受付のソファーの列には誰の姿もない。閉め切られた正面入口の自動ドアの外から差す蛍光灯が、ソファーや受付カウンターやわけのわからない人の身長ほどもある観葉植物の真っ黒な影を、ぼくが立っている場所に向かって横倒しにしてくる。影の中から、蛍光灯に照らされた部分を眺めていると、なんともいえない不思議な気分に陥った。孤独とか、悲しみとかに近い気がしたけど、別の人だったら別の気分だと思うかもしれない(ぼくの孤独とか悲しみの気分が、別の誰かの孤独とか悲しみの気分と全く同じものになることはない)。

不思議な気分のまま歩きだしたせいで、目的の場所を通り過ぎてしまっていた。でも、見落としてしまった理由はそれだけではなかった。というのも、病院一階受付横のLAWSONはすでに閉店し完全に消灯してしまっていた。
夜中に這い出してくる奴らがたむろしないよう、なるべく早い店じまいをしてしまおうという魂胆かもしれない。ぼくのようにお気入りの写真集を犠牲にした正直者ばかりが損をする世界。

しかし、国道を渡った先に別のコンビニがあることをぼくは知っている。
小走りで非常口まで戻り、階段の手すりから飛び降りた。外壁をつたっていけば、時間はかかるが正面口まで回って行ける。
正面口のロータリーの蛍光灯が煌々と照らす道から振り返ると、さっきまで自分がいた受付を正面口の透明な開閉扉から眺められた。薄暗く、薄気味悪いだけの空間がそこに開けていた。

さいわい、誰ともすれ違わずに横断歩道を2つ渡って、調剤薬局の横のコンビニにたどり着いた。誘蛾灯か、もしくは神の国のように眩しく光っている。

店の外では店員がゴミ箱の中身を取り替えていた。ガラス越しに立ち読みをする男の頭が一つ見えた。サンダルを履いた女が店から出てきて、止めてあった軽自動車に乗り込んだ。ぼくの立っている場所を通りたいらしく、女はぼくに向かってクラクションを鳴らした。前髪がぱっくり割れていて、顎に小さな赤いニキビがあった。ぼくは軽く会釈した。

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