【短編小説】Ambient:見覚えのある後ろ姿に胸が踊った
見覚えのある後ろ姿に胸が踊った。
ぼくは早歩きで追いつき、驚かせないように体には触れず後ろから声をかけた。電車の乗り換えのための地下通路の壁に取り付けられた白色の蛍光灯の光を粉々にしてまとわせているような髪の毛が美しかった。ぼくの声に気づいてふり返ると粉々の輝きはあたりに飛び散り、横をすり抜けようとしていた老いたサラリーマンの濃紺のスーツにくっついた。
彼女の困惑した表情はややあって、ぼくのことを認識したのだろう、いくらか表情がほぐれてマスクの下で笑みを浮かべているように見えた。
地上の無計画な設計のせいで異様なほど間延びしてしまっている地下道を、むすっとした表情で下水のように流れてゆくだけの帰路に今日に限っては彩りと生気が加わっていた。ぼくは自然と背筋を正して歩きながら5ヶ月の疎遠を感じせないように努めて喋った。それは問題のない会話と呼べるもので、しかも死んだような定形の言葉も少なく、もちろんぼく一人だけのうわ言だったわけでもなかった。
もし時間がすべての人間に平等に流れているのだとすれば、空間のほうがぼくへの嫌がらせとして縮んで、不平等をもたらしているに違いなかった。今日ではない日の道は、引きちぎれんばかりに延びていたというのに。
ホームへ上るための複数の階段が近づいてくるにつれて、生返事が増えてきたような気がしていた。と、そのとき、彼女のそばに一人の若い男が歩み寄ってきて、「あ」と彼女が声を上げ、二人はぼくには理解の及ばない目配せをするやいなや、僕の隣にいた彼女は半身を翻し、ぼくと対面するような位置に立った。つまり、片側にぼくが一人で立ち、もう片側に彼女と男が腕を触れ合わせるような距離で並んで立っている。いわゆる、1:2の構図。
「じゃあ私たちこっちだから、またね。久々に話せて懐かしかった」
と言った。男は小さく首を動かし、会釈のようなものをした。二人は階段を上っていった。
ぼくは半年前に引っ越しをして路線を変えていたのだったが、一本電車を遅らせることにした。
☆
最寄り駅に降りてから、自宅に夕飯になりそうなものがなにもないことを思い出した。付近の飲食店といえば、スープが乾いたつばのような匂いのラーメン屋か、つばで炊いたような気味の悪い白米をだす定食屋くらいしかない。ぼくはコンビニに寄り、ストロング缶のダブルレモン2本を持ってレジに行った。店員に唐揚げ棒を頼むとまだ温まっていないという。他に温まっているものはあるかと聞くと、まだなにも温まっていないんです、すみません、と本当に申し訳なさそうに言った。
「謝るようなことじゃないですよね」
とぼくは言った。
一瞬、間があいて、店員は戸惑ったように「__そうですね」と言った。店員が理解していない様子だったので、もう一度言った。
「だから、謝るようなことじゃないですよね。あなたの責任なんですか? 事実として温まってないのなら、温まってない、って言うだけでいいじゃないですか。だって、それが事実なんですよね? 事実を事実として言えばいいだけなのに、どうして謝ったりするんです? ぼくなんかに謝罪してどうするんですか?」
店員は沈黙した。
店員がおずおずと酒のバーコードを読み取るとディスプレイに金額が表示されたため、ぼくはその金額を支払って店を出た。外に出てから酒をカバンに入れようとしたが、中に入れていた貸与のノートPCが邪魔で円筒形の缶を入れるスペースがなかった。薄くて、四角いものを入れることしか想定されていないカバンだった。手が冷たくて仕方ないので、ノートPCを取り出して脇に抱え、あいたスペースに酒を入れた。
少し歩いてから、やはりまだ説明が足りてないと思い直してコンビニに戻ると、店員が他の店員とレジの奥で談笑していた。横目でぼくの姿を認めるとその表情をこわばらせた。ぼくは声が届く距離まで近づいて、
「言い忘れましたけど、今回の件でなにかを改善しようとか、そういうことも一切考えないでください。事実として、ホットスナックが一つも温まっていなかった、ただそれだけのことなので。少なくともぼくはそう思ってます。だから、ぼくに謝罪するのは金輪際やめてほしいし、さっきの謝罪も取り消してください。いや、取り消したことにします、いいですね?」
と言った。
☆
夜空の分厚い雲の下からさらに高架下に潜るように歩いていると、歩道のコンクリートが割れて土が覗いていた。その土を足場に、一本のたんぽぽが健気な黄色い花を咲かせていた。ぼくはその茎を軽く蹴った。するとたんぽぽは一度傾いたあと、最初の場所に復元してきた。今度は革靴の底でねじり潰した。茎は折れ、もう復元してこなかった。それから周囲を見回して誰かがなにかを言ってくるのを待ったが、誰も見ていなかったらしい。見ていながら黙っている者がいたかもしれないが、それは結局、いてもいなくても変わらない。ぼくはたんぽぽから緑っぽい液が出てくるまで何度も踏みつけてみた。コンクリートになすりつけられた黄色い花は、その色だけがかすかに残るだけになってちりじりにちぎれてしまった。
ぼくはカバンから取り出した酒の中身をたんぽぽの上に注ぎかけた。たんぽぽはまるで「やめてくれ」と言わんばかりにそのずたぼろの茎をよじらせた。そして「お前は間違っている」とでも言いたげなオディロン・ルドンのような目を向けてきた。その反応が、ぼくには解せなかった。
「間違っているのはぼくだけか? 間違っているのはぼくだけか?」
ぼくはまた帰路についた。たんぽぽは酒にまみれながら素面で夜に取り残された。
カバンの一缶分あいたスペースにノートPCを戻そうとしたが、ぼくは脇にノートPCを抱えていなかった。どこでなくしたのか、はっきりと記憶に残っていた。ぼくは立ち止まって少し考えるふりをした。
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