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連作短編集『Lの世界~東京編』#4 第四章:摩耶

東京に暮らすL(レズビアン)たち。新宿二丁目のバーやクラブで遊び、SNSアプリで交流を広げ、オフ会に通いながら、彼女たちは日々出会いを探す・・・。不定期更新で送る、様々な年代のLたちの恋愛と人生を描いた連作短編集です。

第四章 摩耶

 恋人と別れた時、前の恋人になんとなく連絡してしまう。それが女という生き物だ。相手に未練があるとか、相手とどうこうなろうと考えているわけではない。ただ寂しくて、ふと思い出して連絡してみるだけだ。

 3年間同棲していた平野正樹と別れた高槻摩耶は、LINEのトーク一覧をスクロールし、田村春菜とのトーク画面を開いた。トーク履歴は2年前で止まっている。最後のトークは、春菜が恋人ができたと報告してきた時のものだった。恋人ができると、そのことを前の恋人に伝えずにはいられないのもまた女の習性なのかもしれない。

 春菜と別れて正樹と付き合い出してから、摩耶は、「男に走った」と非難されることを恐れて、Lの業界とは距離を置いていた。仲が良かった友達とも連絡を取らなくなり、二丁目にも行かなくなった。

 3年間、Lに関する情報は一切シャットダウンしてきた。以前仲の良かった友達が今どうしているのかもわからない。春菜が恋人とまだ続いているのかどうかもわからない。そんな状況で突然春菜に連絡するのは勇気の要ることだった。

 摩耶は慎重にメッセージを作成した。大丈夫、2年間の断絶があったとしても、春菜とは3年付き合って同棲もしていた仲だ。別れた時も特に揉めたりはしなかったし、突然連絡しても春菜なら受け容れてくれるだろう。摩耶はそう自分に言い聞かせた。

 迷った末、シンプルに「久しぶり、元気にしてるかな? 時間があったら今度食事でも行きましょう! ではでは」とメッセージを入力し、送信した。 

 LINEを送ると、意外なほどすぐに返信があった。「元気だよ。摩耶はどうしてる? 食事行こうよ」。トントン拍子に会う日程が決まり、二人は土曜の夕方、二丁目にあるカフェで再会を果たした。

 その日、摩耶はできる限りのおしゃれをして出かけた。久しぶりに春菜に会うということもあるが、もしかしたらカフェの後、どこか二丁目のレズビアンバーへ行くことになるかもしれない。そこで新たな出会いがあった場合に備えて、少しでも綺麗な格好をしておこうと考えたのだ。

 摩耶は念入りに化粧をした。ナチュラルに見えるよう、リキッドファンデーションを少量ずつスポンジに取り、丁寧に伸ばしていく。ピンク色のチークを控えめに入れる。ぱっちりとした二重瞼で目の大きい摩耶は普段はアイメイクをほとんどしないのだが、この日はうっすらとベージュのアイシャドウをぼかし、ビューラーで睫毛をくるんとカールさせた。リップブラシで丁寧にベージュの口紅をつけると、鏡に向かって笑顔を作った。髪の毛は軽く濡らし、艶の出るヘアオイルを塗り込む。摩耶の髪は細くて柔らかい癖毛で、パーマをかけていなくてもこのように髪を濡らしてヘアオイルをつければ、自然にウェーブができるのだった。

 最近買ったばかりの薄い黄色のワンピースに袖を通し、シンプルなシルバーのネックレスにやはりシルバーの大きめのリングピアスをつける。香水はGUCCIのラッシュだ。小さめのショルダーバッグを肩にかけ、7センチのヒールのパンプスを履く。パンプスの色も黄色だ。

 出かける前に玄関に置かれた全身鏡で自分の姿を隈なくチェックする。満足した摩耶は足取りも軽く待ち合わせ場所に向かった。

 カフェに着くと、春菜が先に来て待っていた。そうだ、春菜はどんな時も必ず待ち合わせ場所に自分より早く来て待っているのだ、と摩耶は思い出した。摩耶の姿を認めると、春菜は微笑んで手を振ってみせた。ジーパンにパーカーというラフな格好なのに、スタイルが良いせいか決まって見える。

 春菜に会ったのは3年ぶりだったが、まったく変わっていなかった。シャープな顔の輪郭、アンニュイな雰囲気を醸し出す切れ長の目、長い前髪を手でうるさそうに掻き上げる癖も変わっていない。別れて3年以上も経つというのに、春菜の姿を見てドキドキしてしまった自分に摩耶は戸惑った。そんな気持ちを悟られないようにさりげない笑顔を作り、春菜の向かいの席に腰掛けた。

「どうしよう。まだ早いけど、飲んじゃおうか? この後なにかある?」

 春菜がメニューを見ながら言う。摩耶はなにもない、と答える。

「じゃあ私は赤ワイン。摩耶は?」

「私も赤ワインにする」

「つまみは適当にソーセージとかサラダとか頼んで、お腹が空いたらまた頼もう」

 春菜はさっとメニューを決め、てきぱきと店員を呼んでオーダーする。こういうところも気に入っていた、とまた思い出す。

 春菜とはうまくいっていたのに、自分が同じ会社の正樹を好きになり、別れてしまったのだった。それでも春菜は恨み言ひとつ言わなかった。「まあ長く付き合ってれば心変わりすることもあるよね」と言っただけだった。

 本当は、摩耶は春菜に引き留めてほしかった。摩耶が春菜と暮らしたマンションを出て正樹の家に引っ越すことになった時、春菜に泣いて喚いて「行かないで」と言ってほしかった。けれど春菜は最後までクールを貫き通した。そういう性格なのだ。

「で? 急に連絡してきたってことは、どうせ男と別れたんでしょ」

 鋭さも昔と変わらない。摩耶はたじたじとしつつも、少しずつ自分の状況を話し始めた。

「なるほどねー。35歳になった摩耶を捨てて、若い女に走ったわけだ。ま、男なんて結局若い女が好きだからね。それで摩耶はこれからどうするの?」

「とにかく一刻も早く引っ越したいから、引っ越し先を探してるところなの。だけどちょうど今引っ越しシーズンで、全然物件がないのよ」

 摩耶は暗い表情で続ける。

「彼と一つ屋根の下にいることはもう限界。どんな部屋でもいいから即引っ越したいと思ってるの」

 春菜はしばらくなにかを考えているように黙っていた。少しの沈黙の後、おずおずと言った。

「あ、もしよかったらさ、しばらくうちに来る? 引っ越し先が決まるまで。まだ前と同じところに住んでるんだよ」

「え、でも、彼女さんは?」

「うん、しばらく前までは一緒に住んでた。でもちょうどというか別れて、今は一人なのよ」

「そう、春菜も別れちゃったんだ。でもいいのかな、ご厄介になっちゃって」

「気を遣わなくていいよ。もともと摩耶も住んでた家じゃない。家賃とか光熱費を折半にしてもらえれば私も助かるし。私の仕事も時間が決まってないし、食事なんかもバラバラになると思う。シェアハウスみたいに、自由に暮らそうよ」

「そうか。それも面白いかもね」

「じゃあ決まり。今日は3年ぶりの再会と同居を祝して、飲もうよ。いいバーがあるんだ」

 カフェを出た後、春菜が知っているというレズビアンバーへ向かった。摩耶にとっては3年ぶりの二丁目である。店は結構入れ替わり、新しい店がたくさんできていた。以前よく行っていたJackはまだあるようだが、春菜はJackのようなうるさい店を好まなかった。

「春菜は最近、よく二丁目来てるんだ?」

「元カノが好きで、あちこちの店の常連だったの。彼女に連れられて行っているうちになんとなく通うようになってね」

「ふーん。やっぱり二丁目行くと出会いある?」

「出会い目的というより、常連同士で盛り上がってる感じかな」

 春菜は仲通りを脇に逸れたところにある雑居ビルの前で足を止めた。エレベーターで4階まで上がる。

「ここは常連が多い店だけど、皆いい人だし、ママも優しいから安心して飲めるよ」

 春菜がドアを開けると、「あらハルちゃん!」と店のママが陽気に呼びかけた。早い時間だからかカウンター席にはお客が一組しかいなかった。

 春菜はラフロイグのロックを頼んだ。ラフロイグを飲んだことのなかった摩耶は、春菜の真似をして同じものを頼んだ。薬のようなくさい匂いが鼻をつく。

「無理してウイスキーなんて飲まなくていいのに」と春菜が笑う。

 摩耶は酔いたい気分だった。男との単調な生活に倦んでいた摩耶にとって、久々に味わう非日常だった。

「どんな人だったの? 元カノさんって」

 摩耶は酔いにまかせて聞いてみた。こちらから聞かないと、春菜はなかなか自分のことを話してくれない。

「うーん。一言で言うと、すっごく綺麗な人だった。それなのに性格は男っぽくて、さっぱりしてて」

 春菜が思い出すように言う。その表情から、まだその元カノに気持ちを残していることは明らかだった。

「どうしてうまくいかなくなったの?」

「うまくいってたよ。すごく。でも」

 春菜が言葉を止める。摩耶はなにも言わずに続きを待っていた。

「旦那さんがいたの。子供も」

「え? 一緒に暮らしてたんだよね?」

「うん。旦那さんとは別居で、籍は抜いてなかったみたい」

「そんな。それが原因で別れたの?」

「いや、それだけじゃないんだけど」

 歯切れ悪く言う。あまり話したくないんだなと思い、摩耶はそれ以上追及するのを諦めた。

***

 摩耶が荷物をまとめて正樹の家を出たのは、それから一週間後のことだった。荷造りは春菜も手伝ってくれ、引っ越し当日はわざわざ友達からトラックを借りて荷物を運んでくれた。摩耶の持ち物は30代の女性にしては少ないほうだったから、トラック一台でなんとかなった。

 摩耶が出ていくその日、さすがに正樹は落胆していた。

「なにか困ったことがあったらいつでも言って」

「うん。でももう連絡しないと思う」

 ぴしゃりと摩耶が言うと、正樹は傷ついたような顔をした。春菜とともにトラックに乗り込んで出発した摩耶を、正樹は歩道からいつまでも見送っていた。

 トラックは懐かしい道を進んでいく。あ、このお店まだあったんだ、こんなお店ができたんだ。摩耶はずっとはしゃいでいた。

 春菜のマンションに着くと、自分が住んでいたときとはなにかが違っているのに気づいた。まず家具の配置が違う。壁にかかっている絵も違う。カーテンも違う。前の女の好みか。

 同棲していたときは同じベッドで寝ていたが、別れた今はさすがにそれはまずい。春菜は自分がソファで寝る、と主張したが、摩耶は頑として自分がソファで寝るから春菜にはベッドで寝てほしいと言い張った。居候の身で甘えるわけにはいかない。

 ダイニングと二つの部屋がついており、かつて摩耶の部屋だったところに摩耶の荷物を置く。今ではその部屋はもったいないことに物置のような使われ方をしている。次々と荷物を解き、あと2~3個の段ボールを残すのみとなった。

「一気にやると疲れちゃうよ。ちょっと休んだら?」

 春菜がコーヒーを淹れてくれる。

「そうだね。ありがとう」

 二人でダイニングに移動する。

「ねえ、摩耶はこれから出会いを探すんでしょ?」

「そうねぇ。春菜は探してないの?」

「私は……まだ当分はいいかな」

 春菜の顔が一瞬曇る。なにか言わなければと摩耶が焦っていると、春菜がスマホを取り出し、明るい調子で言う。

「これ知ってる?」

 スマホの画面には、いろんなアイコンやつぶやきが並んでいる。

「Twitter?」

「L版のTwitterみたいなやつ。『リアン』っていうの。最近ちょっとハマってて」

「へえ。つぶやいたりコメントつけたりできるんだ」

「気になる人にメッセージを送ったりもできるんだよ。アイコンをタップするとその人のプロフィールが表示されて」

 春菜が実際に適当なアイコンをタップすると、プロフィール画面が現れた。自分で作成したプロフィール文のほか、画像も掲載できるという。

「へえ。これで出会えるってわけね」

 摩耶は春菜に教えてもらいながら、ユーザーネームとメールアドレス、パスワードを設定して会員登録した。

「春菜のアイコンはどれなの?」

「ロードすると距離が表示されるよ。一番近くに出てきたのが私」

 言われた通りロードする。すると真っ先に「レイ」というアイコンが飛び込んできた。摩耶との距離は0メートルとなっている。

「へえ。レイって名前でやってるのね。でもこんな距離とか出たら、浮気とかできないね」

「隠れモードにすることもできるから。そうすると表示されなくなる」

「ほほう。そんな裏技もあるのね」

 順番にお風呂に入り、疲れたからと春菜は先に寝てしまった。摩耶はビールを飲みながら、再びリアンの画面を開いた。

 タイムラインが表示される。色とりどりのアイコンたちが目に飛び込んできた。皆、好きなことを好きなようにつぶやいている。何気ない日常のつぶやきや、彼女との惚気、オフ会の告知などもある。それら楽しげなつぶやきの数々は、摩耶を一瞬で打ちのめすのに十分だった。摩耶がこの業界から離れ男と付き合っていた間、現代のLたちはこうした場で大いに交流を深め、頻繁にオフ会を開催して楽しみ、彼女を作って甘い日々を送っていたのだ。それは摩耶にとってはカルチャーショックだった。自分は随分長い間損をしていたのだと思った。

 それぞれのつぶやきについたコメントまで細かく追っていくと、どの人とどの人が繋がっているのかがぼんやりわかってくる。繋がりは緩やかに広がっており、リアンは一つの共同体のような様相を呈していた。

 摩耶は夢中になって目に入ったアイコンを片っ端からタップし、次々とプロフィールを開いていった。プロフィールには年齢やセクシュアリティ、趣味、恋人の有無、好みのタイプなどが記載されている。顔の一部を隠した画像を掲載している者も多い。

 摩耶は心のざわつきを抑えることができなかった。自分がなにをしようとしているのか考える余裕もなく、ただ焦っていた。自分は取り残されている。男とぬくぬくと暮らしている間に、自分はなにか大切なものを刻一刻と失い続けていたのだ。これ以上失い続けるわけにはいかなかった。取り戻さなくてはならない。ときめきや感動や、嫉妬や怒りを。人を恋する心を。生きている実感を。

 摩耶は息を整え、マイページに飛んでアイコンを設定した。昨年行ったモロッコのシャウエンで撮った猫の画像にした。プロフィールの文章を慎重に作成する。なるべくさりげなく、なんとなく楽しげな雰囲気を与えるよう工夫した。設定する前にもう一度プロフィール文を読み直し、少し考えて「彼女募集中」と最後に付け加えた。

 次はつぶやきの投稿だ。プロフィールだけ設定しても、つぶやきを投稿しなければ誰の目にも触れない。摩耶はなるべく他愛のない内容のつぶやきを作成した。

「初投稿です。数年ぶりに会ったお友達とおしゃれカフェでおいしいご飯とお酒を楽しみました。幸せな時間◎」

 投稿ボタンを押す。まるで爆弾かなにかを投下したような気分だった。タイムラインに自分のつぶやきが表示されたことを確認すると、安心からか急激に眠気が込み上げてきた。摩耶はスマホを置いてソファに横になった。

 そのとき、スマホの通知音が鳴った。見ると、たった今投稿したばかりのつぶやきに「いいね!」がついた知らせだった。摩耶はスマホを手に取り、再びリアンを開いた。いいね!してくれた人のプロフィールをチェックし、その人のページに飛んで過去のつぶやきをまとめて読む。そうするうちに、立て続けに5件のいいね!のほか、「初めまして! お友達とのカフェご飯、いいですね^_^」というコメントまでついた。ほんの数分間の出来事だった。

 摩耶はスマホの画面をじっと見つめた。この向こうに何人もの女たちがいて、自分の発するつぶやきを読んでいる。気分がじわじわと高揚してくるのを感じた。この感覚は昔味わったことがある。そう、Jackのドアを開けた瞬間に女たちの無数の視線に晒されたあのときの感覚だ。なにかが始まる予感と期待に打ち震える摩耶の手の中で、スマホは通知音を鳴らし続けた。


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