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連作短編集『Lの世界~東京編』#7 第七章:実花

東京に暮らすL(レズビアン)たち。新宿二丁目のバーやクラブで遊び、SNSアプリで交流を広げ、オフ会に通いながら、彼女たちは日々出会いを探す・・・。不定期更新で送る、様々な年代のLたちの恋愛と人生を描いた連作短編集です。

第七章 実花

 自分の顔が憎い。どこへ行っても人々に驚きと賞賛の視線を浴びせられる。この顔は呪いだった。誰も知らない。私がこの顔のせいで、どれだけ嫌な目に遭い、苦しんできたか。

 私は中学入学と同時に福岡の実家を出、上京して一人暮らしをはじめた。学校は公立の中高一貫校で、成績は申し分なかった。部活動は行わず、学校が終わるとすぐさくらさんのお店に直行した。

 さくらさんは新宿二丁目で『SAKURA』という小さなワインバーを経営していた。SAKURAは会員制で、値段も高めのため、変な客は一切来なかった。ワインはボトルだけでなくグラスも各種取り揃え、創作料理も提供していた。さくらさんは接客を担当し、夫の聡さんが厨房に入っていた。

 私は開店前のお店で学校の宿題をやったり、本を読んだりして過ごした。聡さんが作ってくれる賄いが私の夕食だった。お店がはじまる前に、さくらさんは私を送り出す。私を客の目に触れさせないよう、彼女は気遣ってくれた。

 いつの間にか居ついてしまった中学生だった私に、さくらさんは親切にしてくれた。私が親元を離れて一人暮らしだと話すと心配された。さくらさんからすると中学生の私は子供だったのだろう。けど、私は一人でも生活する能力があったし、実家に帰りたいなどとは死んでも思わなかった。

 さくらさんはとても美しく、そしてどこか儚げな雰囲気があった。華奢な身体なのに、店内ではくるくると動いてよく働く。さくらさんと聡さんの前で、はじめて私は息がつける気がした。学校でも普段の日常生活でも気が休まることがなかった。

 私は福岡での思い出を封印し、徐々に東京に馴染んでいった。東京はじつに面白く刺激的な街だった。私は休日になると、一人で都内の美術館や映画館に出かけた。同じ学校の友達には、そういう趣味の子がいなかった。皆、くだらない恋バナだとか、どうでもいい教師の悪口だとかに時間を費やしていた。私はクラスで浮かないようにことさら陽気に、ときにはがさつに見えるよう振る舞っていたが、子供っぽいクラスメートたちを内心軽蔑していた。

 なにもしないでいるとクラスの男子の標的にされるため、私は高校生の彼氏がいると嘘をついていた。学校が終わると「彼氏んちに行く」と行って颯爽と教室を出た。皆、ヒューヒュー、などと言って私を見送った。

 それでも困った男はどこにでもいた。街中で、電車のなかで、飲食店で、映画館で、どこに行っても男に声をかけられた。声をかけられないよう、いつも俯いて足早に歩いていたが、それでもダメだった。

 あるとき、そんな話をうっかりさくらさんにしてしまったことがあった。さくらさんはたいそう心配し、マコトさんという常連のお客さんを紹介してくれた。マコトさんはゲイで、私と同様文化的な趣味があった。そのころ恋人がいなかったマコトさんは、休日に私の映画や美術館通いに付き合ってくれた。マコトさんがそばにいることで、男からの声かけは一切なくなった。私は不思議に思った。マコトさんがちょっと強面だったということもあるかもしれない。

 その後マコトさんには恋人ができたけれど、できる限り私のそばにいてくれた。マコトさんとその恋人と三人で会ったことも何度もあった。マコトさんの恋人はしょっちゅう変わった。

 高校生になっても相変わらずお店で勉強し、家に帰ってからも勉強した。私には勉強しかやることがなかった。

 私は猛勉強の末、東大法学部に現役で合格した。弁護士になることは小学生のころから決めていた。

 成長するにつれ私はさらに人々の注目を浴びるようになっていた。スカウトの話も山のようにきた。けれど、私は華やかな世界には一切興味がなかった。

 大学の四年間を勉学に費やし、司法試験に合格すると、私は弁護士事務所で働きはじめた。

 マコトさんとの付き合いはまだ続いていた。私はさくらさん、聡さん、マコトさんにしか素の自分をさらすことができなかった。中高の友達も、大学の友達も、就職してからの職場の同期も、仲良くしていてもどこかで距離を置かれる。彼らは勝手に私を雲の上の人であるかのように扱うのだ。

 人の多い場所に出向くと、賞賛と好奇心と欲望がないまぜになったねっとりとした視線を浴びせかけられる。「一晩どう?」と誘ってくる男も驚くほど多く、私は自分を娼婦かなにかのように感じた。どの男も好奇の視線を私に向けるが、真剣に私を口説こうとする者は少なかった。皆、私の外見にばかり惹かれるのだ。

 そうした男たちとのやりとりに消耗するばかりで、私は誰とも恋愛をしたことがなかった。

 自分は一生、誰とも愛し合うことができないかもしれない。そんな苦悩をあるときマコトさんに打ち明けた。マコトさんは私に同情してくれたのかもしれない。

「実花ちゃん、僕と偽装結婚しない?」

 そう彼は言った。彼も親の手前、そろそろ結婚をしなければならなかったが、彼の相手は男性だ。昔から事情を知っている私となら、結婚生活を送れると考えたという。

 そう言われると、それはとてもいいアイデアなのではないかと思った。私は自分から家族を捨てたが、心のどこかで温かい家庭といったものを求めていたのかもしれない。マコトさんとの間には恋愛感情が伴わないが、そのぶん穏やかな生活を営めるのではないか。

 こうして私は25歳のときに一回り年上のマコトさんと結婚した。マコトさんと出会ってからちょうど10年が経っていた。

***

 夜中、眠っていると、黒い塊が布団の中に入ってきた気配がする。ああ、まただ。黒い塊は徐々に存在感を増す。声を上げないよう口を封じられ、塊が私の上に乗る。重くて、とても痛い。私は声にならない叫びを上げる。

「実花、実花」

 夫が私を揺すって起こしてくれる。全身に汗をかいていた。

「すごいうなされてたよ、大丈夫?」

 夫はこう言いながらタオルを渡してくれる。ありがとう、と言ってタオルを受け取り汗を拭く。

「シャワー浴びてくる」

 私は立ち上がる。夫が心配そうにこちらを見ている。

「大丈夫だから」

 シャワーで汗を洗い流す。子供の頃の記憶も、全部洗い流せたらいいのに。

 浴室から出ると、夫が紅茶を淹れてくれていた。

「困ったことがあったらなんでも言ってよ。俺たち、夫婦なんだから」

 ダイニングテーブルに向かい合って座り、紅茶を飲む。ゆっくりと気持ちが落ち着いていく。
 
 誠と結婚してからあの夢を見なくなったのに、油断していると不意に不気味な過去が姿を現す。おまえは幸せにはなれないと嘲笑われているようだ。

 誠が話題を変えるように、SAKURAの話をした。いっとき聡さんが倒れてしばらく休業していたが、最近復帰したのだった。私たちは夫婦でよくお店に顔を出していた。

「違ってたら悪いけど。というかこれはほんとどうでもいい話なんだけど」

 と夫が言う。なに?と私は夫の顔を見た。彼はちょっといたずらっぽく笑って言った。

「実花って、さくらさんのこと好きだったでしょ?」

 ああ、なぜこの人にはなにもかもバレてしまうのか。完璧に隠していたつもりだったのに。

「よくわかったね」

「ゲイの直感」

「確かにそうよ。さくらさんは中学生だった私にとても親切にしてくれたし、すごく綺麗な人だなって、憧れてた」

「さくらさんがお母さん代わり的な?」

「お母さんは失礼よ。私と15歳しか違わないんだから。でも昔の話よ」

 私はさくらさんと一緒にいるときの空気が好きだった。お互いなにも話さず、私は学校の勉強をしてさくらさんはお店の開店準備をしている。さくらさんと同じ空間にいられるだけで心が満たされた。さくらさんの顔を見たくて、私は毎日のようにお店に顔を出した。

  さくらさん夫婦には子供ができなかった。不妊治療をしていたという話もちらっと聞いたことはあるけど、踏み込んで訊ねたことはない。

「これは全然、聞き流してもらっても構わないんだけど」
 
 夫が遠慮がちに言う。彼はいつも私を気遣ってくれる。どんなに些細なことでも。それは昔からそうだった。まるでそれが自分の役割だというように。私は目で話の先を促した。

「実花って、子供好きじゃないよね?」

「子供? とくに好きでも嫌いでもないけど。どうして?」

「いや、実は俺は、子供が好きで。それで」

「え、私に産んでほしいってこと? 私たちの子供を作るってこと?」

 反射的に嫌悪を覚える。誠が嫌なわけではない。ただ自分が子供を産むということがどうしてもしっくりこない。

「いや、違うよ。養子を引き取るとか、そういう道もあるのかなって」

 誠が慌てたように言う。彼の親も孫の顔を見たいと言っているそうだ。

「育てるなら他人の子供よりも、自分の子供のほうがいいかも」

 思わずそう答えてしまう。誠がびっくりした顔をする。

「いや、嘘。ごめん。ちょっと考えてみる。紅茶、ごちそうさま」
 
 私はカップを片付けると、自分の部屋へ戻った。誠が「おやすみ」と声をかける。私たちの寝室は別々だった。

***

 誠が最近付き合い始めたのは、翔太という若い男だった。私と2歳しか年齢が変わらない。翔太は何度か家に来たこともあったが、どういうわけか私と彼とはそりが合わなかった。翔太が誠を振り回している風なのが気に入らない。それなのに誠は翔太に夢中になり、なんでもわがままを聞いてやっている。

 翔太との付き合いが深まるにつれ、誠が家を空けることも増えていった。今までは恋人がいてもちゃんと家に帰ってきてくれていたのに。

 夫婦でともに過ごす時間が減り、家に一人でいると、今頃誠はどうしているだろう、と考えてしまう。誠の不在が心細かった。もし子供を作ったら、誠は家に帰ってきてくれるだろうか。子供好きな彼のことだ、きっと帰ってくるだろう。そんなことを考えるようになっていった。

 ある晩、誠が深夜に酔って帰ってきた。どうやら翔太と喧嘩したらしい夫は、珍しく荒れていた。

「無理してるんじゃない、大丈夫?」

 私は彼に水を差し出しながら言った。

「ありがとう。なんか疲れてきちゃった」

「もう、やめたら?」

「簡単にやめられたらいいんだけどね。なんで人間って簡単じゃないんだろうね」

 誠がそう言って顔を覆う。まったくその通りだ、と思う。

「子供を作らない?」

 思わずそう口走る。けれど、それはここ最近ずっと考えていたことだった。

「うん。子供が欲しい。だけど、俺の子供でいいの? 実花は男の人とそういうことするの、抵抗あるんじゃないの?」

 酔っているせいなのか、いつもよりあけすけに誠が言う。

「誠こそ、女の人とそういうことできるの?」

 誠は笑ってできるさ、と答える。一瞬逡巡する。夫と触れ合ったら、今までの穏やかな関係性には戻れなくなってしまう気がした。でもそれでもいい、と思った。私は夫が欲しかった。夫に家にいてほしかった。

「おいで」

 誠が手を差し伸べる。私は少し間を置いてから、その手を取った。

***

 生まれたのは女の子だった。自分と同じ苦しみを味わわせてしまうことになるのかもしれないと、生まれたばかりの赤ん坊に申し訳なく思う。

 誠の喜びようといったらなかった。彼はかいがいしく赤ん坊の世話をした。子供の名前は、さくらさんからいただいて、桜子と命名した。

 誠はいつの間にか翔太と別れ、しばらく誠と桜子と三人での穏やかな暮らしが続いた。けれど夫は余程の恋愛体質なのか、恋人がいない状態が長く続くことはなかった。

 夫が外で恋人と会って家に戻ってくると、匂いでそれとわかる。桜子の父親である夫が、外では違う顔を見せている。そのことに嫌悪を抱いたが、私がとやかく言うことではなかった。

 やがて私は気づいた。これが単なる嫉妬であることに。私には夫と桜子しかいなかった。けれど夫はそうではない。夫はいつも私にやさしくしてくれ、気遣ってくれる。でもそれは愛ではなかった。

 桜子はどんどん成長していった。私は仕事と子育ての忙しい日々を過ごしながら、あっという間に歳をとった。

 告げることのできない夫への愛に苦しみ、救いを求めてJackの門を叩いたのは、30歳のときだった。


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