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連作短編集『Lの世界~東京編』#1 第一章:麻里絵

東京に暮らすL(レズビアン)たち。新宿二丁目のバーやクラブで遊び、SNSアプリで交流を広げ、オフ会に通いながら、彼女たちは日々出会いを探す・・・。不定期更新で送る、様々な年代のLたちの恋愛と人生を描いた連作短編集です。

第一章 麻里絵

 道端にたむろしているのは男ばかりで、女たちの姿は見えない。私はいつも不思議に思う。私がこの街、新宿二丁目に通うようになってから3年近く経つが、いつ来てもこの現象は変わらなかった。二丁目に来る女の数が極端に少ないわけではない。レズビアンの集う店に行けば、大勢の女たちが所狭しとひしめき合っているのだから。

 仲通りは相変わらず猥雑な匂いに溢れている。土曜の夜は特に賑やかだ。一月の寒さをものともせず、あちこちで男たちが笑い合い、じゃれ合っている。ゲイ専門の雑誌や道具などが置かれた店の前でおしゃべりに花を咲かせる少年たち。ファッションや話し方から一目でそれとわかる者もいれば、二丁目以外の場所で会ったら全くゲイだとはわからないような者もいる。「またネ~」と投げキスをしながら店のドアを開け客を送り出している女装したママ。綺麗な長い髪の女とすれ違い、なんとなく気になって振り返ってみたら男だった、なんてこともしょっちゅうだ。どんな人がいてもなにが起きても不思議ではない。この街はそのすべてを包み込む。一歩仲通りに足を踏み入れただけで、まるで別世界に迷い込んでしまったような気分になる。この感覚は、何度この街へ来ても変わらない。

 牧原志織は「21時に『Jack』で待ってる」と一方的に言ったが、とうにその時刻は過ぎている。時間に厳格な志織はとっくに店に着いているだろう。今頃は誰か知り合いに会って盛り上がっているかもしれない。あるいは目星をつけた女を口説いている最中かもしれない。私の腕時計は22時をさしている。一番混む時間帯だ。

 仲通りから脇に入った小道に建つ雑居ビルの3階にJackはあった。店員も客も女性のみのバーだ。3階へと続く幅の狭い急な階段を上る。この階段を上るたび、これからなにかが始まるかもしれないという期待と予感に、私の胸は躍った。店の入口に近づくと音楽が漏れ聞こえてくる。ドアを開けると、大音量のダンス・ミュージックとともに、店内にひしめき合う女たちのさんざめく声が耳に入ってくる。女たちが一斉に値踏みするようなギラギラとした視線をこちらに走らせる。女たちの視線に射抜かれ、全身に心地よい緊張感を覚えながら、私は悠然と中へ入る。

 店内は狭く、カウンター席のほかは奥に椅子が数脚置いてあるだけだ。照明は薄暗く、店員はどちらかというと無愛想で、音楽だけがガンガンにかかっている。

 テーブルチャージがかからずキャッシュオンで飲み物を注文することのできるJackは若い層を中心に人気があり、いつ来ても混んでいる。椅子はすぐに埋まってしまい、店内はいつも立ち飲みをする女たちでごった返していた。今日のような週末は特に人が多く、満員電車のような混み具合だ。それにもかかわらず、客はどんどんやってくる。客が入れば入るほど、それが呼び水となってより多くの客が来る。実際、Jackは混んでいるからこそ面白い店なのだった。

 入口を入ってすぐ右手にトイレがあり、その前にはトイレの順番を待ちながら談笑している女たちの列ができている。人々をかき分けるようにして少しずつ進んでいると、入口付近に溜まっている女たちから「マリエちゃん」と声をかけられた。私は彼女たちに笑いかけ、「おおー、元気?」とやや大袈裟にリアクションして手を振った。

 カウンターに辿り着き、店内を見回して志織の姿を探したが見当たらない。外は凍えるような寒さだというのに、店の中は人の熱気で暑いくらいだ。私は着ていたコートを脱いで手に持ち、ビールを注文した。

 カウンターに軽くもたれかかりながらビールを飲み、薄暗い店内をぼんやりと見渡す。グラスを片手に持ち、壁によりかかりながら笑い合う女たち。皆「どっかにいいオンナいないかな~」などと言い合いながら、新しい出会いを求めてこの店へやってくるのだ。多いのは、化粧っ気がなく髪が短いボーイッシュな女たちだ。なぜか黒っぽい服装の者が多い。その中で、金髪に近い茶髪を腰まで伸ばし、体にフィットしたワインレッドのニットワンピースを着た私はかなり目立つのか、先ほどから女たちの視線を感じる。店のあちこちに、以前にも見たことのある顔が散らばっている。目が合った何人かに軽く手を振ったが、話しかけはせず、一人で飲み続ける。

 ビールはすぐに空になり、お代わりを頼もうとカウンターを覗いた。するとたった今カウンターの中に入ったらしい店員のミキと目が合った。背が高く顔が小さいミキは、ショートカットがよく似合っている。簡単なメイクを施し、中性的で少しミステリアスな雰囲気がある。ミキにビールを頼むと、彼女はにこりと笑って言った。

「マリエちゃんいらっしゃい。今日はしいちゃんは?」

 しいちゃん、というのは志織の二丁目での呼び名だ。志織は私を含むごく一部の友達にしか自分の本名を明かしていない。この世界では本名など必要ない。私自身も青木麻里絵というフルネームはほとんど誰にも教えていない。

「今日21時にここで会う約束してたんだけど、遅れちゃって」

 ビールを受け取りながら答える。すると近くにいた30代くらいのボーイッシュな女が話しかけてきた。

「しいちゃんならさっきカオルさんと出て行ったよ。すぐ戻るって言ってたけど」

「そうなんだ、ありがとうございます。じゃあ待ってよう」

「初めましてだよね? 私はアヤ」

「マリエです。よろしく」

「いくつ?」

「21」

「若いね。しいちゃんの友達なの?」

 アヤが私に顔を近づけて訊く。音楽の音が大きすぎて、近くで話さないと声がよく聞き取れないのだ。けれど、話そうとしてこうして互いに顔を近づけ合うことで親密感が生まれるということもある。このうるさいほどにガンガンかかっている音楽は、もしかしたらそうした効果を狙っているのかもしれない、とも思う。

 一通り自己紹介をし合った後、アヤは私の耳元まで顔を近づけ、小声で訊ねてきた。

「マリエちゃんは彼女は?」

「今はいませんよ~。2カ月前に別れちゃって」

「ええーマジで⁉ じゃあさ、よかったら今度ご飯でも行かない? 私、マリエちゃんみたいな娘、タイプなんだよね。とりあえずLINE交換しようよ」

 アヤは興奮した様子でそう言いながら、ジーパンのポケットからスマホを取り出した。私もバッグからスマホを取り出し、LINEのIDを教え合う。

「今日はもう帰らなきゃいけないんだけど、今度LINEするね。そのときにゆっくり話そうよ」

 アヤはそう言って手を振り、出口へ向かって行った。

 Jackへ顔を出すとこのように声をかけられ、LINEを交換することも少なくない。声をかけてくるのはほとんどがボーイッシュな女だ。けれど私の好みのタイプは、どちらかというと自分と同じフェミニンな外見の女だった。

「さっそくナンパされてんじゃん」

 後ろから肩を叩かれ、振り返ると、志織がニヤニヤしながら立っていた。 

「ああ疲れた~。麻里絵がなかなか来ないからカオルさんの買い出し付き合って、いろいろ話してるうちに遅くなっちゃった」

 志織はしょっちゅうJackに出入りするうちに店主のカオルとすっかり親しくなったようだ。私の持っているビールに目を留めた志織は、「一口ちょうだい」と言って手を伸ばした。返事も聞かないうちに私の手からグラスを取り上げ、ゴクゴクと何口か飲む。

「ちょっと、飲みすぎ」

「ごめんごめん、すっごく喉渇いてて。ていうか麻里絵さ、」と私の手にグラスを戻しながら、時々焦点の定まらなくなる特徴的な三白眼をこちらに向けて言う。「21時って言ったのに、遅かったじゃん。一体なにしてたわけ?」

「……今日は体調いまいちだからやめとく、って言ったじゃない。それなのにしいちゃんが無理やり誘うから……」

 口ごもりながら答える。

「あ、今日来たのを私のせいにするつもり? 本当は自分も来たかったくせに」

 志織は笑って言った。サラサラとしたショートカットの髪をブンブンと振り、目まで届く前髪をうるさそうにかき上げる。シンプルな黒のセーターが、がっしりとした肩と平べったい胸を包んでいる。下はジーパンである。志織のことを知らない人間が見たら男の子だと思うだろう。

「そんなことないわよ。私、もう二丁目来ないつもりだったんだもん。どうせ出会いなんてないし」

「じゃあなんで今日来たわけ? 私に会いたかったから?」

「なに言ってるのよ」

 志織は苦笑する私の肩に手をかけ、人懐こい笑みを浮かべた。カウンターの中のミキに向かって身を乗り出し、嬉しそうに言う。

「麻里絵は私に誘われると絶対に断らないんだよね。どんなに忙しくても体調が悪くても」

「本当にあんたたちは仲良いねぇ。実は付き合ってたりして」

 ミキがニヤニヤしながら言う。フェミニンな私とボーイッシュな志織は、二人でいるとよくカップルに間違われる。そんなとき、志織はいつも「麻里絵なんかアウトオブ眼中」と古い流行語を使って大袈裟に否定してみせた。私たちをよく知る友人たちの間では、しょっちゅう冗談で交わされているネタだった。

「付き合ってはいないけど、しいちゃんとは毎週のように会ってるし、しょっちゅう電話で話してるよ」

 あえて答えた私に、すかさずミキが突っ込む。

「それって限りなく恋人同士に近くない?」

「でも私は麻里絵なんかタイプじゃないからね。麻里絵は私のこと好きかもしれないけど、あんたの気持ちには応えられないよ」

「バカなこと言わないで」

 志織の軽口に、私は苦笑するしかなかった。

「ねえ、二人とも今日はオールなの?」

 ミキに訊ねられると、志織は即座に「帰る」と返した。

「仕事忙しいからね。学生の麻里絵と違って」

 そう言った後、私にだけ聞こえるように耳元で「明日締め切りなんだ」と囁いた。

「えー、まずいんじゃないの、こんなとこで遊んでちゃ」

 私の言葉に、志織は笑いながら「余裕余裕」と言ってのけた。

 志織はフリーのイラストレーターだ。二丁目ではごく一部の友達にしか職業を明かしていない。

 私が志織と初めて会ったのは二年ほど前だ。二丁目のクラブイベントに初めてやってきた私に、「あんた、なに震えてんの?」と笑いながら声をかけてきた。なんだこいつ、というのが志織に対する第一印象だった。

 今思えば、この最初の出会いから、私と志織の力関係は決定していたのだ。会った瞬間から、志織はなぜか私のことを「与し易し」と感じたようだった。一方の私は、志織のしゃべりのスピードについていけず、曖昧に笑いながら「ああ」とか「はあ」とか相づちを打つことしかできなかった。志織はそんな私にどんどん突っ込んできて、ずけずけと言いたいことを言った。「タイプはフェムで、ボーイッシュはあまり好みじゃない」と私が言うと、「じゃあとっとと帰れば? ここはボイしかいないよ」と苛々した様子で言い返された。それでもめげずに「フリーのフェムの知り合いがいたら紹介して」と冗談交じりに頼むと、「あんたバカじゃない? そんな人いたら私が口説いてるわ」と突き放された。

 志織とはその後もちょくちょくJackで顔を合わせた。常連の志織は私が店に顔を出すといつもいた。

「あんたまた来たの? 性懲りもない女だな、ここはどうせあんたの好みじゃないボイしかいないのに」

 志織はいつもそうした憎まれ口を叩きながら私を迎えた。私も私で、そんな態度を取られても別になんとも思わず、軽く受け流していた。

 顔を合わせる機会が増えると自然とあれこれ話すようになった。映画などの趣味が一致した私たちは、やがて二丁目はもちろん、食事や映画にもよく一緒に出かけるようになった。軽妙洒脱なのにどこか毒気のある志織の話は面白く、刺激的だった。私たちは見聞きした様々な事柄について熱心に論じ合った。志織はたぶん、なんでも言いたいことを言える私と一緒にいるのが楽なのだろう。

 志織は友達が多く、友人同士を引き合わせるのが好きだった。志織と一緒にいるうちに、私も瞬く間に知り合いが増えていった。

 数人で飲んでいると、志織はよく私のことをいじり、皆の前で笑いものにした。私がそれでも志織に抵抗しないことさえもネタにして、「麻里絵は私の奴隷だから」というような言い方をよくした。友人たちは、私がなぜ志織に言いたいことを言わせておくのかと訝しがった。自分でも不思議だった。ほかの人間に志織のような言い方をされたら頭にくるはずだ。だが志織は別だった。どんなにからかわれても頭にくるどころか、むしろ私はそうした会話を楽しんでさえいたのだ。

 いつだったか、皆で話し込んでいたときにたまたま志織が席を外したことがあった。そのときに友人の一人からこう言われた。

「マリエちゃんってしいちゃんがいないと大人しいね。しいちゃんといると、まるで水を得た魚のように生き生きしてるのに」

 何気ない一言だったが、私にとっては衝撃的だった。いつの間にか志織の存在は私の中に深く浸透していたのだ。志織が私を「なんでも言いたいことを言える存在」として必要としているというのなら、私はそれ以上に志織のことを必要としていたのである。

 その頃私には、水野由梨子という4歳年上の彼女がいた。しかし、仕事が忙しい由梨子はなかなか私に会う時間を作ってくれなかった。由梨子に会えない間、私はよく志織と一緒に出かけた。今思えば、恋人である由梨子より、志織と一緒にいる時間のほうが長かったはずだ。

 一方の志織は、半年ほど前に私の友人だった真希と付き合い始めたものの、3カ月で破局した。原因は志織の浮気だった。怒った真希は志織との連絡を絶とうとしたが、志織は真希のことをしつこく追いかけ回した。私は二人の板挟みになってしまった。双方の話を聞き、もう二人の関係が修復することはあり得ないとわかっていたのに、泣いて頼む志織に根負けし、志織と仲直りするよう真希を説得した。志織に同情していたわけでは決してない。ただ私は、志織の頼みを断ったらどうなるか、知っていた。志織は私に絶望し、二度と頼み事などしてこなくなるだろう。そうなったほうが好都合だという考えは、私の頭にはなかった。志織が私をからかったり無理な頼み事をしたりするのは、私に対して全面的な信頼を置いているからにほかならない。その志織の信頼だけは、絶対になにがあっても失いたくなかったのだ。

 私の説得で真希の心が変わるはずもなく、結局二人はさんざん揉めた末に別れることになった。私と志織が結託していると感じたらしい真希は私からも離れていった。この一件で私は真希という友人を失ってしまったわけだが、だからこそ志織の私に対する信頼はより強固なものとなったようだ。

 そんなことがあった後も、志織は私の顔を見れば相変わらず憎まれ口を叩いた。私を失わないよう、細心の注意を払いながら。

「ねえ、あの奥に立ってる娘、ちょっといいと思わない?」

 ミキと話し込んでいた志織が不意に私に顔を向け、物思いを中断させた。首をめぐらせて志織の指差すほうを見やる。

「あの黒いワンピースの娘?」

「そうそう。可愛いと思わない? ちょっと声かけてこようかな」

 そう言うや否や志織は動き出している。体を斜めにし、周りにいる人々をかき分けて奥へ辿り着くと、少しも躊躇せず目当ての女の子に話しかけた。

「相変わらずだね、しいちゃんは」

 ミキが少し呆れたように言う。

「そうねぇ。なんか真希と別れてからさらに見境なくなったよね。でもあの行動力はちょっと見習いたいわ」

 志織と女の子は楽しそうに笑い合っている。私はバッグからアメリカンスピリットのメンソールを一本取り出して口に咥え、火をつけた。スーッと深く吸い込むと、ニコチンとメンソールが体じゅうに回ったように感じ、頭が痺れた。たった二杯のビールで酔うはずもないのに、顔が熱い。

 唐突に由梨子の顔が浮かんだ。去年の11月に別れた由梨子と初めて会ったのも、ここJackだった。


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