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連作短編集『Lの世界~東京編』#10 第十章:詔子

東京に暮らすL(レズビアン)たち。新宿二丁目のバーやクラブで遊び、SNSアプリで交流を広げ、オフ会に通いながら、彼女たちは日々出会いを探す・・・。不定期更新で送る、様々な年代のLたちの恋愛と人生を描いた連作短編集です。

第十章 詔子

 あなたに初めてJackで会ったのは、私が19、あなたが20のときだった。名前を聞いた私にあなたは確かに言った。

「マユミです」

 でもすぐに首を振り、本当の名前を教えてくれた。

「詔子よ。みことのりの子」

「素敵な名前ね」

 私がそう言うと、あなたは曖昧に笑った。

 私は自分の名前と、学生である旨を告げた。

「詔子さんも学生?」

 あなたは首を振った。仕事はなにをしているのか、となおも聞く私に、あなたは面倒くさそうに笑いながら、確かにこう言った。

「コールガールよ」

 私は冗談かなにかだと思った。実際それは冗談だった。あなたはすぐに答えを教えてくれた。

「都庁の受付やってます」

 自分の職業をそんなふうに具体的に言う人に、私は会ったことがなかった。それで私も具体的な大学名やら、なにを専攻しているのかといったことまで話しはじめた。今まで二丁目の誰にも言ったことのないことを、初対面の相手に。

 あなたが村上春樹が好きだと言ったことを、よく覚えている。それはあなたの雰囲気にとても合っていたから。

 私たちはしばらく本や映画の話をした。話が盛り上がりかけたところで、あなたは唐突に「帰る」と言った。私は慌ててLINEの交換を申し出た。あなたはこともなげに、「LINEはやってない」と言った。私は絶望的な気分になった。私はLINE以外のSNSをやっていなかった。それにあなたはJackに来たのも気まぐれだと言っていた。せっかく素敵な人に出会えたのに、ここで連絡先を聞けなければ、もう会えないかもしれないのだ。

 私があまりにも困った様子をしていたからだろう。あなたはスッとスマホを差し出すと、「これ、私の番号」と言った。私はアドレス帳にあなたの電話番号を登録した。私はすっかり安心した。

「またね、詔子さん」

 でも、実際にまたあなたに再会できたのは、随分後のことだった。

***

 あなたに会った翌日、私はスマホからショートメールを送った。

「昨日Jackでお会いした麻里絵です。来週の土曜、一緒にJackに行きませんか」

 善は急げ、という感じだった。私はもっとあなたと話したかった。本当はゆっくり食事にでも行きたかったけれど、いきなりそんな図々しい誘いをしてあなたに煙たがられるのは嫌だった。時間を合わせてJackに行って、そんなことを何度か繰り返して、そしてそのうち一緒に食事をして──私の夢は膨らんだ。私はあなたのような美しい人と出会えたことを奇跡だと思った。

 誰しも、自分の心のなかに理想の美というものを持ち合わせているだろう。あなたは私の理想の美を完璧に再現していた。真っ白な陶器のような肌、漆黒の髪、くっきりとした黒目がちの瞳、小さくて筋の通った鼻、なにもつけなくても真っ赤な唇。あなたはほとんど化粧をしていないと言っていた。あなたの着ていたのはたぶん値の張らない黒のシャツとジーパンだった。アクセサリーすらつけていなかったし、爪にマニキュアも塗っていなかった。けれどもあなたは、バッチリ化粧をして派手なネイルを施し、大きなフープピアスをつけ、髪を金色に近い茶色に染め上げた私よりも、何倍も華やかだった。あなたの周りだけ、違う空気が流れていた。

 あなたはひっそりと、Jackの片隅に座っていた。最初私は見過ごすところだった。あなたはその圧倒的な美のオーラを消す術を心得ていた。そうしなければあなたは生きていけなかった。

 私はあなたの顔を一目見たときから、あなたに夢中になっていた。あなたがどんなことを話しても、私はやはりあなたに夢中になったことだろう。あなたの話していることが嘘でも、なんでもよかった。あなたにかけられる声なら、あなたがしてくれる話なら、どんなことでもよかった。

 あなたにショートメールを送ったあと、何日も返信が届かなかった。ショートメールはLINEと違って既読になったかどうかがわからない。私は、あなたはこのショートメールを見てないのだろうと思った。あなたが教えてくれた番号は嘘の番号だったのかもしれないと思った。あなたのような特別な人と、私のような凡人がまた会おうなどと、なんて図々しいことを考えたのだろう。私は自分が美しくないことを知っていた。私の美しさは、いわば表面的なものだ。化粧やネイルやアクセサリーやヘアスタイルで、なんとか美しく見せているというだけの話だ。あなたのような聡明な人が、それを見抜かぬはずがなかった。

 あなたはきっと、自分と同レベルの美しい人にしか、一緒にいる価値を見出さないだろう。あるいはあなた以上に聡明な人としか、言葉を交わそうとすら思わないだろう。私のような人間は、ほんのひとときJackであなたと話せただけで、満足するべきなのだ。

 私は数日を悶々として過ごした。そしてまったく唐突に、あなたからの返信はやってきた。

「都庁の職員食堂でランチしない?」

 私は、都庁の職員食堂に一般の人が入ることができるのを知らなかった。でもそれよりも、あなたの職場に行ける、あなたの働いている様子を窺い知ることができるということに興奮した。

 私はすぐにOKと返信した。

***

 あなたはなにを思って私を自分の職場に誘ったのだろう。あなたとメッセージのやりとりをしながら、私は疑心暗鬼になっていた。

 当日、私はあなたに言われるまま、都庁の一階の総合案内コーナーに向かった。そこにあなたがいるはずだった。けれども、そこで働いているひとのなかにあなたの姿はなかった。

 途方に暮れていると、あなたは私の背後からやってきた。交代でお昼をとっているというあなたは制服を着てメガネをかけており、その異様な美しさを少しでも抑えようとしているようだった。メガネをかけることにより、あなたの顔の整いすぎている部分が緩和され、少し愛嬌のある印象に変わっていた。

 私はあなたに導かれるまま、来庁者受付で手続きをし、通行証を発行してもらった。食堂は32階にあり、見晴らしがいいという。

 先に食券を買う仕組みになっていた。定食や麺類などさまざまなメニューがあったが、私はろくに吟味もしないままカレーライスの食券を買った。はじめてあなたと一緒に食事をするので、みっともなくないよう、一番食べやすいものを選んだのだ。あなたは豚の角煮定食を選んだ。あなたの外見と豚の角煮はギャップがありすぎて、驚いた。あなたはお昼にはサラダとかをちょっとだけ食べるようなイメージなのに。

 テーブルにつき、向かい合ったとき、私ははじめてあなたが名札を裏返しにしていることに気づいた。私に苗字を知られたくないのだ、と思った。けれど、私はさっき来庁者受付で名前を書いたとき、フルネームをあなたに知られたはずだ。職場まで来ているのに、今さら苗字を隠すってなんだろう。まだ会うのは2回目だから、警戒しているのかもしれない。

 窓からは新宿の街並みを一望することができた。都庁の職員食堂はほかにもあるそうだが、あなたはとりわけこの32階の食堂が気に入っているという。

「いつも一人でここに来て、窓際の席に座って景色を眺めながらぼんやりしているの。それが一日で一番充実しているひととき、かな」

 あなたはそう言って笑った。あなたのような人が、一人ぼっちで食堂の片隅で食事をしている様を想像すると、なぜだか悲しくなった。そういえばあなたはJackでも片隅に目立たぬようにひっそりと佇んでいた。

 「私はつねに端っこにいるのが好きなの。そういうふうに生きていきたいの」ともあなたは言っていた。どう見ても主役級のあなたなのに、本人はできるだけ端のほうにいたいと思っている。不思議だった。

 あなたは豚の角煮をおいしそうに食べ、定食を残さず平らげた。私は緊張していて味がよくわからなかった。

「詔子さんは、ここの職員なの?」

 私は訊いてみた。あなたはすぐに言った。

「ねえ、さん付けで呼ぶのやめない? 私も麻里絵って呼ぶわ」

「わかった。じゃあ、詔子」

 呼び捨てで呼び合うほど、まだ私たちは親しくないはずだが、あなたの申し出はうれしかった。

「正規の職員じゃないわ。契約よ」

 あなたは言った。私には正規と契約の違いがよくわからなかった。

「住友ビルって行ったことある?」

 あなたは唐突に話題を変えた。

「ああ、三角ビル? 通ったことはあるけど、入ったことはない」

「あそこの最上階に、よく行くバーがあるのよ。今度、行こうよ」

 あなたがなにが目的で私を誘うのか、よくわからなかった。けれど、それは私には願ってもないことだった。

***

 あなたからの連絡は、いつも突然やってくる。こちらの都合なんてお構いなしに。何週間も連絡がないかと思えば、試験前で忙しいときなんかに「明日会えない?」とショートメールが入っていたりする。

 私はあなたからの連絡が入れば、どんな予定があってもキャンセルしてあなたに会った。そうしないと、いつ会えなくなるかわからないという予感があった。

 そういえば、あなたは突然私のバイト先にやってきたこともあった。私はそのころ歌舞伎町にある薬局でバイトしていた。私のようにテンションの低い人間でも受け入れてもらえる薬局のバイトは居心地がよかった。

 土曜日、気怠げに商品を棚に陳列していると、「麻里絵ー」とあなたがいたずらっぽく後ろから声をかけてきた。私は文字通り飛び上がるほど驚いた。バイト先は教えていたけれど、実際にそこにやってくる友達なんて私には皆無だった。

「ふうん、ここで働いてるんだ~」

 あなたは興味深そうにちらちらと店内を見ている。私がそのとき陳列していたのはコンドームだった。歌舞伎町という立地もあり、アダルトグッズが充実しているのだ。私はこういうものをあなたの目に触れさせてはいけないと思い、さりげなく持ち場を移動した。

「ねえ、お昼休み何時から? ランチ行こうよ」

 相変わらず唐突なあなたの申し出だった。その、相手に断られるなどということを微塵も疑っていない姿勢が清々しかった。

 薬局からほど近いパスタ屋に入った。あなたはたらこスパゲッティと白ワインを頼んだ。パスタを頼むときは一緒にワインを頼むのだと、私は初めて知った。私も真似をして、勤務中だというのに白ワインを飲んだ。あなたと別れてから、私は休憩時間を大幅にオーバーして薬局に戻った。ほかの店員に頭を下げて遅れたことを詫びたが、皆怒るどころか興奮していた。

「青木さんの友達、めちゃくちゃ美人だね。もしかしてハーフ?」

「今度あの友達も呼んで飲み会しようよ」

 男も女も、あなたを褒めそやした。そう、誰が見てもあなたは「特別」だった。以前渋谷を歩いていたときも、あなたは執拗なスカウトを慣れた様子で断っていた。あなたのように、そこに存在するだけで特別視されるというのは、どんな気持ちなのだろう。

 けれど、私は次第にあなたに疑惑を抱くようになった。きっかけは、住友ビルのダイニングバーに行ったときのことだ。あなたは夜景を目前に見下ろせる特等席に座っていた。私が到着すると、あなたは振り向いて手を振った。

 あなたは店員にボトルを置いていると言った。まだごく若い女性が、普通にバーにボトルを置いたりするのだろうか。少なくとも私の周りにはそんな人はいなかったので、私はたいそう驚いた。あなたには驚かされることばかりだ。

 店員がボトルを持ってきた。アーリータイムズという、私が飲んだことのないお酒だった。一瞬だけボトルの所有者を示す名前が視界に入ったが、あなたはすぐさまボトルを裏側にした。

 そこには確かに「真由美」と書いてあった。マユミ、それはJackで初めて会ったときにあなたが最初に名乗った名前だった。そして、いつか都庁の職員食堂で食事したときに、あなたが名札を裏返しにしていたことも思い出した。 

 そのときから、私はあなたの本名は「真由美」であり、「詔子」というのは偽名なのではないかと思いはじめた。なんのためにあなたが私にそんな嘘をついているのかはわからない。二丁目で出会った人だから、素性を隠そうとしているのかもしれない。けれど、だったらなぜ自分の職場に連れてきたりするのだろう。あなたの行動は矛盾していた。

 もしかしたら、あなたは楽しんでいるのかもしれない。ちょっとした嘘をつくことを。あなたの話していることはなにもかも嘘なのかもしれない。けれども、そんなふうに思いながらも、私は相変わらずあなたに魅了され続けていた。

***

 結局、初めて会って以来、あなたと一緒にJackへ行くことはなかった。私には志織という、週末ごとに一緒にJackに行く友達がいた。私は志織にも誰にもあなたの話をしなかった。あなたは、私の禁猟区だった。私だけが、あなたを知っている。あなたの底知れぬ魅力をほかの誰かに知られるのは嫌だった。だから私は決して、自分からあなたを二丁目やイベントに誘うことはしなかった。あなたももともとそういう場所へはあまり行きたがらなかった。

 けれど、どういう風の吹き回しか、突然あなたが六本木のイベントに私を誘ってきた。私が行かなければ自分一人でも行く、とあなたは言った。あなたの突然の変化についていけなかったが、私はあなたを見張るためにも一緒に行かなくてはならなかった。

 間の悪いことに、その日は志織もイベントに来ていた。しかし友達の多い志織はあちこち飛び回っていて、私とは二言三言話しただけだった。あなたは自分から来たいと言ったくせに、いつものように片隅にひっそりと座って、誰にも話しかけようとしなかった。

「こういうパーティーの楽しげな雰囲気に身を浸しているのが好きなだけなの。楽しそうにしている人たちを傍観しているのが好きなのよ。自分が楽しもうとは思わない」

 とあなたはまたあなたらしいことを言った。あなたは黒っぽい地味な格好をして、黒いキャップを深く被っていた。薄暗いイベント会場では、あなたの美しさに誰も気づいていなかった。

 私はときおり知り合いに話しかけられると、あなたの隣の席を立って相手のほうまで行って話した。私は誰にもあなたを紹介しなかった。あなたがそれを望んでいないことを知っていたから。

 私はアーリータイムズを──あなたに教えられてからすっかりはまったバーボンをロックで立て続けに飲み、少々酔った。あなたは相変わらず背筋を伸ばしておとなしく座っている。私はあなたの肩に自分の頭をもたせかけた。なぜそんなことをしてしまったのか、わからない。あなたは一ミリも動かず、声も出さなかった。けれど、私を受け容れてくれたわけではないことは、その肩の緊張から伝わってきた。私はやがてゆっくりと頭を起こし、何事もなかったかのように立ち上がって新しいお酒をとりにいった。私は油断していた。私は何度もあなたと二人で会ううちに、すっかりあなたと友達になれたと思っていた。そしてあわよくばそれ以上になりたいとも思っていたのかもしれない。けれど、それはとんでもないことだった。

***

 あなたからの連絡は途絶えた。何カ月も、私はあなたからの連絡を待った。自分からショートメールを送っても、一向に返信はなかった。

 私は相変わらずJack通いを続けていた。ここに来ればあなたに会えるかもしれない。いつもそんなかすかな希望を抱いて薄暗い店内を見回すが、そこにあなたの顔が見えたことはなかった。

 Jackに通っているうち、由梨子という女性と知り合い、付き合うようになった。私たちはとても気が合った。私は次第にあなたとの出来事は夢だったのかもしれないと思うようになった。私はあなたに感謝していた。人生のほんの一時期でも、あなたのような自分の理想に適った完璧な美を宿している人とともに過ごせたことは、私の宝物だ。

 由梨子と渋谷を歩いていたときだった。ふいにあなたとすれ違った。それは一瞬のことだった。あなたは私に気づかなかった。あなたは外国人の女性と親しげに連れ立って歩いていた。あなたの弾けるように笑った顔を見て、私はすぐさまあなたを振り返った。マユミ、と外国人女性があなたを呼んだ。


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