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連作短編集『Lの世界~東京編』#9 第九章:朝美

東京に暮らすL(レズビアン)たち。新宿二丁目のバーやクラブで遊び、SNSアプリで交流を広げ、オフ会に通いながら、彼女たちは日々出会いを探す・・・。不定期更新で送る、様々な年代のLたちの恋愛と人生を描いた連作短編集です。

第九章 朝美

 友人にオフ会に誘われていたその日、会社を出ようとしたときに上司に資料の修正を命じられた。修正はたいしたことのない内容だったが、それでも30分以上はかかり、会社を出たころにはもうオフ会の始まっている時間だった。

 もともと、オフ会にはたいして期待していたわけではなかった。私には12歳年下の彼女がおり、一緒に暮らしている。問題はいろいろとあったが、辛抱強く彼女を説得してこちらが許容すれば済む話だと思っていた。私は彼女が好きだ。彼女だって、私を頼っている。仕事で忙しい私に代わって彼女が家事を担当してくれているのもありがたい。

 それでもオフ会に行ってしまったのは──彼女との生活に、どこか満たされないものを感じていたからかもしれない。ときどき、自分が本当には彼女に愛されていないのではないかと不安になることがある。彼女はやさしくしてくれるけれど、それは愛ゆえではないのではと思うのだ。根拠はないし、突き詰めて考えたくもないけれど。

 私が会場に着いたころには、オフ会はすでにたいそうな盛り上がりを見せていた。人々は酔っ払い、陽気に笑っていた。私は入口でお金を払って中に入る。歌声が聴こえてきた。尾崎豊の『I LOVE YOU』だ。歌っている人の顔はよく見えないが、ハスキーな声でしっとり歌い上げている。ときどき声が掠れるのがまたなんとも色っぽい。歌が終わったとき、気がつくと夢中で拍手していた。何人かが私を振り向いた。私は急に恥ずかしくなった。それを隠すようににこやかに笑いながら、ゆっくりと歌った人のいるテーブル席に向かった。

「歌、とても素敵だったわ」

 笑いながらその人に話しかける。よく見るとかなり整った顔立ちの中性さんだった。年は30歳くらいだろうか。

「ありがとうございます」

 照れたようにその人が笑う。笑うとちょっと少年っぽくなる。彼女の笑顔を目にした瞬間、きゅん、と心が動いた。

「よかったらこちら、どうぞ」

 彼女が自分の右隣の席を示す。私はどぎまぎしながら、でもなんでもないことのように自然に、「ありがとう」と言って彼女の隣に座った。年下の人の前でこういう余裕ぶった態度をとることに私は慣れすぎていた。

「レイです、よろしく」

 彼女が名乗ったので、私も「ミサです」と応える。レイ、という名前には聞き覚えがあった。確かリアンのなかでもフォロワーの多い人気のアカウントだ。

「こちらはマリちゃん」

 そう言ってレイは左隣に座っている若い女の子を指した。金髪のちょっと派手な、でも綺麗な女の子だ。マリは不愛想にどうも、とだけ言った。マリとレイの親し気な態度から、もしやこの2人は付き合っているのか?と思ったが、レイのもとには次から次へといろんな女がやってきた。せっかく隣に座っているのに、私はレイとはほとんど話すことができなかった。レイは話しかけてきた女たちに愛想よく対応し、軽口や冗談を言って笑わせている。私もテーブル席にいたほかの人たちに話しかけられ、ぽつぽつ話す。全体的に若い人が多い。

「遅かったじゃん、朝美」

 友人の紗理奈が私の肩を叩いた。

「会社出ようとしたときに、上司に呼び止められちゃって」

「ほんとに朝美は会社人間なんだから」

 紗理奈が呆れたように言い、「そんなだと晶くんに逃げられるよ」と付け加える。レイのいる前でなんてことを言うのだ。私は内心焦りながらも、いつものおっとりした笑顔を顔に張り付けた。

「大丈夫よ」

 余裕のある、大人の女。若い女に勝つためには、そういう立ち位置でいないといけない。ふと、レイがじっとこちらを見ているのに気づく。私は彼女を見つめ返しながらにこりと笑いかけた。

「朝美さんは、仕事なにしてるの?」

 レイが聞いてくる。紗理奈が本名で私を呼ぶものだから、レイまで本名で呼んできた。

「昔は出版社に勤めていたけど、今はWeb関係よ」

「へえ、なんかかっこいい。仕事ができる人っていいよね」

「レイさんはなにを?」

「私は絵を描いたり教えたりしてる」

「え、画家?」

「っていうほど売れてないけどね」

 言われてみればレイにはどこか芸術家の雰囲気がある。ノリは軽いけれど、本心がどこにあるかわからないミステリアスな感じとか。

「ねえレイさん、最近『カノン』行ってる?」

 マリが私たちの会話に加わってきた。「あ、カノンって、うちの近所にあるカプチーノのおいしい喫茶店なんです。私たち、ご近所さんなんです」

 マリがそう言って私をじっと見る。ああ、この子もレイが好きなんだ、と思う。

「カノンは最近行ってない。ていうかマリちゃん、彼女さんと連絡とれたの?」

「全然。絶対浮気してる、あいつ」

 マリがスマホを見て苛立ったように言う。

「あら、彼女いるのね」

 自分にも彼女はいるのにそれは言わず、ことさら驚いたようにマリに言う。

「さあ。別れるかもしれないし」

 相変わらずぶっきらぼうにマリが言う。マリのスマホが鳴り、彼女はスマホを持って席を立った。レイがやれやれ、というように私に笑いかけてくる。

「若い子も大変だよね」

 レイが言う。

「あなただって若いでしょう」

「若いかな? 32です」

「若いわよ。私は40」

「彼女は? いるよね、絶対」

 さっき紗理奈が晶の話をしたのをレイは聞いているだろう。ごまかしても仕方がないので、白状する。

「ええ。一緒に住んでる。一回りも年下なの」

「そう。幸せなんだね」

 幸せじゃないわ、という言葉が口をついて出ようとする。でも、初対面のレイにそんなことを言っても仕方がないと思い、笑って答えた。

「ええ。そうね」

 レイは隣のテーブルに呼ばれ、そっちに行ってしまった。私の隣には紗理奈が座り、晶とのことをあれこれ聞いてくる。

「晶くん、大丈夫なの? なんかオフ会で見かけたって人から聞いたわよ」

「たまにオフ会に行くぐらい、別にいいんじゃない? 私だって今日こうして来てるわけだし」

「2人がいいならそれでいいかもしれないけど。でも晶くん、若いしかっこいいから、狙ってる子も多いと思うよ」

「大丈夫よ。晶はフェムには興味ないから」

「あら、そうなの? でも朝美はドフェムじゃない」

 紗理奈の言及を、ふふふと笑ってかわす。

「さすが、大人の余裕ね」
 
 紗理奈は感心したように言う。

「ねえ、ところでさっきここにいたレイさんって、彼女いるの?」

「ああ、やっぱり朝美のタイプだと思った。今はいないわよ、確か。しばらく前まで付き合ってた人が超絶美人でね、二丁目界隈では有名な人だったのよ」

 紗理奈の言葉にショックを受ける。やはり美意識の高いレイは、付き合う相手にも相当のレベルを求めるのだろう。

「ほかにもレイさんを狙ってる人はいっぱいいるわよ。あの通りの美形だし、芸術家で雰囲気あるし、話も面白くてノリがいいから」

 隣のテーブルでどっと笑いが起きた。その中心にいるのはレイである。レイは間違いなくこのオフ会の主役だった。どこに行っても人を惹きつけずにはいられない魅力がある。

 スマホが震える。晶だった。

「会社の飲み会、楽しんでる? 僕は先に寝るよ。ゆっくりしてきてね」

 心が痛む。晶には会社の飲み会で遅くなると嘘をついて出てきたのだった。

「私、そろそろ帰るわ」

「晶くん? 帰ってあげたほうがいいわね」

 立ち上がり、同じテーブルの人たちに挨拶する。レイのほうをちらりと見たが、ほかの人たちとの話で盛り上がっていて、私に気づいている様子はない。さっき紗理奈に言われたことを心に刻みつける。レイは人気者で、いくらでも相手がいる。私が出る幕ではない。私には晶がいるのだし。

 会場を出て少し歩いたところで、誰かが追いかけてきた。

「朝美さん、待って」

 驚いて振り向く。レイだった。レイは息を弾ませながら、スマホを取り出す。

「LINE交換してよ? これ私のQRコード」

 慌ててスマホを取り出しLINEを立ち上げる。苦心しながらQRコードをかざす。

「じゃあ、気をつけてね」

 それだけ言うと、レイは走って会場に戻っていった。田村春菜。たった今LINEの友だちに追加された名前をじっと見る。それがレイの本名だった。

***

 家に帰ってから、「田村春菜」で検索をかけた。レイは公式サイトを持っており、そこで彼女の作品の一部を見ることができた。淡い色使いが特徴の幻想的な作風だ。この世にはない動物や風景の絵が多い。私は本物の彼女の絵を見たくてたまらなくなった。

 寝ようとしたときにLINEが鳴った。午前2時。晶に気づかれぬようにそっと開く。

「私のサイト、見てくれた? 冬にグループ展を開きます。ぜひいらしてください」

 レイだった。私が彼女の名前を検索したことを知られている。顔がカッと熱くなる。なんてナルシストな人なんだろう、と思う。私は既読にしたまま返信はしなかった。

 その日以来、なぜかレイからちょくちょくLINEが来るようになった。いつも真夜中、私がそろそろ寝ようとしている頃に唐突に来る。今日食べたこれがおいしかっただの、街で変な看板を見かけただの、男にナンパされちゃっただの、他愛のない内容だった。適当に返信して何往復かやりとりするとぶつりとレイからの返信が途絶えて終了になる。その話題はもうとっくに終わったと思っていると、数日後に出し抜けに返信が来たりする。レイのLINEのペースは彼女の生活同様、読めない。

 しょっちゅうLINEは来るけれど、会おうという話にはならなかった。冬に展示会を控えているレイは忙しく、夜じゅう制作の時間に充てているらしい。昼はギャラリーの店員をやったり講座で日本画を教えたりしていて、休みの日はほぼないという。

 レイはマンションの10階に広い部屋を借り、アトリエとして使っている。私はレイが真夜中、ストイックにキャンバスに向き合っている姿を想像する。そこにはどんな世界が広がっているのだろう。

 秋が深まると、レイのLINEの内容は次第に思いつめたものになっていった。時間がない、描けない、眠れない、寂しい。私は思いつく限りの言葉でレイを慰め、励ました。

 私はいつも目の前にいないレイのことを想っていた。レイが今なにをしていて誰と一緒にいるのか。数日LINEがないと、不安で居ても立ってもいられなくなった。

 これまで晶しかいなかった私の生活に思いがけずレイという存在が入り込んできて、私はいささか混乱していた。レイとのやりとりを晶にバレないようにしなくては、という発想もなかった。晶との会話もこのところ心ここにあらずという感じだった。敏感な晶に気づかれるのも時間の問題かもしれない。

 私は晶の浮気にも気づいていた。晶はたびたび家を空け、いつもと違った香りをまとって帰ってくる。浮気相手が何人いるのかもわからない。若いから仕方がないと諦め、見て見ぬふりをしていた。いちいち騒ぎ立てて面倒な女と思われるのが嫌だった。

 けれど、レイへの想いで情緒不安定になっている私には、晶の浮気はこたえた。いっそ晶と別れてレイのもとへ走ろうか。でもレイが受け入れてくれる保証はどこにもない。レイは今、展示会のことで頭がいっぱいだ。レイ。レイ。あなたのそばにいたいのに。

 そして晶は出て行った。

***

 青山の会場に着くと、数人に取り囲まれたレイがにこやかに談笑していた。明るい時間に見るレイはとても爽やかだ。そう広くないスペースに、レイのほかに5人の若手日本画家の絵が展示されている。

 実際に目にしたレイの絵は、やさしくて穏やかで真っ直ぐだった。この絵こそが真実のレイなのだ。レイがほかにどんな人と付き合っていたって構わない。この絵を描くレイが、真夜中にリアンでつぶやき、私にLINEをくれるレイが本物だと私にはわかった。

「わざわざ来てくれてありがとう」

 レイがニコニコしながら近づいてくる。私が差し入れのマカロンを手渡すと恐縮したように手を合わせた。

「朝美さん、この後時間ある? もうすぐ在廊が跳ねるから、飲みに行かない?」

「え、いいの?」

 予想外の展開だった。まさか今日レイと飲むことになるとは。

「うん。ちょっとだけ待っててね」

 レイはそう言い残して奥へ消えていった。私はゆっくり展示物を眺めながら彼女を待った。

 連れていかれた先は、赤ちょうちんの渋い店だった。黄ばんだ紙に墨で書かれたメニューが店中に貼られている。本棚にはマンガがぎっしり並び、その横には芝居のチラシの束が置かれている。いかにも昭和といった感じの雰囲気が珍しくてキョロキョロしていると、「飲み物どうする?」とやさしい声で聞かれた。

「ここはいろんな種類のお酒があるんだよ。朝美さんはこういうお店あまり来ないかなと思ったけど、たまにはいいでしょ」

「そうね。私なににしよう。レイさんはなに飲む?」

「私はホッピーにしようかな」

 私はホッピーを飲んだことがなかった。レイに飲み方を教わって恐る恐る飲んでみる。ビールのようだけどビールではない。レイは濃いめに作ったホッピーが好きなのだという。

 私が改めて今日の展示会の感想を話すと、レイは目を輝かせた。そして、次に描こうとしている作品のモチーフや、来年の夏に予定されているという個展のことを熱心に話しはじめた。レイは次々ホッピーの中を頼み、話の内容もどんどん変わっていく。レイの話を聞いているうちに私までワクワクしてきた。レイが意欲的に仕事に取り組み、日々を充実して送っていると考えるだけでなぜかうれしくなる。

「朝美さんは、どんなことが好きなの?」

「私は超インドアよ。美術館巡りとか、お芝居や映画が好き。休みの日は一人で映画館のハシゴしたりするよ。以前出版社に勤めてたから、本読むのも好き」

 そこからまた、好きな映画や本の話で盛り上がった。『ブエノスアイレス』のレスリー・チャンはヤバいとか、『愛人ラマン』のジェーン・マーチは今どうしてるんだろうとか、中山可穂の著作ではなにが一番好きかとか。レイと私は好みが似ていて、いくら話しても話し足りないくらいだった。

「ああ、こんなに楽しいお酒は久しぶりだよ。展示会も成功したし、朝美さんにも会えた。なんていい日なんだろう」

 レイがうっとりと言う。私も同意を示そうとうなずいた。

 レイは人を楽しませる天才だった。頭の回転が速く、ユーモアがあり、博識だ。こういう人はやっぱり女の子にモテるんだろうな、と思い、ふと心が痛んだ。

「そういえば、彼女さんとはどうなった?」

 レイがさりげなく聞いてくる。私はやや間を置いて言った。

「出て行ったわ」

「どうして?」

「ケンカしたの。私が言いすぎちゃって。でも、もともとあまりうまくいってなかった」

「別れたの、私のせいでしょ?」

 レイが顔を覗き込んでくる。疑いの余地なくレイのせいだった。なぜか涙が出てきた。出て行った晶のこと、レイへの叶わぬ想い。レイはこんなに近くにいるのに、手に入りそうで入らない。

「でも、レイさんは私じゃダメなんでしょ?」

 泣きながら言う。レイが私の頭にやさしく手を置いて言う。

「どうして?」

「だって、あなたにはたくさんの取り巻きがいて」

「まあね」

 ホッピーの中を3~4杯頼んだところで外が空き、さらにハイボールを頼む。杯を重ね、お店を出る頃には2人ともフラフラになっていた。もう電車もない時間帯だったので、タクシーに乗った。

 レイはタクシーのなかでも仕切りに軽口を叩いていた。2人とも酔っていて、どちらからともなく体を寄せ合う。レイが私の肩を抱く。

「今日、うち来る?」

「いつもそうやって口説いてるの?」

 私は笑って答える。

「酔ってるでしょう。そういうことは酔ってないときに言ってよ」

 レイは笑って私から離れた。またかわいくないことを言ってしまった。本当はレイと寄り添っていたいと思ったのに。

 私が先にタクシーを降りた。

「じゃあ、またね」

 レイが手を振る。またねと言われても、次にいつ会えるのかわからなかった。

 酔っていたせいで間違って家からだいぶ離れたところでタクシーを降りてしまったことに気づく。夜道をゆっくり歩く。外は寒いが、酔って火照った体に風が気持ち良かった。


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