見出し画像

連作短編集『Lの世界~東京編』#6 第六章:晶

東京に暮らすL(レズビアン)たち。新宿二丁目のバーやクラブで遊び、SNSアプリで交流を広げ、オフ会に通いながら、彼女たちは日々出会いを探す・・・。不定期更新で送る、様々な年代のLたちの恋愛と人生を描いた連作短編集です。

第六章 晶

 自分がどこを歩いているのかよくわからない非日常的な不思議な瞬間がある。しとしと雨が降り続いている。僕の持つ傘に入っているのは、年若い美少年。なぜこんな展開になっているのか、どこをどうやって今ここにいるのか、必死に思い出そうとする。けれども思い出そうとすればするほど、傘を持つ手にも地面を歩く足にも力が入らなくなってくる。

「大丈夫ですか?」

 名前も知らない彼女が傘を自分の手に持ちかえ、僕を支える。

「どこでも、いいですよ」

 彼女が誘うように言う。僕はやっと気づく。先ほどから僕たちがうろうろ歩いているのがホテル街であることに。

 こうして僕はまた、はじめてしまうのだろうか。もういくつも犯した過ちを、繰り返してしまうのだろうか。

 いや、僕はもう、繰り返したくない。一晩だけの快楽を貪り、何事もなかったかのように彼女の待つ家に帰るなんて。

 今すぐ、家に帰らなければ。けれども僕は疲れ切っていた。降り続ける雨も、歩き続けた足も、僕に体を休めることを要求していた。それに何より、目の前にいる若く美しい少年のような女に、震えるような欲情を覚えていた。

 僕は女を引き寄せキスをした。強く唇を吸う。女は震えていた。こういう経験が初めてなのだろうか。ゆっくりと舌を絡める。女の手から傘が滑り落ちた。僕たちはびしょ濡れになりながら、目の前のホテルへ入っていった。

 部屋へ入るや否や、僕は女の服を剥ぎ取り、全身に舌を這わせた。若い雌鹿のような肉体に溺れていく。女は僕の体の下で淫らに顔を歪ませ激しく喘いだ。少年のような女を抱いているときだけ、僕は僕自身から解放される。

 眠りについた女を横に、僕はぼんやりとタバコを吸っていた。外はまだ雨が降り続いている。これはほんの「雨宿り」なのだ、と自分に言い聞かせた。

***

 その日はとあるオフ会に参加していた。彼女の朝美には内緒だ。掲示板で見かけた、「中性・ボイ限定オフ」というものだ。

 僕はどこからどう見てもボイだし、僕の周りに寄ってくるのはフェムばかりだ。今の彼女の朝美もドフェム。けれど、僕が本当に好きなのは、中性〜ボイだった。このオフ会は、同じように中性〜ボイが好きな中性とボイが集まるという触れ込みだった。

 実際行ってみて、僕は少々がっかりした。来ている人たちは、確かに「中性」と言えなくはないが、それよりも「普通」というほうがしっくりくる。僕は自分が何を求めているのかよくわからなくなっていた。

 声をかけてきた「中性さん」たち何人かと話し、連絡先を交換した。ピンとくる人もいないまま、そろそろ帰ろうかな、と思っていたとき、若い美少年が僕をじっと見つめているのに気づいた。

 僕は彼女の名前を聞いたはずだが、覚えていない。僕はすぐさま彼女を連れ出し、適当に入った居酒屋でベロンベロンになるほど飲んだ。僕は最初から彼女を口説こうとしていたわけではなかった。あのホテル街へ行ったのだって、僕の意志だったのだろうか。もしかしたら彼女に誘われたのではないだろうか。そんな自分勝手なことすら考えてしまう。

 彼女の肉体を存分に味わった後、僕は激しい後悔に襲われた。また、朝美を裏切ってしまった。どうして僕は繰り返してしまうのだろう。

 僕が正直に同棲している彼女がいると話したせいか、女はそれ以上僕に近づいてはこなかった。連絡先すら交換しなかった。僕は雨とともにその夜の記憶を洗い流そうとした。けれど自分自身の愚かさだけは、何をしても消えることがなかった。

***

 朝美は僕が作った目玉焼きとトーストを食べると、忙しく身支度を整える。僕は朝美が化粧するのを見るのが好きだ。

「今日は稽古だっけ?」

 朝美が僕を振り向いて言う。

「ううん、今日は稽古は休み。どうして?」

「じゃあ、帰ったら少し話せる?」

 いいけど、と答えながら、話ってなんだろう、もしかして先日の浮気がバレたのだろうか、と気が気じゃなかった。朝美に捨てられ、この部屋を追い出されでもしたら、僕は生活できなくなる。 

 今年で40歳になる朝美は、Webのプランナーをやっており、朝から晩まで忙しく働いていた。けれど、朝美の仕事の詳しい内容は、会社で働いたことのない僕にはよくわからない。

 僕はといえば、役者としてたまに舞台に立っていたが、売れているとは到底言えなかった。ただ、一部に僕の熱狂的なファンの女の子たちがいて、彼女たちは僕の全公演分のチケットを買ってくれていた。チケットの売上のために僕を起用する演出家も多かった。僕の元には美少年役や中性的な役が舞い込んだ。僕が演じるのは、闇を抱えた暗い人物であることが多い。僕自身がそのように見られているのかもしれないと、オファーをもらうたびに少し落ち込む。28歳という自分の年齢を考えると、舞台役者の仕事をいつまで続けるか、見極めるべき時期にきているのかもしれない。

 けれども、ほかの仕事に就いてうまくやっていくことができるのかどうか、僕には見当もつかなかった。今までコンビニや飲食店のアルバイトですらまともに続いたことがない。パソコンもできないし、英会話もできない。一般常識もない。こんな僕を雇ってくれる会社など皆無だろう。

 僕は役者の仕事にしがみつくしかなかった。オファーがあれば受けるし、そんなに気の進まない映像の仕事も、ギャラがいいので引き受けた。朝美のアドバイスで、YouTubeのチャンネルも作った。登録者数はそこそこいたが、肝心の更新をサボっていた。

 2年前、僕の舞台を観た朝美が僕に声をかけてくれなければ、僕は今でも惨めな暮らしをしていたことだろう。中性〜ボイ好きな僕だが、朝美の上品な顔立ちや優雅な立ち居振る舞いに惹かれた。けれども、朝美への感情が恋愛感情なのかは、正直僕にはわからない。ただ、朝美といると安心するし、美しい朝美がそばにいてくれることは僕にとってもうれしいことだった。

 自分の生活は朝美がいなければ成り立たないとわかっているから、朝美のことは大切にしているつもりだった。家事も率先してやるし、仕事で疲れた彼女の全身をマッサージしてやり、ベッドでも奉仕した。僕自身の情熱が朝美に向いていなかったとしても、僕はベッドでは完璧に技術を行使し、朝美を満足させていた。

 もやもやした気持ちを追い払うため、僕は家中を掃除した。その間は何も考えず、ただ目の前にある場所を綺麗にすることだけに集中した。

 掃除が終わると、スーパーへ買い出しに出かけた。今夜は朝美の好物のハンバーグを作ろう。朝美はあんなに大人の女という雰囲気を醸し出しているのに、ハンバーグとかオムライスとか子供が好むような料理が好きなのだ。朝美の好きなケーキ屋さんにも足を運び、モンブランを買った。

 帰ってさっそく調理をはじめる。サラダを作り、ハンバーグをこねる。赤ワインも用意しておいた。ちょうどいい感じにハンバーグが焼けたころ、朝美が帰ってきた。計算通りだった。

「おかえり。すぐご飯にするね」
 
 僕は明るく言う。朝美は不意をつかれたように黙っていた。

「早く着替えて、ほら、座って。今日は朝美の好きなハンバーグだよ。ワインもあるよ」

「晶」

「冷蔵庫にモンブランもあるんだよ。朝美、好きでしょう?」

「晶。ごめんなさい」
 
 朝美は着替えもせず、突っ立ったまま頭を下げた。

「好きな人ができたの。別れてほしいの」

 僕の中で、何かが音を立てて崩れていった。朝美が僕を好きじゃなくなる。僕を捨てる?

「何、言ってるの。変なこと言わないで。せっかく作ったんだから、あったかいうちに食べようよ。話はその後で」

「ううん。おいしいものを食べながら別れ話なんてできない。本当にごめんなさい、晶」

「誰? どこで知り合った人?」

 聞いても無意味なことを聞く。朝美は黙っていた。

「それで? その人と付き合うの? 一緒に暮らすの? 僕が邪魔になったってこと? 僕を捨てるの?」

 一気にまくし立てる。

「あなたに捨てられたら僕は生きていけないのわかってるよね。野垂れ死しろって言うの? よくそんな残酷なことが言えるね」

 朝美は黙ったままだ。僕はイライラしてきた。

「黙ってないでなんとか言ってよ。一体どこの女に惑わされたの? それとも男なの?」

「女の人よ」
 
 やっと朝美が口を開く。

「オフ会で会ったの」

「へぇ。僕に隠れてオフ会なんて行ったんだ? なんのため? 僕に不満があったってこと?」

「じゃあ、晶はどうなの。晶は私に隠れてオフ会行ったりしなかったの? 私を裏切ったことがないって言い切れる?」

 今度は僕が黙る番だった。

「私はいつも見て見ぬふりをしてきた。あなたが好きだったから。でも限界。仕事だって、あなたは真面目に取り組まない。あなたはいつも後ろ向きで、真剣に人生を生きていない」

「で? その新しい彼女は何してる人なわけ? 真剣に人生を生きてる人なの?」

「絵を描いている人よ」

「へぇ! 役者の次は画家? 芸術家のパトロン気取りだね。どうせ売れない画家でしょ。あなたは利用されるだけだよ」

「私を利用してたのは、晶でしょ」

「ああ、利用してやったさ! もう懲り懲りなんだよ、ババアのベッドの相手なんて!」

 朝美の顔色が変わる。僕は役者のように、というかまさに役者なのだが、ここぞとばかりに声を張り上げた。

「あんたに隠れてオフ会? 行きまくったよ。そこで知り合った女とヤリまくったよ。この家に連れ込んだこともあったよ。何人と寝たか覚えてないね。僕はそもそもあんたみたいなフェムなんてタイプじゃないんだ。反吐が出るよ!」

 朝美は何も言わなかった。ただ悲しい顔をして僕を見ていただけだった。そしてゆっくりと体の向きを変えると、彼女は部屋を出ていった。

 また雨が降りはじめた。すっかり冷めてしまったハンバーグを皿に取り分け、冷蔵庫にしまう。もしかしたら、朝美が帰ってきて食べるかもしれない。

 僕は朝美を傷つけてしまったが、彼女はここに帰ってくるだろう。ここは彼女の家なのだから。そうしたら謝ろう。朝美はきっと許してくれるはずだ。

 スマホを取り出し、LINEの友達一覧を見る。こういうときに連絡したい人が誰一人思い浮かばなかった。あの「雨宿り」の彼女のことを思い出した。なぜ連絡先を聞かなかったんだろう。

 あるいは、LINEに友達登録されている中性さんたちに片っ端から連絡してみるのはどうだろう。誰かは僕を引き取ってくれるのではないか。

 それに、朝美だって、本当にその新しい彼女と暮らしはじめるとは限らない。途中でうまくいかなくなるに決まっている。だって朝美には僕がいるのだから。僕を捨てるのはバカな考えだと、朝美は思い返してくれるはずだ。

 大丈夫、大丈夫。朝美はきっと帰ってくる。万一朝美に捨てられたとしても、僕を受け入れてくれる人は必ずいる。だって僕は魅力的だし、お金はないけど役者としての才能はあるかもしれないし、家事もできるし、ベッドなんか最高なのだ。

 雨の音を聞きながらソファで眠ってしまっていた。真夜中に目が覚め辺りを見回す。朝美の姿はどこにもなかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?