サバンナの 象のうんこよ 聞いてくれ だるい せつない こわい さみしい
Production note#2 『源泉』
サバンナの、象のことを思っていた。
現存する陸上の野生動物で、最大の種族である、あの象のことだ。
サバンナにいる象は、アジア象よりも体が大きくて、最大のもので体重が10トンもあるという。それでいて、優しい目をしている。遊ぶのも好きだ。特に小象の水遊びは見ているこちらが楽しくなる。彼らは誰よりも長い鼻で私が差し出したバナナを器用に口元まで運んでいたし、誰よりも大きな耳で私の声を聞いていたし、誰よりも強い牙を持ち合わせているのに、それを自慢することもなく、しっかりとした足取りで、堂々と大地を踏みしめて歩いていたんだ。
そんな、なんにでも負けないはずの象が、絶滅危惧種であるということを知ったのは、象の数が減っている原因が、生息域の減少と、人間の密猟によるものだという記事を読んだからだった。
人間が生きていく過程で成し遂げてきた数々の進化を、ありがたく思っている。そしてその恩恵を受けて、私も、今日の日を生きている。
その事実が確かにあるというのに、それでも、象のことを思うと、やりきれない気持ちになった。人間が象の生きる環境を変えたのに、その人間に、勝手に絶滅を危惧されているという事実は、どう考えても、やるせないものだった。
だけど、人間のせいだけではないということだって、十分によくわかっているんだ。例え人間がいなくたって地球温暖化は始まっていたし、どれだけ環境に配慮して暮らしていったとしても、これからもずっとこの世界の温度は上昇を続ける。
それは、私たちが選んで地球で暮らしているのではなくて、私達がたまたま暮らしているこの場所が、元々ずっとずっと前からこの悠久の時間の中に在り続けた地球だったというだけの話だからなんだ。
それでも、やっぱり、納得のいかないことって、いくらでもあるよね。
宮﨑駿監督最新作『君たちはどう生きるか』の中の眞人は、空襲による火事なのかは言及されていないにしろ、戦時下に母が亡くなった事実を背負って生きていくのに、自分が他の子供たちのように学校終わりにまで勤労奉仕をしなくとも生きていられる側である背景には、自分の父親が軍事工場で勤める「戦争によって儲かっている」おかげで生きられているという矛盾がある。
生きるということは、常に、矛盾を隣り合わせてしまうものなのだと思う。
そんなことを考えるようになった発端は、確実に、幼少の頃にビデオテープが擦り切れるほど繰り返し観た、スタジオジブリの映画だった。
その私の心の中に、生まれては消えて、消えては生まれた、ある物語があった。自分の生きる人生と並行して、その物語の「つづき」が、ずっと書き続けられた。その源泉が、初期の頃に書いた、このnoteの一節だ。
◇◇◇
この話を、「こういう物語を書きたいんだ!」って思っていた私の話を、本当に、言葉の通り”夜通し”聞いてくれた親友がいた。
私がちょっとでも迷うと、お構いなしに最終新幹線ですっ飛んでくる、あの親友のことだ。
彼女は、私の、そんな誰かに真面目に語れば引かれるような話を、「聞かせて。」「続きは?」と、聞き続けてくれた、唯一の親友だった。
その彼女に、その小説のことを初めて話した時、心の中だけにあったその物語が、ぐにゃりと音を立てて「形成」されたように感じた。
何も見ずに、ただ彼女だけに向かって、これまで自分が紡いできた物語を頭の中で組み立てながら、「それで、こうなるの。」「ここでこの人が、こう言うんだけどね。」って、全部全部、話した。
「うん」「うん」って、一瞬も私から目を逸らさずに、時には爆笑しながら、時には感想を挟みながら、最後まで、ただ、聞いてくれた。
自分の中の『物語』を人に話すなんてことは、今までに一度だってしたことのない、少しだけ羞恥も混ざる、そんなひと時だった。
彼女に話したからこそ、その物語に、「結末」が書けるかもしれないと、そんなふうに、自然に思うことができた。
”心地よく住んでいた場所が変わる”ということは、住む環境の話だけではないな、と思う。直近で言えば、Twitterを続けるか、新しいアプリケーションに「つぶやく」場所を変えるのか、それだって本当に、同じことのように思う。
だからこそ、「地球環境が破壊されたからといって、月に住んだとして、そこで暮らすのは同じ人間である」ということと、「Twitterで書こうが、他のアプリケーションで書こうが、それを使っているのは同じ人間であり、発せられる言葉はその人自身の声であるという事実は決して変わらないんだ」ということを、物語の中で対比させつつも同列に扱ってみることを試した。
また、舞台設定については、今のZ世代が誰かの”親”になるであろう、2070年の未来を選んだ。そこでは、もう無くなっているのかもしれない「学校」や「テレビ」、「Twitterのようなアプリケーション」のようなものを、敢えて現代の姿のまま残したのには、ある理由がある。
2070年、と聞くと、随分とはるか未来の話だな、と感じるだろう。でも、この時代はずっと地続きのままだ。「少子高齢化問題」も「地球温暖化」も、もうずっと前から―私が小学校の社会科の授業を受けていた20年前から習ったことで、あれから時が経った大人になった未来では、いまだ何も変わっていないどころか、より悪化し、もう巻き返せないところまできてしまった実感がある。
今ここにある様々な問題が、2070年後の未来で、正しく答えが導き出せているとは、到底考えることができない。
良いものも悪いものも、急激な改革って、起こらないんだと思う。いろんな問題を抱えながら、あらゆる人の立場に立って変えて行く必要のあるものほど、その全ての人の思いを内包しようと思うと本当にゆっくりとしか進まないから、革命が起こらない限り、変わることはないんだと思う。それは、諦めにも似た形ではあるけれど、それでも、その様々な問題を抱えて、私たちは、「それでも、生きていく」ことしかできない。そういうことなんだと思う。
そして、この物語のひとつひとつは、すべて自分自身の根底にある思いや、実体験を織り交ぜた、ある種の自伝的な作品である。
だからこそ、登場人物すべてに私自身が共感できる部分を持たせる描き方しかできなかったし、すべての登場人物が「その人の人生においては主人公」であることを、曲げたくなかった。
いろんな登場人物に視点を変えて描く書き方は難しかったが、それでも、そういう書き方でしか語れない物語にしたかった。
だれか一人の思いだけで変えられる世界ではない。
様々な背景を抱えた一人一人が、それぞれの思いを胸に生きている、そんな世界の物語である必要があった。
だから、なくなるかもしれないと言われている「授業風景」も、「テレビ」も、全てそのまま残した。50年経っても、そう簡単には何も変わらないんだという皮肉も込めて、しかし、変わらないものにこそ理由があるんだということを、表現した結果が、この描き方だった。
【謝辞】
・Megu
去年の夏の夜、「テレスコープ・メイト」の源泉の部分の話を、ずっと聞き続けてくれた、生涯の大親友です。あなたのおかげで、人生で初めて、最後まで「書ききる」というひとつの経験が出来ました。私はすぐに投げ出すし、諦めも早い。だけど、あなたの真っすぐで「やると決めたらやる」パワーをほんの少し、あの夏の夜に、分けてもらったからこそ書けたのだと、そう思っています。ありがとう。そして、結婚おめでとう。星による伏線をたくさん巻き込んで作品を書き進めたかったのは、あなたたちの入籍の記念日が、七夕だったから。心からの、祝福と感謝を。
・りーもさん
「テレスコープ・メイト」を、最後までずっと、読んでいてくださった読者の方です。そして、「生きろ、そなたは美しい。」のnoteに、こんなコメントをくださいました。
noteって、過去の記事が読み続けられることは、なかなか少なく難しいことのように感じています。だからこそ、物語の中でも、「書いた言葉が埋もれていく」という描写を使いました。それでも、私が昔、紡いだ言葉をすくいとって、「そこに確かに在ったもの」にしていただいた、そんな思いがしました。書き続けてきた中で、このようにして、こんなふうに言葉をいただけることは、とてもとても、嬉しいことでした。本当に、ありがとうございました。
・帰一さん
「テレスコープ・メイト」に、ずっと、コメントをしつづけてくださいました。そのことが、どれほど書き続ける上での励みであったかということは、言葉を尽くしても、伝わりきらないくらいの嬉しいものでした。「書いたら誰かが読んでくれる」ということは、決して当たり前ではありません。それでも、読んで、感想までくださる人がいたということ、心から、ありがたく思います。どのコメントも選べないほどに、ひとつひとつが、嬉しかったので、敢えて、このままで。感謝しています。
・野凪爽さん
私が書き始めた第1話の投稿で、こんなことを伝えてくださいました。
正直、私自身がそんなふうに言ったこと、忘れていたくらいでした。それでも、私としたそんなふとした会話も、「覚えて」いてくれる人がいるんだという事実が、心から、嬉しいものでした。そして、書きながら、書く途中で、いただいたコメントを参考に、物語の枠組みを考えさせていただきました。野凪さんは小説を書きなれているので、そういった面では初めて小説を書く私なんかよりも随分と先輩です。そんな方に、この物語を、ずっとずっと、読み続けていただけたことを、嬉しく思います。そして、最後にいただいた感想も、とてもとても、嬉しいものでした。胸の引き出しにずっとしまっておいて、これからの人生の中で、ここぞというときに、思い出していこうと思います。
・ななまんさん
私が途中で匙を投げてしまった「16ビートで命を刻む君と、空虚めな僕のこと」という処女作の続きを、毎回、スコッチを片手に、読んでいてくださった方でした。ななまんさんが読みながら笑ったり、お酒を飲まれたりしている姿が、なんだか目に浮かぶようで、私も、どんな展開だったら、「おおおっ!」って、物語に惹きこませることができるかなって、想像することが楽しかったのです。それでも、あの物語は、書ききることが出来ませんでした。だからこそ、今作を、ななまんさんが読み始めてくださるとコメントを頂いた時、心から「やったー!」って、嬉しく思いました。ありがとうございました。
・いろはさん
毎回、新作を投稿するたびに、すぐに反応してくださっていたこと、ずっと、感謝をお伝えしたかったのですが、最終話を投稿したときに、先にいろはさんのほうから、嬉しいコメントをいただきました。
私が普段、思いの丈をただ書き散らかしているだけのエッセイは、自分が書きたいから、ただ書いているだけというところがあったのです。自分自身のことを、自分自身の言葉でただ紡ぐだけという、自己満足の世界でもありました。だけど、物語を紡ぐということは、そういう「趣味」みたいな枠を、超越したい、何か、そういう思いにも駆られることがあります。なぜならエッセイは、あったことを書けば、それだけで自分は良かったから。でも、物語は、そこに生きる登場人物たちの人生の責任がありました。架空の世界の話でありながら、それでも、その登場人物たちと生きているという実感が、確かにあったのです。だからこそ、本当は誰のことも殺したくはなかったし、生き続けていてほしかった。それでも、殺さなければならなかったのは、やはりこれが、私たちが生きていく「現実」だからなんだろうと思ったからでした。SNSの心無い言葉で死ぬ人は絶えない。生きている環境が人口物でない限り、自然災害が起こることも免れない。そして、戦争で犠牲になる子供たちの「声」も、こうしている今も戦地にいるかもしれない「ウクライナの子ども」の声として、ちゃんと、書いておきたい。そんなことを思ったことも、考えたことも、初めての経験でした。だからこそ、最後まで読んで、こうして、言葉までいただけたことが、何よりも何よりも、嬉しかったのです。
本当に、心から、ありがとうございました。
・tomotakaさん
ことあるごとに、tomoさんが私のために書いてくださったnoteを読み返すのです。tomoさんがnoteを削除されてしまったので、もうあの記事ごとまるっとこの世から消えてしまったのですが、それでも、「あなたがあなたらしくあなたであるためにためらいなく書ける日がくるといいよね」って、そう言ってくださったあの言葉通り、書きたいことだけを詰め込んで詰め込みすぎてた結果7万文字くらいに膨れ上がったひとつの創作ができました。いつか、いつか、「書きたいこと、書いたんだねー」って。笑ってください。
◇◇◇
たとえば、チベットの大草原に生まれていたら、どんな人生だっただろう。
たとえば、モンゴルの遊牧民の家系に生まれていたら、こうやって言葉を紡ぐことを、していたのだろうか。
作家・有川浩さんが植物図鑑で『道端の草花も、名前を知った途端それが雑草と感じなくなる』ことがあると言うように、私達は、何かを見ると、それらの意味や理由について、考える力を持っている。
そして、その考えたことについて、他者に伝えるための言葉を持っている。
それがどれほど尊いことなのかということを、私はずっと、抱きしめていたい。
そして人類が持つその尊い力の使い道を、間違わないでいられますように。
【引用】
⚫︎「サバンナの 象のうんこよ 聞いてくれ だるい せつない こわい さみしい」
穂村弘
有川浩 「植物図鑑」幻冬舎文庫(2013.1.11)