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罪を憎んで人を憎まず~「飢餓海峡」

50年というと長いようにも思うが、人ひとりの人生の長さを考えると身近にも思えてくる期間ではないだろうか。それくらいの昔の日本はまだ戦後の記憶が色濃く残っていたわけで、もはや現代の感覚からは想像を絶する。今回はそんな空気を纏った作品を視聴した。1965年公開「飢餓海峡」

本作は水上勉の同名小説が原作。映画鑑賞後にこちらも読んでみた。

映画を観た第一印象は、「砂の器」と似ているなあというもの。
ただしあちらは冒頭は犯人が分からずその謎を解明していく展開だが、本作は犯人は最初に明かされている。ただ、最後に犯人の苦労に満ちた前半生を追っていくという点で共通している。

「飢餓海峡」とは、犯罪を犯した犬飼多吉こと樽見京一郎の、決して這い上がることのできない自身の境涯から抜け出ようと渇望する心を指している(と自分は理解した)。

わたしは飢えていたんだ。金に、米に、着るものに・・・・・・一切に飢えていたんだ。

どれだけ真面目に一生懸命に働いても、まったく暮らしは楽にならない。この村落に生まれたこと、この家に生まれたこと、それだけで一生が決まってしまうという不条理。そこからの脱出こそが彼の原点であった。「砂の器」ではそれがハンセン病であり、「人間の証明」では肌の色だった訳である。
そのセーフティネットが整っていないがゆえに、実力行使でまさに身命を賭して道に外れた行為に手を染めるのであろう。

こう解釈すると、これは決して50年も昔の話ではない。
今でも一向に楽にならない暮らしに苦しむ人、”親ガチャ”なんて嘯きただ悲観に暮れる人、そして自暴自棄になり自分も他人も傷つけることを厭わない人、そこら中に樽見京一郎がいるではないか。

こんな状況でも「それはその人の努力が足りないからでしょ、自己責任さ」「死にたいなら勝手に死ねばいいのに」という言葉が投げかけられようか。何の解決にもならないことが分からないのだろうか。

樽見京一郎を挙げた刑事らは次のように自らに言い聞かせている。

「わたしたちは、いいことをしたんだろうか。あの男の罪状をあばいたことで・・・・・・本当に、いいことをしたんだろうか」
(中略)
「それらの事実の側面には、人間が犯した憎い罪は露にあばかれはするけれど、その人間が罪を犯しつつも積みかさねた真実のかくれた別の姿をどの程度、かみしめることができたか・・・・・・(中略)あの男の真実の声をきくことが出来たではありませんか。いいことをしたんだ。・・・・・・きっと・・・・・・」

罪を憎んで人を憎まず。
人を憎んでいては何も変わらない。罪を憎み、罪が生まれないようにするにはどうすればよいか、知恵を出していくことこそが取るべき道なのだと、考えさせられた。

古くても古びない。映画も小説も傑作である。
(といいつつ、やっぱり粗は目についてしまうけど・・・)

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