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クライマーズ・ハイ

 図書館で借りた本の中には、しばしば「後でこの本買っておこう」という思いにさせるような、そんな一冊がある。横山秀夫さんの『クライマーズ・ハイ』もそんな一冊で、先日図書館に寄った日、ふと文庫本のコーナーを閲覧していた際、「そういえば小説版を読んだことがなかったな」との思いから、ふと手に取って借りたこの小説を、通勤中や仕事のふとした合間で読み進めながら、気づけば僕は、自分の人生、そして今の僕が思う自分の弱さを、どこかこの小説の登場人物に重ねながら読んでいた。


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 小説の舞台となるのは、北関東新聞社という架空の新聞社である。1985年8月12日、山登りが趣味の同僚、安西と共に衝立岩登頂に挑もうとしていた社会部記者である主人公、悠木の耳に、日航ジャンボ機がレーダーから消失するという衝撃的なニュースが舞い込む。全権デスクとしてこの事件を扱うこととなった悠木だが、すぐさまこのニュースが北関東新聞社始まって以来の未曾有の規模のニュースであることが判明する。社内での軋轢、家族との蟠り、そして記者としての使命・・・あの夏、あらゆる葛藤を胸に、のちに日本航空123便墜落事故として知られるこの大惨事に挑んだ悠木の、そして北関東新聞社記者たちの一週間の戦いを描く。

 毎年8月12日になると、広島や長崎の原爆特集や、終戦記念日の特集といった戦争関連の番組に挟まれる形で、この事故のことも報道番組では扱われる。僕自身はこの事故が起きた年には生まれていないけれども、勿論この事故のことは知っているし、何より僕は、この小説の映画版がとても好きな一本で、今も仕事でスケジュールがギリギリになり、焦りや苛立ちや不安が募るようになると、ふとこの映画で描かれる報道フロアの様子を思い浮かべ、よし、あんな風に働いてやる、と、どこかこの映画で描かれる喧騒に自らの状況を重ね合わせることが自分を鼓舞することがある。映画版では尺の関係上、小説のエピソードのいくつかは端折られており、大きなものだと、主人公の悠木が、かつて記者として良心の呵責に耐えかねていた望月という部下を叱責した結果、その望月が自殺同然の形で事故死してしまったというエピソード、およびその部下の従兄弟に当たる女性、望月彩子の存在は、この小説のテーマを語る上では極めて重要なファクターでありながらカットされている。もし先に小説版を手に取っていたら、こうした要素を削られたことに物足りなさを感じてしまっていたかもしれないが、僕は先にこの映画版の方から入ったこともあってか、痛くこの映画版が気に入っているのだ。特に序盤、それまで日常の中にいた報道フロアが、ジャンボ機がレーダーから消失したという第一報のニュースが飛び込んでくるや否や、突如蜂の巣をつついたような騒ぎになり、緊張感を滲ませながらもフロアの記者たちが冷静に指示を出しことに当たり始める一連のシーンはまさに映画ならではのテンポと緊張感の見せ方で、実際いざ小説を読んでいても、このあたりのシーンはまさに映画版のシーンそのままの様子が目に浮かんでくるのだから、本当に小説を見事に映像化されたのだと思う。原田眞人監督ならではの、会話というよりは効果音としての機能に近い、矢継ぎ早な台詞の応酬の数々や編集がこのシーンでは特に遺憾無く発揮されていて、実に素晴らしいのだ。

 さて、そんな映画の小説版を、僕は今こうして初めて読んだのだけれど、そこには、映画版とはまた少し趣の違う、活字媒体にしか存在し得ないような心理が描かれていて、僕はそんな文字列の合間合間で、ふと、この悠木という主人公に、自分自身の姿と同時に、(これは多分に映画版で堤真一さんが演じられていたキャラクター像の印象もあるのだが)どこか自分の父の姿が重なって見えた。

 というのも、この小説での描写もそうであるのだけれど、それ以上に、映画版で堤真一さんが演じていたこの悠木の姿が、とても僕の父に似ていたのだ。周りへの口の聞き方や声の出し方、そしてどっしり構えようとしている男ならではの歩き方など、映像媒体ならではの描写なのだが、その一連の姿がどうにも父に似ていた。そして、この小説の、現場責任者として、そして一記者としての使命感を強い覚悟で現場を引っ張る一方、どこか内向的なキャラクター像から、あのビジュアルや仕草を編み出した堤真一さんの演技は本当に素晴らしいと思う。

 そしてこの原作版では、やはり映画版では尺の都合上、描写としてはどうしても弱めざるを得なかったであろう、主人公である悠木の、父親としての迷いと弱さがところどころに描かれる。父親の愛情を知らぬ出自であるが故に、息子との距離の取り方に困惑し、息子の顔色を伺うような接し方ばかりしてしまう姿。自分を好いてくれる人間しか愛せず、しかしそんな、自分を好いてくれる人間であっても、ふと突き放したような態度が垣間見えるや否や絶望的な気分に陥り、それが嫌で人と距離をとってしまう。だから自分に好意をのぞかせる人間に対してさえ警戒心を抱き、自分の内面に立ち入らせまいとしてしまう。この一連の悠木の性格と息子に対する態度は、小説の序盤で描かれるのだけれど、ここでの文章があまりにも簡潔であると同時に的確で、それでいて説明的でもなく描かれるので、ここではほとんど原文そのままで借用させていただいたのだけれど、こうして改めて読んでみても、実に見事なキャラクターの描写だと思う。

 そして、この部分を読んでいて、やはり連想せずにはいられなかったのが僕の父であり、同時に彼の目を通して描かれる、悠木に対してそっけない態度を取り続ける彼の息子、淳の方には、僕自身の姿を重ねずにはいられなかった。

 僕もある時期から、どこか父に苦手意識を感じていた。僕の父は、生まれてこの方ずっと気弱で痩せっぽちでインドア派な僕とは逆に、学生時代には湘南の海でライフセーバーをしていたような実に体育会系的な人間なのだけれど、そんな父に対して僕は、特に中学に入ったくらいからだったと思うが、はっきりと「オソレ」(恐れでもあるし畏れでもある)を抱き始めてしまった。小学生の頃ほどには会話が続かなくなってしまい、一緒に食事をするのも、どこか内心びくついている自分がいた。僕でこういう時に何かはっきり原因となるような出来事があればいいのだけれど、生憎のところ、事実は小説とは違い、こういうことにはっきり原因となる出来事があったわけではない。それでも、僕はある時期から、どこか父に威圧感を感じてしまうようになっていたのは確かなのだ。小学生の頃、父と一緒に、湘南にある父方の祖父の家に遊び行った帰り、東京駅のエレベーターで見上げた僕の上の段に乗っていた父の背中に、ふと、この背中に目を離さずについて行けば、きっと迷子になるようなことはないだろうな、と、そんな風に頼もしさを感じていた父の背中に、ある時から僕は、いつまでついてきてるんだ、もっと男になれ、とでもいうかのような、そんな叱責の声のようなものを見出してしまうようになった。父に果たしてそんな思いがあるかどうかはわからない。けれども、僕自身の意識として、父にそう言われているかのような、そんな気がしてしまってならないのだ。

 そして我ながら面白いなと思ったのは、そんなここでの悠木と息子の淳の距離感に対して、僕は淳に自分を重ねると共に、悠木自身にもまた、自分を重ねていたことだった。

 生憎僕は、悠木ほどの使命感も強い責任感もなければ、彼のように仕事が出来る人間でもない。しかし、先述した彼の屈折した内面は、あまりにも僕に似ていた。自分に好意を向けてくれる人間しか愛せない。しかし同時に、そんな人間にもまたいつか何かの拍子に嫌われてしまうかもしれないという恐怖故に警戒心を抱かざるを得ず、内面に立ち入らせまいとしてしまう。そんな彼の姿は、驚くほど僕にそっくりだった。

 何より、悠木が息子の淳に対して、どこか顔色を伺うようになってしまったという接し方を、僕自身も、8歳という、年齢としては離れた部類にいる僕の弟に対して、僕がある時から取ってしまっているのだった。そして悠木が一度、淳に対して手をあげてしまったことがあるように、僕もある時、夕食の時にひどく不貞腐れた態度をとっていた弟に対して一度叱りつけてしまったことがあった。今もその日、部屋の向こうから悔しそうに啜り泣く弟の声を覚えている。大学生の時は決してそうではなかったのだけれど、社会人として働くようになって以来、僕もやはり、弟に対して、悠木が淳に対してとるような、嫌われまいと顔色を伺うようになってしまった結果、ろくに口も聞けなくなってしまった。

 主人公の悠木は、どこか父に似ている気がしてならなかった。それと同時に、彼の息子への接し方やその内面は、あまりにも僕自身に似てもいたのだ。

 きっと僕は、中学生の頃から今に至るまで、ずっと苦手であるはずの父と、実のところこの世の誰よりも物凄く良く似ているのだと思う。そしてもしかしたら、僕が弟に対して抱いている内心びくついた恐怖心もまた、父が僕に対して抱いている心理にあまりにも近いのではないかとも思うし、ひょっとしたら、僕が父に対して抱いている「オソレ」に似た感情もまた、僕の弟が、僕に対して抱いている感情に、もしかしたらあまりにも近いのではないか・・・

 それは、この小説を読んでいた僕が、社会人として働くようになってから7年が経過した今くらいの年齢になったからこそ、図らずもこの小説によってもたらされた「気付き」なのかもしれない。

 なかなか小説を読んで、ここまで自分と、自分の周りの誰かとを重ねて読んでしまうことも久しぶりだなと思うのだけれど、この小説は、とりわけ今の僕には、「父と息子の物語」として、30の僕の目には映るのだ。

 ちなみに、映画版の方はむしろ、記者としての使命感、すなわち、主人公である悠木の、自身の職務への使命感に僕は憧れている。それは多分、映画版が父と息子の物語よりはむしろその点をフィーチャーしているからというのもあるだろうけれど、同時に、その映画版を見たのが、今の僕よりずっと若かったからというのもあるかもしれない。特に映画の終盤(ちなみに原作では、映画の終盤の展開の後にも、悠木の記者としての使命感に関わる重要なエピソードが描かれている)における、事故に関する決定的なスクープを前に下した悠木の決断は、仕事をする上で、今でも僕はプロ意識の模範にしている。詳しく書くとネタバレになってしまうので、ここは是非原作を、もしくは映画版で確認していただきたいなと思う。

 映画小説ともに、人にお勧めしたい素晴らし一作だ。