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冬がもたらすこと


ひさしぶりの日本で味わう「冬」。今年は自分のなかの心境で初めて味わう感覚があって、その新しい感覚との出会いを言語化したくなりました。

いま私には2つの時間軸があります。年の変わり目にむけてだんだんと音楽のボリュームを落とすかのように内へ内へむかう「静けさ」に包まれる日本の時間軸。一方で、年の変わり目にむけてだんだんとボリュームをあげて外へ外へむかう「眩しさ」にあふれるニュージーランドの時間軸。

そんな2つの時間軸を知って、いまわたしは「日本の冬の美しさ」について
考える機会がふえました。


造園のお仕事の中でも、の紅葉や花期が多く揃うをメイン舞台にお話をすることが多いのです。もちろん誰もが納得する「SAKURA」と「JAPAN」。春はきっと日本の文化史からも海外から見ても日本人にとって大切な季節に違いない。でも、ひょっとしたら「冬」にこそ日本の独特な深みのある世界がつまっていることをいつにもまして感じるのです。


それはただ体感からくる「寒さ」だけでないのです。「師走」の名のとおり意識がどこかに行ってしまうほどの仕事の物理的バタバタや精神的バタバタ。クリスマス後、フッと華やかなイルミネーションの灯りがおとされ終わってしまったという寂しさ。

そして暮れの挨拶。「本年も大変お世話になりました。どうぞよいお年をお迎えください」というあの情景。年末になると無償に片付けなきゃと不思議に追われる感覚。入り口にはられた年末年始の営業時間についてのお知らせ。手にとっては戻しああでもないこうでもないとお正月飾りやお年玉ぶくろを選ぶ人々の姿。

ただただ落葉した樹木につつまれた風景だけでなく、そういった「心の動き」が大きな部分を占めていたことに気づいたのです。「まちの動き」「ひとの仕草」がひとつずつ微妙に折り重なりそれが日常のなかで知らずしらず繰り広げられています。

今年、なにが「日本の冬」をつくりだしていることを知りました。

きっと何かひとつでもだめで、すべてがこの「冬」という時期に折り重なるからこそ美しくて私達はこの1年を独自の世界観で年の瀬をむかえるのだなと感じました。


今日本からSNSを通してのぞくニュージーランドは、画面の明るさが変わる程の透き通るブルーの海のひろがりや乾杯のすがたが私にはまぶしくてまぶしくて、ときになんで帰国してしまったんだろうと気持ちがおちることもあります。本当に夏の勢いというものの凄さをニュージーランドから学びました。

けれでもその一方で日本にそれほどの夏に飛び抜けた勢いはないと思います。

「四季」を音楽に例えると日本には春夏秋冬でおだやかに「うつろい」たボリュームがあって、冬で音色は静まるけども冬で年末を迎えるこその独特な世界がある気がします。



春にむけてすこしずつコブシの花芽が膨らみ、モクレンが彩り、梅の花が紅白に彩る。そして桜の一瞬の花舞台がやってくる。

徐々にボリュームをひねりながら、春が来る。


秋の紅葉も日本の葉の染まりは本当に繊細。紅葉」自体はニュージーランドでもカナダでもあじわうことができる。


でも日本にはそのなかに「繊細」な何かがつまっていて、冬に向かう人々の行動や心境の変化が知らずしらずとこの美しい自然情景と折り重なっていたからこそ
感じる「うつくしさ」ということを知ったのだと思います。



この世界で難しい状況のなかで、わたし自身も心になにかわだかまりを感じながらもいまの気持ちにしっくりくる言葉を探しています。

閉じたままの国境の状況に悲しくなったり、なにも変わっていないと感じるこの日常なかで着々と「冬」という季節が日々動いていることを忘れてはいけないと私は思うのです。



日本にしかない「冬」の折り重なりをいまこのあたらえられた待ち時間に愉しんでみてはどうだろうかと。



そうしたらきっとこれから先の海外での生活もより一層豊かに心が動くのではないかと、わたしは感じました。










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