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モーリス・ユトリロ〜混沌の"赤"に呑まれ、静謐の"白"へ還る〜

ソール通りの緩い坂を下ると、目当ての店の白い壁が見えた。その手前の西洋ナナカマドの赤い実がよく映えている。

「最近じゃ、昼から飲んでるさ。おおかた、アジルだろ」

テルトル広場にたむろす、"エコール・ド・パリ"※1の連中に男の居場所を尋ねると、皆、口を揃えてそう言った。
※1 モンパルナス等でボヘミアン的な生活をしていた画家達

1914年、9月。
モンマルトル、「ラパン・アジル」。
このシャンソン酒場が、私がこれから会おうとしている男の"常宿"らしい。

「モーリス・ユトリロ。
複雑な家庭環境で育ち、10代でアルコール依存症になり、その中で描くことと出会い、今やモンマルトル界隈で彼と彼の絵を知らない者はない…」

私は取材資料のメモを丸めるとコートのポケットに突っ込んだ。

そんなことに、興味があるわけではない。
私は小さく息を吐くと、ラパン・アジルの木の扉に手をかけた。
重い。
力を込めた瞬間、内側から扉が強く押され、男が転がり出てきた。店内に向かって何か喚きながら、その男は思い切り私にぶつかり、私は男と抱き合うような形で店の前の石畳に投げ出された。
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コタン小路の急な階段に腰掛け、男はぶつかったことを詫びるでもなく、自虐的にハハッと短く笑った。
「先が見えないでしょう?この階段。だからいいんです」

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男と並んで階段に座ると、張り出した木の枝と葉で、確かに階段の下はよく見えなかった。

「あなたから"会いに来て"くれるとは思いませんでしたよ、ムッシュー、モーリス」

皮肉を込めたつもりだが、隣りの酒臭い男には通じなかったようだ。

「僕が言うのもなんだけど、昼っまからあんなとこにいる連中を信じない方がいい」
「では、あなたのこともですか?」
「もちろんだ、知らないか?モーリス・ユトリロといえばこの辺じゃ、一番信じちゃいけない男ってことになってる。光栄なもんさ」
「この辺じゃ1番の絵描き、ではなく?」
「バカ言うな。冗談だとしても気分が悪い」
「……」

「さっき、何があったんですか?」
「なに、つまらない話さ。カウンターで隣りだった下卑た詩人崩れが"女性の子宮は神のゆりかご"なんて言うから、初耳だな、じゃあ男にも子宮があるのかい、子宮っていや、生まれる前から『女性の』専売特許に決まってんだろ、ヴィクトル=マリー・ユーゴーからやり直せって言ってやったんだ」
「……」
「そしたらちと、騒ぎが大きくなっちまってね。全く、文学が聞いて呆れら。あんなもんはただの酔っ払いの戯言だ…………おっと、信じるなよ、僕の言うコレだって、似たようなもんさ」
「……」

「ラパン・アジルへはよく行かれるのですか?」
「ゆりかごといえば、あそここそ、そうさ」
「確かに、あの店はあなた方、芸術家達の集まる場所になっていますね」
「まぁ、しがないキャバレーなんだけどね。ムーラン・ルージュじゃ居心地の悪い"やさぐれ"が来るのさ」

「少し、絵の話を聞かせてもらっても?」
「……」
「あなたの絵や、創作はお酒と分かち難く結びついているように思います」
「母親が変わり者でね、祖母に預けられて育ったんだ」
「お祖母様も、お酒が強かったようですね」
「……。ふん、どうせもう僕のことは色々調べてるんだろ?いちいち小出しにしなくていい」

「別に、僕がアル中になったのは祖母のせいじゃない。確かに祖母には酒を勧められたが、それは彼女の好意なんだ。祖母には、僕が…常に張り詰めて見えたんだろう。実際そうだったし、だから祖母は間違っちゃいなかったんだ」
「あなたのお母様、シュザンヌ・バラドンは自身も芸術家として活動していますね」
「あぁ。君も、僕より母を取材した方が良かったんじゃないか。母こそ、本物の"モンストル(怪物)"さ」
「お母様の『噂』は色々と聞いています。でも今は、あなたのお話を聞かせてください」
「そうかい。ならお好きにどうぞ」
「お母様に充分愛情をかけてもらえなかった寂しさが、あなたを過度な飲酒へ、アルコール中毒へ向かわせたとは思いませんか?」

彼は俯くとまた軽くフンと笑った。
「あるかもしれないね。でも分からない。最初はそうだったとして、今はただただ、"赤"※2が好きなのさ。フランス人で"赤"をやらない奴はもぐりだろ?」
「……去年はサノワの診療所で過ごしたと聞いています」
「酒は薬だなんて言うけど、やはり飲み過ぎはダメだね。しょっちゅう身体を壊してる。そのたび、絵が描きたくなるんだ。もういいやというやけっぱちな思いと、昔好きだった女の子の髪の艶やかさとか、幼い頃、母に抱きしめられた温かさとか、そういう失った宝物をもう遅いんだけど、もう一度大切にしたくなるような狂おしい気持ちが同時に湧き上がって、気づいたら、筆をとってる。困った話さ。実際、僕自身、手に負えないんだ」
※2赤ワイン

「あなたの描く風景画は"白"が物哀しく哭いていて、静謐ながら強さがあります」
「もう一度戻りたいんだろう、"白"へ」
「それはどこにあるのでしょう?」
「母シュザンヌの、腕の中かな?ハハッ、そんな答えを期待したかい?馬鹿言っちゃいけない。あるとしたら、ワインの酔いの中だけさ」
「……」
「いや、描くこと、その中にこそ、白く温かく、寂しい場所はある。僕はそこが大好きなんだ。そこでだけ、僕は泣ける」

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「去年、ウジェーヌ・ブロ画廊で行われたあなたの個展を拝見しました」
「そうかい。僕はやりたいなんて言ってない。あれはルイが勝手にやったんだ」
「画商のルイ・リボードが今のあなたの後見人ですか?」
「そうなるのかな。気に入っちゃないがね。月に何枚以上描くなとか、なんだとか。金儲けのことしか考えてないくせに、芸術家の理解者ぶってる。いつかあいつのポマードまみれの頭に唾を吐きかけてやるのが、当面の生きる目標さ。ハハッ」
「確かに、色々干渉があると聞いています。母親のシュザンヌともルイはやり合ってるとか?」
「どちらも僕の絵を金に換えて、自分の生活が潤うことを考えてる点じゃ同じさ。でも母は火のような人だ。金が欲しいのは本心だろうが、時に僕を温めてもくれる。その分だけ、母の方が良い」

「それに、ルイとの契約は6月で切れたんだ。今は凧のない糸さ、あ、糸のない凧か、ハハッ。いや、凧なんて立派過ぎる。やっぱ、僕は凧のない糸くらいでちょうどいい」
「そうでしたか…しかしすぐパトロンや画商は現れるでしょう。去年のサロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンに出品されたあなたの作品も好評でした」
「だといいけど。せめて酒代くらいは自分で稼ぎたいね。奢られて飲む酒ほど酔えないものはない。そこまでして飲むなら、ヤギの乳でも飲んでる方がいい」

「ユッテルとの関係はどうですか?彼はあなたの友人であり、良き画家仲間と聞いています」
「そりゃ、いつの話だ?ライターさん。少し、調べが甘いんじゃないか?ハハッ。まぁ良いんだけど。だいいち、そんな大した話じゃない。ユッテルは…もう絵は辞めたよ」
「そうでしたか…では今は何を?」
「………ハハッ。どうもやっぱり、階段は男2人で並んで座るもんじゃないね。寒くていけない。どうだい?"黒猫"※3にでも行かないか?君も少しは、いけるんだろ?」
「多少なら」
「なら決まりだ。奢るよ」
そう言うと、彼は先に立って歩き出した。
※3 キャバレー・黒猫 (Le Chat Noir)
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ユトリロはクイっと赤ワインを口にすると気持ち良さげに言った。
「いやー、生き返るね。実際、僕は本来、インタビューなんてされる柄じゃない。さっきから、口が回り過ぎていけない。ワインは、饒舌になる為に飲むもんじゃない、口を重くする為に飲むものさ。最もそれじゃ、君にとっては都合が悪いかもしれないが」
「いえ、私まで、黙らないよう、気をつけます」
「そうだね、男2人、押し黙って飲むのもハードボイルドだが芸がない。おっと…そうか、ユッテルのことだったね。彼はもう、絵描きとして立つことはやめたらしい」
「でも、今でも彼の作品を展覧会で見ますが?」
「あぁ、描いてはいるが…絵で成功して生きていこうっていうのはもう…って意味さ。今は僕のサポートをしてくれてるってことになってる、一応ね」
「一応とは?」
「金だよ。別に彼だってボランティアじゃない。それに彼は、僕の母、シュザンヌと結婚したんだ。笑えるだろ?」
「え!?シュザンヌとあなたの友人、ユッテルが?」
「そうさ、なぁ、教えてくれよ、僕はどんな顔してあの家にいればいい?ここらじゃ僕ら3人のことを"地獄の3人組"と呼んでるよ。反論する気になれないのは、あながち的外れでもないからさ」

「あなたは母シュザンヌと、ユッテル、2人を経済的に支えなければいけない立場ということですか?」
「まぁ金ならなんとかなるだろう、幸い3人共、乳飲み子というわけじゃない。おっと、ユッテルは最近じゃ別の意味で乳飲み子に………おいおい、ここは笑うとこだぜ?頼むよ、ワインが苦くなるだろ?」
「……お父様からの経済的援助は?」
「父など知らないよ」
「美術評論家のミゲル・ウトリリョがあなたの父では?」
「アレは養父さ。会ったこともない」
「……」
「本当の父は僕も知らない。どうせどこかのキャバレーの飲んだくれだったんだろう。じゃなきゃ、僕がこうなる説明がつかない。ハハッ」

「あなたがお酒に逃げたくなる気持ちも、少し分かります」
「別に何からも逃げてないさ。好きで飲んでるだけだ。ライターの習性かもしれないが、変な"ストーリー"を作ろうとしないでくれ。僕の人生にさほどの意味などないのさ。君の人生も、同じようなもんだろ?」
「えぇ。ただ私は、あなたの作品の背後にあるものを知りたい」
「背後か……何もないよ。白なんだ」
「白、ですか?」
「あぁ、意味やストーリーがつくと重くなる、構える。何もないから自由に描ける。もし何かがあるとしたら、絵の背景じゃない、こちら側なんだ」
「描いた後に、あなたの心に変化が生まれると?」
「そう、でもすぐ消える。僕が描いた『冬のラパン・アジル』の雪のようにね」
「消えるなら、また描く意味もありますね」
「そうさ、そうやって同じところを繰り返してる。意味はないのさ、ただ行為と束の間の充足がある。人生はその繰り返しだ」

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「これから、画家としてどうなりたいとか、夢はありますか?」
「ハハッ。そうだなぁ……君の夢は?」
「私ですか?そうですね、特にありません。こうしてインタビューという形で、誰かの人生に束の間の、お邪魔できたらそれで充分です」
「そうか。僕はあまり長生きはしたくないんだ。充分描いたと思ったら早めにキャンバスをしまいたい。酔いが、醒めないうちに」

「充分描いた、その日はくるでしょうか?」
「さぁね。考えたところで仕方ない」
「では、今現在はどうですか?モンマルトルでの認知度も上がってきて、画家としての成功も見えてきています。充実感や幸せはありますか?」
「実感はないよ。だいたい画家としての成功って何だい?ピカソみたいに女を取っ替えひっかえすることかい?僕の趣味じゃない」
「………」

「絵の構図は、どんな時に浮かぶのですか?」
「酔って暴れて、ぶん殴られて、歩いてる時かな。風景が綺麗で優しく見える」
「それは冗談でしょうか?真面目な話ですか?」
「そういう時もあるって話さ。実際は、気に入った風景をただ描いてるだけさ」
「あなたの風景画はどこか寂しさがある。でもそれが心地いい。不思議な魅力に満ちています」
「無駄に描かないことさ。ハハッ。いけねぇ、思わず"画家"みたいなことを言っちまった。ここは、カットしてくれよ、頼むぜ?」

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「無駄、というのは?」
「参ったな…あるだろ?現実に見える色んな細々したものが。実際の風景にも、自分自身の心の内にも。そうしたものを、キャンバスにぶちまけるなってことさ。丁寧に拾って、並べろってことさ。本当に大切なものだけ」
「そうして描けば、"白"が生まれると?」
「知らないよ。これ以上、言わせないでくれ。言ったろ、本来、柄じゃないんだ、インタビューなんて」

「最後に1つ、聞かせてください。お母様や、ユッテルとのことはどう考えていますか?」
「どうって…何がさ?」
「いえ、なかなか、難しい関係だと思うのですが、上手くやっていこうと思っているとか、もしくは決別したいとか、お気持ちをお聞かせ願えれば」
「んー生きてくしかないんじゃないかな?」
「さしあたりは3人で、ということでしょうか?」
「住まいのことを言うならそうだろうね」
「一緒に居づらいというような話も先程ありましたが?」
「あぁ。だからってその人との関係を終わらせるわけにもいかないだろ?納得ずくで生きてくしかないのさ。アレが嫌だ、コレがむかつく、言っていたらキリがない。人生のほとんどはそういうもんさ。そう思って、平気で生きていけばいい」

「あなたは、強い人です」
「やめてくれ。何も考えてないだけさ。そろそろ、良いかな?」
「すみません、最後に1つだけ」
「それ、さっきも聞いたよ?」
「あ…」
「ハハッ。冗談さ。いいよ、でも本当にこれで最後だぜ?気の利いたやつにしてくれよ?」

「描くことは、楽しいですか?」
「決まってる。そうじゃなきゃ描かないさ」
「ありがとうございます。これからもあなたの作品に、注目しています」
「そうかい、ありがとう。良かったらまた飲もう。今度はそっちの奢りでね。ハハッ」

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彼と別れ、スタンケルク通りをサクレクール寺院の方へ向かって歩きながら私は彼との話を思い返していた。
色々と、感じるところはあったが、何度思い返しても、最終的にいきつくのは、彼の照れ隠しのような独特な笑顔なのだった。


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