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The Diary Of A Young Girl foreward1

アンネ・フランクは1942年の6月12日から1944年の8月1日まで日記を書き続けた。最初、彼女は自分自身に対して厳しく日記を書いていた。1944年のある日、ロンドンに亡命中のオランダ政府の一員、GerritBolkestein(ゲリット・ボルクシュタイン)、がロンドンからのラジオ放送で「この戦争が終わったら、ドイツの占領下のオランダ人たちの苦しみの証拠を集めるたい。そしてそれは公の発表にも活用しうる。」と発表した。その例えとして、彼は特に手紙や日記に言及した。

この放送に感銘を受け、アンネ・フランクは「戦争が終わったとき、私の日記をもとにして、本を出版しよう。」と決意した。彼女は自分の日記を文章を改善しながら、あんまり面白くないと思った個所を省いたり、思い出の中からほかのことを加えたりしながら、書き直し、編集し始めた。それと同時に、彼女は日記を書いた。学術研究、"アンネ・フランクの日記:批判校訂版"The Diary of Anne Frank:The Critical Edition(1989)において、アンネの最初の、編集されていない日記は、彼女の二番目のもの、b版として知られて編集された日記と区別するために、a版として言及されている。

アンネの日記の最後の日付の記載は1944年8月1日である。1944年8月4日、秘密の屋根裏部屋に隠れていた8人は拘束された。MIep GiesとBep Voskuijl、そのビルで働いていた二人の秘書たちは床に散らばっていたアンネの日記を見つけた。Miepは安全に保管するために、机の引き出しに押し込んだ。戦争が終わり、アンネが亡くなったことが明らかになったとき、彼女はその中身を読まずにその日記を、アンネの父親、オットー・フランクに手渡した。

今日は、手始めとして、前書きから訳してみました。
やっていく中で、試行錯誤、創意工夫を重ね、ナチュラルかつ英語の原文に忠実な文章で、日本語にしてみます。

誰に強制されたわけじゃない、私がやってみたいからやってみるだけ。ずっと学校の授業や、大人になっての資格試験など、義務でいろんな知識を詰め込んできた私が、自由に本当にやりたくてやる、自分を解放する時間でもあると思いました。

今日は最初で堅苦しい文章となっていますが、それも続けていく中で何か自分の中にコツみたいなものが見えてくると思います。

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