- 運営しているクリエイター
記事一覧
『いつかの(池袋の)メリークリスマス。ふたりはまだ、手をつないでる?』 トーキョー’90クロニクル vol.14
行きつけだった池袋のデートクラブの受付は、20代半ばくらいの、ストリート系のお兄さんだった。ぶかっとしたトレーナーに腰で履いたオーバーサイズのデニムからは、トランクスのウエストゴムが覗いていた。ロゴはTommy Hilfigerだったか、それともFILAだったか覚えていない。ツバをあげて被ったキャップに短髪。よく笑う人で優しかった。気のいいお兄さんという感じで、「聞いてよ、さっきの客、ヤバ―!」み
もっとみる『転がされているオジサンの、限りなく透明に近い精液』トーキョー’90クロニクル vol.10
ガジロウと呼ばれている“パパ”がいた。シンプルに役者の佐藤蛾次郎に似ているから、ガジロウというあだ名をつけられていた。
ガジロウは性的な行為をしなくても、お金をくれるパパだった。ご飯に付き合ったり、一緒に買い物に行くだけでいつもお金をくれる。女の子たちをはべらかしてチヤホヤされるのが好きで、だからいつも友達を連れてきて欲しがっていたし、友達を紹介すると、その子ともわたし抜きで会うようになり、さ
『16歳のわたしが一番欲しかったもの。それはミ・ジェーンの花柄レギンスや、裾にレースのあしらわれたピンクフラミンゴのデニムショートパンツではなく』トーキョー’90クロニクル vol.2
16歳のわたしが一番欲しかったもの。それはミ・ジェーンの花柄レギンスや、裾にレースのあしらわれたピンクフラミンゴのデニムショートパンツではなく、もちろんトパーズの指輪や、そして彼氏でさえもなく、ポケットベル。通称ポケベルと呼ばれる小型の無線受信機でした。
まだ携帯電話は高価であり、ほとんど普及していなかった当時、東京の高校生たちが、互いに連絡を取る手段といえば家電や公衆電話、そしてポケベルしかあ
『飯島愛がアイアイ言っている一方で、細川ふみえは、にゃんにゃん言っていた』トーキョー’90クロニクル vol.3
「ね、ポケベル欲しくない?」
すぐに怪しげな誘いとすぐにわかったものの、ポケベルは欲しい、喉から手が出るくらいに欲しい。頷くわたしを、キャッチの男はすぐそばの雑居ビルへと案内してくれました。
風俗店や街金の案内表示のあるエレベーターに乗って、連れていかれた先は『ツーショットダイヤル』の事業を行っている事務所。そこでわたしは『ポケベルと交換にツーショットダイヤルのサクラ』をしないかという打診を受け
『18歳になったらコギャルは引退、20歳になったらもうオバサン』トーキョー’90クロニクル vol.4
同じ学区の高校に通う、ひとつ年上のHIROMIXが”女子高生カメラマン”として活躍していたあの頃。カメラ機能のついた携帯電話もなければ、デジタルカメラも普及していなかった1994年、わたしたちの鞄にもまた、レンズ付きフィルム『写ルンです』と、お気に入りの写真を差し込んだミニアルバムとが必ず入っていました。
それらを持ち歩いていた理由は二つ。ひとつには、ストリートで知り合った同じ年の女子高生たちと
『ウリ』は『ウリ』でも多くは『切りウリ』だった。トーキョー’90クロニクル vol.6
海外で売春婦スタイルというと、ニーハイブーツにボディコンシャスなミニスカートが定番だそうですが、90年代の東京では“着崩した制服”こそが、その証でした。
制服を身につけて道をただ歩いているだけで「いくら?」と声を掛けられ、電話ボックスで友達にポケベルを打っていると、ガラス越し指を三本突き立てられる。メディアで扇情された『女子高生=援助交際』というイメージを、脳内にすっかり刷り込まれた中年男性たち
『時代はあなたに委ねてる。選ばれる優越感と、ボーイ・ミーツ・ガール』トーキョー’90クロニクル vol.8
放課後、女子高生デートクラブに足繁く通うようになったのは、デート一回につき5000円という、高校生にとってはそこそこの大金が稼げるチャンスがあったことや、退屈な同級生たちとは違う刺激的な女の子たちと出会えて仲良くなれたこともあったけれど、それ以上に指名を受けた時の昂揚感がハンパなかったからだ。
もっとみる