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2022年ベストアルバム 20枚:録音される記憶

商業メディアではない自分にとっては2022年に聴いた作品とその手触りを何かの形で残すことは自己満足以外の何物でも無い。一方、年末にこう振り返ることで1年間が体系化されていく快楽は確実にある。その先に数年後に誰かがこのテキストに行き着き「こんな作品がこの年に誰かにこうやって受け止められていたのか、へー」と思ってくれれば幸いです。

思うがままに選盤したつもりだが、いくつかのトピックに分けることができたので、それに沿ってアルバムについて書いていきます。順位はつけてません。


録音芸術〜ポストロック~音響派~電子音楽

先日も書いたが、今年は「ポストロック」と広義にカテゴライズされる音楽を中心に音楽を聞いていた。自分の中で「ポストロック」の定義は拡大し、ポストプロダクションの寄与具合と生々しさのバランスが好みであれば勝手に盛り上がっていた。

①Sam Prekop and John McEntire「Sons Of」

彼らが辿ったキャリアと携わった作品だけを聞いてもきっと数年間は楽しめるであろうポストロック/音響派/エレクトロニカ/インディーシーンの裏の顔・Sam PrekopとJohn McEntireがコラボした作品。両者によるモジュラーシンセサイザーとドラムマシンを用いた即興演奏を素材に、McEntireの所持するSoma Studioでミックスやアレンジが行われるという形で制作された。丸い温かみを帯びた音が織りなすエレクトロニカ、という点はSam prekopの近作との共通項であるし目新しい訳ではない。バスドラムが等間隔にリズムを打ち、アナログシンセサイザーのパルスが重なる。徐々に主題が変化するウワモノとアルバムを通して一定のBPMを保ち続けるリズム。「変わっていくもの」と「変わらないもの」が揺蕩っていくこのアルバムには「A Ghost At Noon」や「Crossing At The Shallow」といった「相反する事象の交差」をモチーフにしたタイトルを持つ曲が並ぶ。変化する社会とリスナーの関係性をアブストラクトに描いた本作には言葉はなくとも混迷の2022年を描き切る批評性がある。


②岡田拓郎「Betsu No Jikan」

ジャズのスタンダードナンバー「至上の愛」のカバーで始まるアルバムはDAWソフトとインターネットサービスが世界を覆っているこの時代だからこその制作方法が採用された。石若駿との即興演奏で生まれた録音の上にジム・オルーク、ネルス・クライン、サム・ゲンデル、カルロス・ニーニョ、細野晴臣といったアーティストが演奏を重ね、その演奏を編集し再構成する。まさにポストロック的な録音編集芸術の粋を集めた作品と言える。とはいえこの作品には錚々たる面々のエゴのようなものは一切存在しない。また耳に残るようなフレーズが繰り返されることもない。プレイヤー各々が一瞬一瞬の楽器演奏に意識を注いだ総体としてひたすらに流麗にサウンドが脳を通っていく。演奏している時間軸、編集している時間軸、それを聴いている時間軸が交差しその複雑な時間の中で微睡む。岡田拓郎のルーツとプレイヤーとして研鑽を重ねた期間と現在地さえ包括したような名作だろう。


③caroline「caroline」

言うなれば「ロンドン音響派」だろうか。8人組という特性を活かしたハーブや管楽器、弦楽器の音も含めたふくよかなサウンドスケープは交響楽団といった趣もある。その中でAmerican Footballfから連なる感情が張り裂けそうな美しいアルペジオが響く。また同時に歌心を理解している点に惹かれ、「Good Morning」におけるUSオルタナフォークに連なるような静謐さを携えた抑えた歌唱と楽器の混じり合いにこれ以上ない心地よさを覚えた。バンドメンバーの多様な音楽的ルーツと育った場所の文化さえアルバムに織り上げられているように聞こえ、そういう意味でもドラマティックな1枚だと云える。


④Fake creators「Figure」

LITEとDE DE MOUSEのコラボレーションは「バンドとエレクトリックがぐちゃぐちゃに混じり合う」と本人が言っている通りLITEの演奏の素材をDE DE MOUSEが再構成するという形で作られ、これは今回の記事でも数回触れている私がポストロックだと考える大きな要素だ。生音でもなく電子音でもない音響やテクスチャーはどこかVaporwave的であり、ジャケットイラストの奇妙さとの相乗効果もあり、デスクトップとリアルに挟まれるような奇妙な感覚。また、私はポストロックやスロウコアを聴く際に静から動へバンド全体が移行するダイナミズムに興奮を覚える。本作においても静から動への移行は多く見られるのだけど、「When You Fake Speak」では「静」をリバースのかかったギターコードのストロークスを響かせることで表現し、「動」をDE DE MOUSEの真骨頂であるドラムンベースとLITEの真骨頂であるアルペジオの掛け合わせによって表現している。改めてポストロックの興奮を再構成するというコンセプトも読み取れ、かなり好みだった作品。ライブを見たい。


⑤Whatever The Weather 「Whatever The weather」

このアルバムに意味を持つ言葉はない。提示されたのは「Whatever the Weather」というアーティスト名、そして曲の温度だけだ。意味性を封じられた曲たちはそのきめ細やかな音、変化していくリズム、抗えないシンセサイザーの音で生まれる快楽だけを供給する。そうすると我々は与えられた「温度」という情報にそのバックグラウンドやその景色やそこに居た誰かの心情を想像してしまう。別名義ロレインジェームズの名で発売されたアルバムと共にUKダンスシーンの盛り上がり方を存分に見せてくれる傑作。ライブもシンセやサンプリングの音が頭と脳をかき混ぜつつ低音がボディにストレートを打ってくるという肉体にも精神にも快楽だけを送り込んでくれるような1時間ちょっとで素晴らしく、行けて良かった。


⑥Pot-pourri「Diary」

HEADZからのリリースもなされている東京を中心に活動しているバンドによる6曲入りEP。正直度肝を抜かれた。一聴して感じたのは編曲と作曲と録音とミックスが常に同時進行で行われているような時間軸の混在だ。アコギの音は録音されコピー&ペーストされ、同時にリズムパターンが構成されていく。脳内とDAWソフトが繋がりアイデアと制作が直結する。バンドというシステムを再構成するかのように作られたであろうコラージュ感からポストロックと呼びたくなる。ループを中心として組み立てられた作品で、「行かなくちゃいけない」と連呼されることでその意味がより立体的になったり、M2「Comic」において「3か月」「9か月」「13か月」と繰り返される度に時が進む構成だったりと曲構造と言葉を関連させる妙が憎い。「AMSP」期のRadioheadを思われるリズムアプローチやボーカリゼーションが随所に見えることも含め今年の邦楽バンドシーンを語る上での1つのメルクマールであろう。


⑦ゆうらん船「MY REVOLUTION」

「東京インディー」を「10年代のロッキングオン中心のフェスブームに迎合しなかったバンド」として捉えたとして、ゆうらん船はその系譜にあるし、また音楽性の面でも東京インディーの源流と云えるはっぴぃえんどや更には中村一義、くるりといったフォークロックと呼べる面々と共通する点が多く見受けられる。ただ今作はさらに私の好きな方向に音楽性を拡張した。インタビューによるとデスキャブフォーキューティーやサニーデイリアルエステイト、更にはLCD Sound Systemの名を出すなどアメリカのアーティストに影響されたという。それは今作の後半の楽曲達に表れていて、「Hurt」における生のアンサンブルとダンサンブルなビートを掛け合わせた様相はLCD Soundsystemのそれだし、「Headphone2」に関してはエレクトロニカに傾倒したシカゴ音響派の面々に通じる実験精神を読み取れる。「少しの風」の弦楽器や管楽器で彩られた壮大なフォークロックはまさにwilcoなどのUSインディーと共鳴しており、そこから以前の彼ららしい「good morning」になだれ込む構成は完璧に近い。彼らなりの「革命」が為された傑作である。


⑧優河「言葉のない夜に」

シンガーソングライター・優河のフルアルバム。岡田拓郎を中心とした「魔法バンド」を携え制作された今作はいかに優河の声を響かすかに重点を置いている。バンドメンバー・神谷洵平が「すごく伸びやかで、声が縦にも横にも伸びていく。リズム感を超えていくような感覚があって、音楽的というのはこういうことだ」と評した彼女の声は一聴しただけで大自然の雄大さを前にしたような超然さにひれ伏すしかない。その声を最大限活かすために海外のインディーフォーク的アプローチで作曲・録音を行いPhoebe Bridgersらを思い出すような静謐さとダイナミックさを備えた傑作が生まれた。声もギターも「音」は全て空気の震えであることを思い起こさせてくれる一作。新曲「People」も「言葉のない夜に」を踏襲するような佳曲。



今、バンドサウンドで夢を見るか?

サマソニ、いくつかの来日公演に見に行くたびにバンドという形のロマンやあり方に対しての憧れが改めて溢れた。それは緩やかな連帯という可能性への期待であり、生まれる強靭なグルーブへの単純な昂りでもあった。その空気感がパッケージされている作品、特にメジャーシーンでそうあり続けている作品には自分が中学生の頃に感じたあの憧れを未だに覚える。

⑨Big Thief「Dragon New Warm Mountain I Believe in You」

幸福にも生で演奏を見ることが叶い、フロントマン・エイドリアンが野蛮に、そして想像よりも狂暴に声を張り上げギターを弾く様をそっと逞しく支えるステージの空気感にバンドという生命体の美しさに胸を打たれたのだが、それを踏まえてアルバムを聴くと思っていたより淡白だと気付く。ただその淡白さの中にトライバルなリズムアプローチや楽曲を変容させるほど歪んだギターソロの存在があり、そういったいくつもの要素がバンドという巨大な器にそっと抱擁されている事実とその美学に感謝の念さえ浮かぶ。


⑩Arctic Monkeys「The Car」

以前Arctic Monkeysを全部聞き感想を書いたので新作に触れないわけにはいかない。もう彼らにとってギターを持つ/持たないはさしたる問題では無いのだろうけど、前作の濃厚な色気を放つ雰囲気に極上のギターのトーンが混じりあった今作は3rd以降の、そして「AM」と対になるような、彼らの作品作りのひとつの集大成だろう。若者の「粋がり」としてバンドのグルーブを前面に出したミドルチューンを連発してきた彼らも30代中頃を向かえ、「粋がり」ではなく等身大のポップスとして本作のような曲を演奏出来るように至った。映画音楽的な雄大さとバーの片隅で鳴るような密やかさを両立させるアレックスのボーカルは、バンドのフロントマンのとしてみならずボウイのような優れた英国のシンガーの1人として数えられうるレベルまで到達している。来日公演当たってください


⑪ODD Foot Works「Master Work」

「バンド」に近いコレクティブとしての作品で、そこに漂う空気感は私が憧れるそれである。その空気感の要素に寄与するのがSMAP感、Dragon Ash感だ。すなわち「平成」を匂わす作品。耳なじみが良い。「何がどうミクスチャーだったのか」を以前書いたのでぜひ。


⑫The 1975「Being Funny in A Foreign Language」

今作でThe 1975は新しい発明や改革は敢えて起こさなかった。個々人間の「愛」に立ち返り良いメロディーを良い演奏に載せて良い録音で届ける。それが結果として彼ら自身のキャリア、そしてイギリスのロックバンドの歩みを総決算するひとつの到達点となった。このアルバムを出せた彼らの次の作品はいくら遊んでもいくら尖っても問題は無いし、そんな姿を期待している。これも以前書いt….


⑬The Orielles「Tableau」

The 1975がイギリスのポップミュージックの軌跡を改めて提示したのなら、同様にモノクロのジャケットを持つこの作品はイギリスのインディーバンドシーンのオルタナティブな側面の先に位置している。Portise Headの霧の中で酩酊しながら踊るような快楽、Joy Divisionのような硬質かつダンサンブルなバンドサウンド、アシッド・ハウスの興奮、シューゲイザー的な音の揺れと重なり。極め付けはM4「The Instrument」、M6「Television」などで見られるリズムへの執着やギターのサウンドやフレーズ、ボーカルのリバーブ感から連想されるRadioheadとの親和性だろう。音楽は影響と引用の歴史であり、その流れを次世代に繋いでいくための一つの参照点になるような傑作。



個をうたい時代を引き受ける

デスクトップや自室の孤独に見舞われた2020年、2021年の雰囲気が少し晴れたからこそ個人で見る景色に差異が生じた2022年。その景色と同時に立ち現れる脳内のイマジネーションを記録することで世界はレコードとして記憶される。

⑭Mom「¥の世界」

「そう!感触をただ楽しめよ 青春は終わりを告げてしまうけど」「それがどうかしたの」という言葉には、絶望や諦めや停滞が常態化してしまった時代の空気が詰まっている。同時に怒りを発散するようにアコースティックギターやハーモニカを弾く音や「生き続けてやるぜ」というリリックに希望を見出せる。メロディーを歌い切ることと歪なパズルのようなトラックの構成が混迷を深めていく中盤から終盤にかけてのハイライトが「青い花」だ。oasisの「Whatever」や「Wonderwall」をオマージュしたようなコードとメロディーに「20世紀の喜び悲しみを何一つ知ることができないんだね」というリリックが代表するように、瘡蓋をそっと剥がす痛みと快楽を美しさで昇華させるような名曲。社会の歪みとぼくらの痛みとほんの僅かな希望を真摯に掬い上げる2022年のブルース名盤。


⑮Uztama「風が凪ぐ」

青々とした田園風景にアニメ柄の少女がふわりと浮くジャケットを見てどこか懐かしさを覚えたが、それ以上に作品を聞く中でデジャブが連続する。プリマイザーやオートチューンで加工された声は肉体性を排しつつもThe 1975、Galileo Galilei、Bombay Cycle club、oasis、weezerといったバンドからの影響で生まれたエバークリーンなメロディーがストレートに響く。
一方でサ柄直生、dom mino、牛尾憲輔といった電子音楽のフィールドで活躍アーティストとも共鳴しているという。全編を通して鳴る人工的に生成されたサウンドはハイパーポップ的な歪さと不自然さを伴いながら上記のメロディーの特性と合わさり懐かしさと新しさをもたらす。
M8「あのひふれたて」で顕著なようにアルバムの随所で「ヨナ抜き」と呼ばれる日本的な、あるいは久石譲的なといえるピアの旋律が登場する。こういった私が触れてきたノスタルジーを喚起させる要素が「記録には無いのに記憶にはある」はずの状態、即ちデジャブを引き起こす。その甘美さに溺れてしまう。


⑯Cwondo「Colorio」

Arctic Monkeysやガレージロックリバイバルに影響を受けてNo Busesを結成したCwondoによるソロプロジェクトの3作目。前作、前前作のミニマムテクノを基調としたモチーフを押し広げ、ギターや声を代表にあらゆる音を素材に織り上げた作品となった。この発想はpro toolsの編集技術によって進化したポストロックに通じる所があり、mumやI am robot and proudに近い感覚も受けた。M4「Sarasara」を聴けばわかるが、楽曲や曲構成という枠組みではなく、頭の中に浮かんだアイデアやギターを爪弾いた時に生まれたフレーズが先にあり、それらのピースを音楽的探究心のもと組み合わせたように聞こえる。作曲者の脳内を覗くようなワクワク感も含め愛聴した一枚。


⑰Quadeca「I Didn't Mean To Haunt You」

10年代を席巻したラップミュージックには二つの「エモ」があった。XXXTentacionの叫びや焦燥からくる「エモ」とフランクオーシャンの奇妙な変調やデジタル加工された声がもたらす「エモ」である。そして前者はこの世から姿を消すことで、後者は巧みなソングライティングと複数の声を使い分けることで歌唱者自身の輪郭を朧げにし普遍性を持つこととなった。Quadecaの新作は死んで現れた幽霊をモチーフとし、幽玄かつ既存のラップミュージック的ルールに捉われないサウンドデザインで既に現在に存在しない「何か」のナラティブを描いた。寂しげに鳴るマイナーコードのピアノも、インダストリアルミュージックかのように鼓膜を埋め尽くすディストーションギターも痛みや切実さを語る歌唱に包括されコンセプトアルバムとして完成している。ただ、混沌を受け入れ作り込まれた音の塊は先述した2人の作品のように本人を作品の背後へと押し下げ、作品を作品として扱わせる凄味も纏っている。


⑱宇多田ヒカル「BADモード」

母としての自身を描いた「BADモード」で始まりコロナ禍で他人との触れ合いが生まれなくなった状況をテーマにした「マルセイユ辺り」で締める本作はひとりの人間としての淡いを表現しながら、A.G.CookやFloating Pointsの力を借り世界基準のサウンドで未だに褪せることのないアーティストとしての本領を時代に示した。「宇多田ヒカルが常に新たな音楽を作り続けるポップスター「宇多田ヒカル」であることにどこまでも自覚的で、一方でその根底にあるのは音楽への愛や好奇心、強い探究心をもった一個人の「宇多田ヒカル」でもあって…という二つのモードを、コロナ禍という時代のムードとともに作品に落とし込んだ大作、傑作、名盤だと思います。」と発売した直後に書いたが、今もその気持ちは変わらず。これも以前k…..



アイドルで遊ぶ、戦う

今年、女性アイドルは苦境を迎えた。坂道シリーズの慢性的なクリエイティブ面での馬力不足や「恋愛禁止」というコードの限界など原因はいくつも思いつくが、単にAKB~アイドル戦国時代から10年以上経てばブームが終わるのは世の常ではあるのだろう。その中で優れた作品が2作あった。

⑲RYUTist「(エン)」

君島大空、石若駿、パソコン音楽クラブ、蓮沼執太、ウ山あまね、柴田聡子。メインストリームのアーティストとも接点を持ち、2020年代の音楽シーンに確実に名を刻みつけているアーティスト達。あるいは10年代初期の楽曲からの脱却に失敗していたりK-POPの踏襲のみを行ったりしているアイドルシーン。この2つが結び付いたのが新潟を中心に活動する「楽曲派」アイドル・Ryutistの新作「エン」だ。アーティストの楽曲提供において作曲家の作家性は往々にして漂白される。だがこの作品には克明に作家性が表れていて、君島大空のテクスチャー志向の曲構造と楽曲を手足のように操るテクニックが光る「水硝子」やSMTKにおけるサックスをボーカルが担っていると聞こえる石若駿が提供した「うらぎりもの」などコンピレーションアルバムのように個性がぶつかり合う。パソコン音楽クラブが提供したアーバンで儚げなポップス「しるし」などは彼らのアルバムの1曲と言っても一切の違和感が無い。問題はこの作品がどれだけの層に届きうるかで、正直提供した作家のファンにしか未だ届いていないだろうし、ライブでも音源を流すだけであろう。ここに楽曲派アイドルの難しさがある。


⑳MONDO GROSSO「BIG WORLD」

アルバム、というよりこのアルバムに収録された齋藤飛鳥「Stranger」は今年発表されたあらゆる作品の中でも群を抜いて記憶に残っている。齋藤飛鳥×シューゲイザーという観点を抜きにしても打ち込みのデジタルさとギターノイズの交わりに乗るポップなメロディーはMy Bloody Valentine「Loveless」の流れを汲む至高の一曲である。今年の11月に齋藤飛鳥は卒業を発表し、「ここにはないもの」という卒業ソングをもって乃木坂から旅立つ予定だ。「ここにはないもの」では乃木坂という空間にはない新しい景色へ向かう後腐れの無さを印象付けるような歌詞が秋元康によって編まれた。この曲でも「どこに行ってもデジャブ」から「わたしを見せ続ける」という未来への渇望が表現されている。大沢伸一も秋元康も齋藤飛鳥から同じムードを読み取ったのだろうし、「Stranger」は齋藤飛鳥の卒業ソロ曲が担うべきだった「卒業ソングのB面」としての機能を全うしている。


以上です。こう振り返ると邦楽が多いしメインストリームは攫えていないし穴だらけだけですが、愛着のある作品ばかりでいつかこの盤を思い返してきっと泣いてしまう…………………………….。。


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