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(「トドロキ」について)

まずビジュアルから。

《 g-man [ぽっきり編] 》2007.4.01制作

何だこれは?

と言われたらそれが正解。岡本太郎氏の掲げる「篦棒なモノ」をテーマにした作品だからである。

 初見の方のためにサクっとご説明すると『アーティストという肩書きを胸に街なかで意味不明の行動をとる一人の男のドン・キホーテ物語』である。

 そう説明してもおそらく何も伝わらないはずだから、さらに噛み砕いて解説していく。

 特に日は決めてなかったが「四月一日」この日がエイプリルフール(=嘘の日)というのを面白く感じて、ほぼ毎年路上でトドロキがアート作品と言い切る「g -man」(2006〜2013)を披露していた。

 ややこしいのだが、まず演じ手であるわたし扮するトドロキというキャラクターがいる。彼になりきり即興で演じ切るというのが、まず一つのアート。二つ目が、トドロキが持つ「g -board」というプラカードだ。そこには何でもいいのだが意味不明の「g -文字」が描かれている。たとえば記念すべき1回目の「g -man」は【四月バカ】であった。このワードはある意味キャッチーだったろうが、それにしても根っこに宿る感情は、やはり「わからない」だ。

何をやっているのか 何がやりたいのかさっぱりわからない。
当然である。やってる本人もわかっていないのだから。


 ところが、である。

 誰かが小声で囁く。「これってアートじゃない?」各々似たようなことを呟きながら あたかも納得したように去ってゆく。

 この事象はとても興味深かった。

 わたしはこれをインタラクティブアートと捉え 何年にもわたり引き続き行ってきた。

 無謀であったかと思う。だけれども【アート】にはそれを突き動かすだけのパワーがある。

 きっかけの一つが この「アートという免罪符はどこまで通用するか」を探ることにあったが、じつはさらにもう一つ わたしのなかには深いねらいがあった。

 これは今の障がいをもつ人々との関わりにもつながる大切なことなので、今さらながらではあるが講釈しておきたい。

 われわれは平和を愛す。それはとても良いことなのではあるが、平和を愛するあまり、平和を乱しそうな普通でない「異端者」「変人」「奇人」を排除する傾向がある。もしそれが本物のサイコパスであったりヤバイ狂人であったとするならば、それは排除して然るべきとは思う。だけども、そうはならない そこまで過剰でもない 普通になりたくてもなれないような障がいのある人、変わり者、社会不適合者に対して 十把一絡げに危険人物とのレッテルを貼り、除け者にするのは どうかと思うのだ。

 各方面で多様性の尊重だのノーマライゼーションだの言っておきながら実社会ではまったく実行できていないではないか。

 当時、わたし自身に科した課題は「人の痛みを知る」ことであった。人の気持ちにたいして愚鈍。気が利かない冷たい優しくないと罵られつづけていたわたしにとって それはもっとも知りたくても知れない「障がい」であったのかもしれない。仏門にくだる勇気もなかったわたしにとって残された唯一の手段が「アート」だったのだ。

 もともと表現活動は好きだったし この「アート」を利用すれば 何らかの気づきが得られるかもしれない。

 わたしは何の痛みも知らず上から弱者目線をする人間が嫌いだった。なれない僻みに思われようとも まずは弱者側に立つのが先と感じていた。わたしも弱かったけど さらに下にも弱い人がいる。彼らはどういう目線で見られているのだろう。もっと身を窶してみようと思った。

 自虐的だったかとは思う。けれども自暴自棄になってたわけじゃない。ちゃんとこうして自分なりの本意を持っていた。

 以上のことを踏まえながら当時の記録写真を辿ると感慨深いものがある。ポイントとしてはトドロキの裏を知る人間と そうでない人間が混濁していることだろう。人間見た目で判断してはいけないと思いつつ 見た目で思考回路がショートする人たち。視点が変わることでこんなにも意識が変わる。

 けっこう無茶やってたなぁと感じる一方、当時やったこととしては先駆的だったかも、とトドロキの「天才バカ」っぷりを見直したりしている。もちろんヨゴレ芸だし賛否両論あるのだろうけど わたしにとっては やりきった感のある立派な前衛芸術作品なのである。

トドロキ諧謔アート「自画愚賛」より

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