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礼服を着て来るべし(第二説教集8章2部試訳) #127

原題:An Homily of the Place and Time of Prayer. (祈りの場と時についての説教)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(13分35秒付近から):


第1部の振り返りと第2部の目的

 善良なるキリスト教徒よ、この説教でさきほどお話したのは、どのようなときに、どのようなところで、みなさんが集って神を讃えるべきであるかということでした。これからわたしは第一に、教会堂にはどれだけ熱心に望んで来るべきであるかをみなさんにお話しようと思っています。そして第二に、聖なる安息の日に教会に来ることを軽んじたり、ほとんど重きを置かないでいたりすることを、神がどれだけ悲しまれるかをお話しよう思っています。聖書にあるとおり、信仰に篤いイスラエル人はその罪によってバビロンで囚われの身となっていながら、ふたたびエルサレムにあることを心から願っていました(詩137・4~5)。やがて彼らは帰ってきて、神の善性により、その多くは怠惰であったものの、族長たちの驚くほどの献身さによって、神の民が神に誉れを向けるために集う神殿を造り上げました。また、ダビデ王は自身の国を、つまりは聖なる都エルサレムを追われて聖なる場所である神の幕屋から出されたとき、どれほどの願いと熱烈さをその聖なる場所に向けたことでしょうか。主の宮に住まう者となるために、彼はどのような願いや祈りを神に向けたことでしょうか。

神殿を讃えるダビデに倣うべし

彼は「私が主に願った一つのこと、私はそれを求め続けよう。命のあるかぎり主の家に住み、主の麗しさにまみえ、主の宮で尋ね求めることを(同27・4)」とも、また、「『主の家に行こう』と人々が言ったとき、私は喜んだ(同122・1)」とも語っています。『詩編』の別のところでは、主の神殿や教会堂に入りたいとする熱烈な願望を自分がどのような意図や目的で持っているのかを明らかにしています。彼は「あなたを畏れ敬いつつ、聖なる宮にひれ伏します(同5・8)」とも、また、「聖所であなたの力と栄光にまみえるため、私はあなたを仰ぎます(同63・3)」とも言い、さらには、「私は兄弟たちにあなたの名を語り伝え、集会の中であなたを賛美しよう(同22・23)」とも言っています。なぜダビデ王は神の家に対して、それほどまでに熱心な願いを持っていたのでしょうか。それは第一にはそこで自身が神を崇敬し、神に誉れを向けるためでした。第二にはそこで神の御力と御栄えを見て心の喜びを得るためでした。第三にはそこで会衆とともに神の御名を讃えるためでした。この祝福された神の預言者の考えを知って、わたしたちは特に聖なる休息の日に教会堂に集まろうという熱心な願いを強くかき立てられずにはいられません。わたしたちは御名の栄光のために教会堂で自身の務めを行い神に礼拝するべきです。神がわたしたちの健康と富と善性を力強くお守りになり、御慈悲をもって、獰猛で残酷な敵たちの蛮行を力強くわたしたちから遠ざけられていることをそこで思い起こすべきです。そこでたくさんの信仰深い人々とともに喜びに満ちて、神の聖なる御名を讃えて栄えとするべきです。

シメオンにもアンナにも倣うべし

 わたしたちがするべきこのようなことは、聖書のなかでシメオンの逸話に見ることができます。「その時、エルサレムにシメオンと言う人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。また、主が遣わすメシアを見るまでは死ぬことはない、とのお告げを聖霊から受けていた(ルカ2・25~26)。」彼の約束は神殿で果たされ、彼は神殿で幼子キリストを見て腕に抱き、そこで主なる神を力強くほめたたえました。また、アンナという非常に年を取っていた女預言者は「神殿を離れず、夜も昼も断食と祈りをもって神に仕えていた。ちょうどその時、彼女も近づいて来て神に感謝を献げ、エルサレムの贖いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを語った(同2・37~38)」のでした。この祝福された男と女は、神の聖なる神殿に勤勉に集えば神が与えてくださる素晴らしい果実や恩典や喜びを得られるということについて、望みを失ってはいませんでした。神の聖なる神殿に通うことがあまりに少なくなり、愚かにも神殿を軽んじ誤って使用すれば、神は人々にどれだけ罪深く背かれることになるでしょう。その罪の大きさは神が民に対して下される大変な疫病や天罰に明らかにみることができます。

異教徒による蹂躙は神の罰である

神は天罰によって、ご自身に背く者たちを恐ろしく打ち滅ぼされ、聖なる神殿を永遠の荒廃をもって完全に破壊しようとなされました。ああ、これまでにどれほど多くの教会堂が、またキリスト教徒の王国が、主キリストの敵でありキリスト教徒を残忍に虐げることにおいては過去に例をみないあの強大なトルコによる、罪深く許しがたい暴政や蛮行によって傾き、衰退して、滅んだことでしょうか。三十年以上も前のことになりますが、強大なトルコがキリスト教界に攻め込み各地を征服して蹂躙したことにより、二十ものキリスト教国が人々にキリストへの信仰を棄てさせ、邪悪なマホメットを拝する悪魔の宗教をもって毒し、淫らにも邪で忌むべき過ちを犯すようにさせました。そしていま、神がその復讐をお示しになるための苦くて痛々しい鞭であるこの強大なトルコは、ヨーロッパのキリスト教界にも迫っており、イタリアの辺境において、ドイツの辺境において、貪欲にも大口を開けてわたしたちを貪り食らい、わたしたちの国家を蹂躙し、教会堂をも破壊しようとしています。わたしたちが自分たちの罪深い生活を悔い、もっと勤勉に教会堂に集って神に誉れを向け、神の御恵み深い御心を知ってそれに適おうとしない限りこれは続きます。

キリスト教徒は神の怒りを招いた

 ユダヤ人はかつて神の罰を受けたのですが、それは彼らが神の戒律に反し、自分たちで造り出した空虚で迷信的なものへの偶像崇拝をもって、神の神殿をあってはならないように使用したためでした。また、神の神殿に偽善をもって集ってあらゆる邪さと罪深い生活によってそこを汚し、貶め、愚かにもその神聖を冒瀆したためでした。さらには、この聖なる神殿にほとんど足を向けることなく、自分たちがそこに通っていようといまいと気にかけないようになったためもありました。しかしキリスト教徒にしても同じように、これまでもまたわたしたちのこの時代においても、全能なる神のご不興やお怒りを招いてはこなかったでしょうか。異教徒やユダヤ人のように偶像など多くの捧げものをあまりに迷信的で許しがたく用いてこなかったでしょうか。神の祝福された血と肉の聖奠である神の聖餐を大いに誤って受け、それを淫らに貶めてこなかったでしょうか。そして、自分たちが造り出した無数のくだらないまがい物をもって、見かけの上では信仰に篤いようにしていて、一方でキリスト・イエスの平明で純粋で真摯な宗教を貶め、自分たちの教会堂を冒瀆して汚してはいなかったでしょうか。そうしてキリスト教徒はあらゆる邪悪さや罪深い生に満ちた偽善を行ってはこなかったでしょうか。教会堂に通って聖なる水を受け、ミサを拝聴して聖餐杯でもって祝福されれば、たとえ礼拝の言葉をひとつたりとも理解していなくてもよいとしてこなかったでしょうか。自身の心のなかで一片たりとも悔い改めの気持ちを持っていなくても、万事よろしく問題などないのだという虚しくて危うい絵空事やこじつけをもって教会堂に集ってはこなかったでしょうか。

教会堂は何のために建てられたか

神の聖なる秩序へのそのような欺きや冒涜のなんと浅ましいことでしょう。教会堂はもっと別な目的で建てられたものです。そこに集って心から神に向かい、御恵み深い御言葉に耳を傾け、神の大いなる御名を呼び求め、聖奠を受けるためのところです。隣人への愛がどのようであるべきかを知り、貧しく助けを求めている人々に思いを致し、自身が教会堂に来る前よりも善にして信仰に篤い者となるためのところです。加えて言いますと、神の罰をこれまでも、そしていまも受けているのは、大いに邪な者たちが全く教会堂に通うことをしていないためです。そのような者たちはただ無知で神や信仰について何もわからず、隣人たちに善を行わないという悪魔的な事柄を何とも思わないでいます。しかしその彼らは自分たちの壮大な空想が喜ぶような見た目によいものが教会堂から完全に取り去られるのをいま目にしています。芳しさのない彼らの偽りの宗教が棄てられて真なるものが立てられるのを目にしています。ある女性は隣人に向かってこのように言っています。「ねえねえ、わたしたちはいま教会堂で何をするのかしらね。聖人さまたちはみんないなくなってしまったし、わたしたちが拝みたいと思っている神さまの像もないし、これではわたしたちはいままでのように笛を吹いたり、歌ったりと、オルガンに合わせていろいろすることができないわよね。」

迷信的な行いは教会堂から一掃された

 親愛なる者たちよ、わたしたちは、聖なる家である祈りの場を淫らに貶めて神をいたく不快にさせていたそのようなものを教会堂からすべて取り除いたということを大いに喜び、神に感謝を献げなければなりません。そのために神が多くの国々を討ち滅ぼされたことについては、聖パウロが「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされます(一コリ3・17)」と言っているとおりです。わたしたちが大いに神を賞讃しなければならないのは、まったく愚かであって神の栄光を貶めていた迷信的で偶像崇拝的な行いが、そうなるべくして完全に打ち捨てられたということです。神が誉れを向けられるためのものや神の民が教えを授けられるためのものは相応しく保たれ、わたしたちの教会堂において丁寧に行われるべきです。いまみなさんが、このことを神のはっきりとした喜びであると受け取るのであるのでしたら、みなさんは聖なる休息の日に教会堂に集うべきです。みなさんは神がどのようなことにご不快な思いをされるかを、つまりどのような災いを不服従な者たちに下されるかを耳にして確かめなければなりません。神のどのような祝福が与えられるかを、つまり自ら望んで熱心に教会堂に集ってそこを使用する人々にはどのような天の恵みが与えられるかを理解して確かめなければなりません。

私の食事を味わう者は一人もいない

みなさんは教会堂に友として招かれ集うようにとされています。自身の務めを怠ることのないように注意し、後に定められた時に何も与えられないということのないようにしなければなりません。救い主キリストは、大宴会が催されて大勢の人が招かれるも、多くがそれを断り来ることがなかったという喩えのなかで、「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない(ルカ14・24)」と言われました。この大宴会は全能なる神の真の教えにあるものです。そこで正しく聖奠に与ることによって、また、御言葉が真摯に説かれてそれに耳を傾け、神との対話を通して御言葉を実践することによって神が崇敬されます。この宴会は神の食事の家である教会堂で催されます。みなさんはそこに呼ばれ、集うようにと招かれています。もしみなさんがそれを断り、何か言い訳をしようものなら、キリストの言われるそのような者たちに下されるのと同じことがみなさんにももたらされます。

礼服を着て教会堂に来るべし

 親愛なる者たちよ、遅れることなく、嬉々として神の宴会の家に入り、準備され整えられた御恵みを受け取りましょう。ただし聖なる日の礼服を着てそこに行くのです。また偽善者のようにではなく、ただの決まりごととしてそうするのでもなく、いやいやながらでもなく、行きたくもないのに行くのでもなく、心から喜んで行くのです。神が偽善者たる不心得者を嫌われ罰せられるというのはキリストが示される喩えにあるとおりです。「王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか』と言った。この者が黙っていると、王は召し使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣きわめき、歯ぎしりするであろう』(マタ22・12~13)」とあります。みなさんが神の御手からそのような罰を受けることを避けるために、聖なる日に教会堂に来るべきです。もちろん、礼服を着て来るべきです。言い換えますと、嬉々として信仰心をもって来るのであり、神の栄光を求め、神に感謝を献げるために来るべきです。

まとめと結びの祈り

隣人とともに、互いに友情と愛情をもって教会堂に入りましょう。隣人への愛を持っていなければ、自分の為すことはすべて神の御前で悪臭を放つのだと思うべきです。この世の肉的な執着や欲望を洗い流した心をもって来るとともに、神への真の礼拝を妨げるあらゆる虚しい考えを振り払いましょう。鳥は空を飛ぶときに羽を動かしますが、みなさんはどんな鳥よりも天高く飛ぶために羽ばたく備えをするべきです。この地にある神殿である教会堂での務めを終えたのち、みなさんは必ずや空高く昇り、わたしたちの主キリスト・イエスをとおして、天にある神の栄えある神殿に受け取られます。キリストに、天なる父に、聖霊に、すべての栄えと誉れがありますように。アーメン。


今回は第二説教集第8章「祈りの場と時についての説教」の第2部「礼服を着て来るべし」の試訳でした。次回から第9章に入ります。まずは解説をお届けします。


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