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罵られても罵り返さず(1)(第二説教集13章1部試訳1) #150

原題:An Homily for Good-Friday, concerning the Death and Passion of our Saviour Jesus Christ. (救い主イエス・キリストの死と受難についての聖金曜日のための説教)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(11分3秒付近まで):


キリストは愛をもって人間を救った

 キリストに愛される者たちよ、わたしたちは罪と死という永遠の破滅によって悪魔に贖われる者であってはなりません。キリストによる仲保を覚えることなくこの過ぎゆく今の時を生きることがあってはなりません。本来は救いようのない罪人であるわたしたち死すべき背反者に対して、救い主キリストはすばらしいみ業をなされ、大いなる慈悲と愛によって贖いをなされています。人の国で行われる死すべき人間の行いは、恩寵やみ恵みへの感謝と同じくわたしたちの記憶のなかに持たれます。そのなかで、キリストの素晴らしいみ業とその死によるみ恵みを、わたしたちはどれほど覚えていることでしょうか。キリストはどのようにしてわたしたちの罪を贖われ、わたしたちはどのようにして疑いようのない赦しを得ているのでしょうか。また、どのようにしてキリストは、神がわたしたちを愛する子となされるように、またみ子であるご自身とともに真にみ国を継ぐ者とされようとして、わたしたちを天なる父に結びつけられたのでしょうか。まさに、キリストの愛がわたしたちの目にわかりやすく現れるのは、天にある父と同じところにあってすべての誉れが向けられているときです。

キリストは人間の罪の負債を払った

わたしたちに富や益を与えてくださるべく、この世の悲惨な谷に来られ、死すべき人間という極めて卑しい僕の姿となられたことを、キリストはご自身の喜びとなされました。わたしたちはキリストにとって呪われるべき背反者であり、その聖なる律法や戒めを捨てて、堕落した本性による欲望や罪深い享楽に従っています。しかしキリストは神の大いなる怒りとわたしたちの罪との間に身を置かれ、わたしたちが神に敵対する危険があったなかで「借用書を破棄(コロ2・14)」して、わたしたちの負債を支払われました。わたしたちの負債は支払うにはあまりに大きいものでした。支払わなければ、父なる神がわたしたちとひとつにあることなどありえず、わたしたちの力ではこの負債から逃れることはできませんでした。キリストはこれを支払う方となられ、すべてを肩代わりしてくださりました。

人間がキリストを死に追いやった

 無垢であって本心から罪を憎むことのない方の死をもってするほかには、どのようにしても支払えないほどの罪の負債の大きさを、誰が考えることができるというのでしょうか。神は罪をいたく憎まれ、人間も天使もその贖いをするには能わざるとされ、ご自身の怒りを受けることのない、愛すべきたった一人のみ子の死をもってのみ贖うことができるとなされています。ああ友よ、わたしたちの罪のために、この極めて無垢な小羊が死に向かわされたと考えるとき、キリストを死に追いやったユダヤ人たちの残忍な悪について嘆くよりも、わたしたちは自分たちがその死の原因であったのだとして、自身を責めなければなりません。わたしたちの行いゆえに、キリストは鞭打たれて傷つけられました。その行いとは自身の邪さをただ看過していたということです。わたしたちには自分の心のなかをよく見て、自らの惨めで罪深い生を嘆くことが求められます。神にいたく愛されるみ子が、ご自身が犯されたのではない罪のゆえに、あのように罰を受けて鞭打たれたのです。わたしたちは自身を責めることもなく、また良心の呵責もなく神に対して日頃から犯している大きな罪のゆえに、どれほど鞭打たれるべきであるのかをよく考えなければなりません。神がいたく憎まれる罪を愛して大切にする者などいないでしょう。キリストを心から愛していながら、その大いなる敵であり死をもたらす罪を自身の近くに置く者もいないでしょう。わたしたちは神やキリストを愛し、罪を憎みます。わたしたちは自身が神の敵となりキリストに逆らう者となって、罪を愛する者とならないように用心をしなければなりません。

人間はキリストに二重の罪を犯した

キリストを十字架に釘打ちした者たちはただの拷問者や刑の執行人であるだけはなく、聖パウロが言うには、「神の子を自分でまたもや十字架につけ、さらし者にしている(ヘブ6・6)」者たちです。「罪の支払う報酬は死(ロマ6・23)」であるのなら、罪を為すのは間違いなく小さな危険などではありません。聖パウロは、内に宿る神の霊によって、「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬほかはありません(同8・13)」と強く言っています。そこでは神に向かって生きることはなく、罪に向かって死ぬのみでです。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるでしょう(同8・10~11)。」罪がわたしたちの中で大きいものであると、あらゆるみ恵みや美徳の源泉であられる神はわたしたちを遠ざけられ、悪魔や堕落した魂にわたしたちを任せるままになされます(同1・24)。そして確かにわたしたちがその悲惨ななかで死ねば、わたしたちは命によみがえることはなく、終わりのない死と破滅に落ちてしまうのです。

罪を捨てて義に生きるべきである

 キリストはわたしたちがそのようなところに落ちるために、わたしたちを罪から贖われたのではありません。キリストがわたしたちを贖われたのは、わたしたちが罪深い行いを捨てて義に生きるためです。そうです、わたしたちは洗礼において罪深さを洗い流され、それによって命の純粋さにおいて生きるようにとされています。洗礼において、わたしたちは悪魔的な考えを捨て去り、常にみ心に従って神に喜ばれる従順な子となることを誓いました。神はわたしたちの父であられるのですから、わたしたちは神に誉れを向けるべきです。わたしたちは神の子であるのですから、キリストが父に対して従順であることを明言されたのと同じく、わたしたちも神に従順さをお見せするべきです。聖パウロはキリストが「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(フィリ2・8)」と述べています。またキリストはご自身を信じるすべての人々に対しても同じでした。罰を受けられたのはご自身が理由であったのではなく、キリストは純粋であり、いかなる罪に汚れてもおられませんでした。イザヤが「彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた(イザ53・5)」と言っているように、キリストは人々への罰を一身に受けられ、わたしたちを危険から救われました。イザヤは「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった(同53・4)」とも述べています。

信じて祈れば求めるものを得る

キリストはいかなる痛みをもご自身の肉体に受けることを拒まれず、わたしたちを永遠に苦しみから救い出されました。わたしたちのためにそのようになさることを喜ばれたのですが、そもそもわたしたちはそれに値するものではありません。そうであるのにわたしたちは神の寛大なみ心によってみ子を通して恩寵を受け取りました。わたしたちはみ手からありとあらゆる良きみ恵みを受けて希望を持てており、キリストに強くつながれていることに感謝を持つべきです。聖パウロは「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜わらないことがあるでしょうか(ロマ8・32)」と述べています。もしわたしたちが肉体と魂に何かを求めるのなら、わたしたちは律法に適って堂々と慈悲をもった父なる神に訴え、自分たちの望むものをお伝えし、それを得ることができます。キリストの名を信じる神の子であるわたしたちにはそのような力が与えられています(ヨハ1・12)。「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる(マタ21・22)」のです。全能の神がみ子キリストとともにいたく喜ばれるのは、わたしたちに恵みを与えてくださることであり、わたしたちに何もお与えにならないということではありません(ヨハ14・13~14)。

罪や汚点はキリストによって消える

 み子が従順かつ無垢な心でお受けになったこの犠牲としての死という献げものはあまりに喜ばしいものであったので、神はこれを世のすべての罪に対する唯一にして完全な宥めのものであるとなされました。キリストはご自身の死をもって、わたしたちのために天の父からそのようなみ恵みを受け取られました。真のキリスト教徒であれば、それによる功徳によって、言葉においてのみのものではなく、わたしたちは神のみ恵みのなかにあって、罪をきれいに洗い流されます。どのような言葉をもってしても、この極めて貴い死の価値を言い尽くせるものではありません。このなかにわたしたちが日々犯している罪への絶え間ない弁明がありますし、このなかにわたしたちが義とされるものがありますし、このなかでわたしたちは赦され、このなかでわたしたちの魂の永遠の平安が持たれています。そうです、「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです(使4・12)。」間違いなく、死すべき人間によるどんな行いも、キリストの聖なるみ業による功徳に比肩されうるほどに神聖ではありません。疑いなく、キリストの死という功徳において認められていないのであれば、わたしたちのあらゆる考えや行いなど、まったく価値のないものです。キリストが義であられることに比べれば、わたしたちが義となることなどまったく話にならないようなものですし、キリストのみ業において、罪のしみやあらゆる不完全性が消えたのです。

キリストは敵対する者にも善を行った

 自身の持つ考えや行いによって、わたしたちは義であることへの真の贖いを得ることになります。しかし、わたしたちの行いは不完全で欠けているものでしかなく、行いそれ自体には神の恩寵を受ける何の価値もなく、ましてキリストのみ業や功徳にあるみ栄えに並び立つようなものではありません。「主よ、私たちにではなく、私たちにではなく、あなたの名にこそ、栄光を与えてください(詩115・1)」とダビデは言っています。親愛なる友よ、大いなる畏敬の念をもってキリストのみ名を讃え、とこしえに栄えがあるように祈りましょう。キリストはその大いなる慈悲をもってわたしたちにあたられ、ご自身をもってわたしたちを贖われました。キリストはご自身だけでそれをするのでは十分ではなく、これに天使の力を借りようともお考えになりましたが、よりよくそうなさり、よりよく贖いをなされるために、おひとりでなさりました。キリストは、その長い受難の過程において、耐えがたい痛みに動じられることもなく、ご自身に敵対する者たちに対しても善をなされました。

キリストは足跡に続けと模範を残した

キリストはわたしたちのためにご自身の心を開き、わたしたちを贖うことにご自身を捧げられました。わたしたちも心をキリストに開き、この世の生においてこの主なる方に感謝を献げるべくよく学び、そのみ恵みの大きさに思いを致そうではありませんか。そうです、キリストとともにわたしたちの十字架を受けて、キリストに従いましょう。キリストの受難はただわたしたちの罪に対する対価や支払いであるだけではなく、あらゆる忍耐や苦痛についてのきわめて模範となる例です(使17・3)。キリストはあのように苦しまれて父の栄光のなかに入られました。この世の厄介ごととしてある逆境という小さな十字架を忍耐強く持つことが、どうしてわたしたちにできないというのでしょうか。聖ペトロは「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残された(一ペト2・21)」と述べています。わたしたちがキリストと同じく苦しみを受ければ、わたしたちも天においてともに治めることができるのです(二テモ2・12)。この世のつかの間の苦しみは来たるべき栄光ほど大きいのものではなく(ロマ8・18)、キリストがこの世でそうなされたように、喜んでわたしたちが苦しみを受けることで、天にあるわたしたちの父に栄光を向けることになります(マタ5・16)。

苦難に鍛えられた先に希望の実がある

この世での苦しみや辛さにおいてキリストの十字架を持つことは痛々しく悲しいものでありますが、それによって鍛えられた人々には、喜ばしい希望の実がもたらされます(ヘブ12・11)。報いは必ずついてくるのですから、痛みをあまり大きくとらえないようにしましょう(ヤコ5・11)。むしろ救い主キリストがなさったように、あどけなく無垢な気持ちでわが身に苦しみを受けようとしましょう。わたしたちがただみ恵みを受けるだけなら、わたしたちのなかで神のまったきみ業への忍耐というものはないでしょう。しかし、ただみ恵みを受けるだけではなく、わたしたちが持っている財産や命までも失うことになれば、また、わたしたちがキリストへの愛を持つことについて悪く言われるのを耐えれば、神に喜ばれます(一ペト2・20)。というのはキリストも同じようであったからです。「『この方は罪を犯さず、その口には偽りがなかった。』罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました(同2・22~23)。」


今回は第二説教集第13章第1部「罵られても罵り返さず」の試訳1でした。次回は試訳2をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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