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解説 私の体、私の血(第二説教集15章1部) #158

原題:An Homily of the Worthy Receiving and reverent esteeming of the Sacrament of the Body and Blood of Christ. (キリストの肉と血の聖奠を恭しく受けることについての説教)

第15章に入ります。この章は2部に分かれています。まず第1部の解説です。聖句でいうテーマはこれでしょう。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これは私の体である。」また、杯を鳥、感謝を献げて彼らに与え、言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である。」(マタイによる福音書 第26章26~28節)

第1部のポイントは次の5点です。
①聖餐の意義と大切さ
②聖餐に集う人に求められる3つのこと
③その1~聖餐を正しくとらえる
④その2~確かな信仰を持つ
⑤まとめと結びの短い祈り

冒頭で肉と血の聖奠、すなわち聖餐の重要性が説かれますが、最も根本的なことがまずもってキリストの受難と死にかかわって説かれます。

その慈悲深さはいつの世も記念されてわたしたちの記憶の中に持たれるべきで、そうすることによってわたしたちがキリストの願われるところから外れることはなくなります。

聖餐はキリストの受難と死を、またその慈悲深さを記念するものである。これは聖公会の主日礼拝(聖餐式)で現在も守られていることです。またこの説教では聖餐をユダヤ教の過越の儀式とわかりやすく対照しています。

大昔に神は人々を救い出すという驚くほど大きな恩寵を示されましたが、これは過越の食事という儀式をもって記憶に留められています(出12・14)。愛すべき救い主は受難の中で示された大いなるご慈悲を、聖餐という形で覚えるように定められています(マタ26・26~28)。

キリストのいわば歩んだ道を記念するためにあるこの聖餐に真に与るにはどのようなことが求められるか。これについて3つの事柄が示されます。誰でもよいのではないとされます。なお、第1部ではこのうちの1つ目と2つ目について触れられます。3つ目は第2部で扱われます。

大きな神秘である主の食卓に集う者には三つの事柄が求められることを知らなければなりません。第一にはこの神秘を正しく健全にとらえることであり、第二には確かな信仰をもってその場に集うことであり、第三には命の新しさや純粋さをもって聖奠に与るということです。

まず1つ目のことについてです。

第一にわたしたちがしっかりと知らなければならないのが、聖餐は救い主が食されたように、またそう執り行うようにとなされたとおりに食され執り行われなければならないということです。

アンブロシウス、キプリアヌス、そしてクリュソストモスからの引用も交えつつ、まずは聖餐を「正しく」行うように訴えられます。この正しさの要諦は「霊的に食する」ということに尽きます。

何が目の前に供されようと、五感や腹を満たして堕落することがあってはなりません(箴23・6~7)。目の前にある地上の被造物を見るのではなく、内なる人間性に不滅と命を与えるものとして、信仰によってとらえることのできる天のみ恵みを思うべきです。

目の前にあるのはパンとぶどう酒である。仮にこれがどのような美味であっても、無節操に食べてはいけない。あくまでこれはキリストの肉と血であり、キリストの歩みを記念するためのものである。聖餐はそうとらえられなければならないとされます。

次に2つ目のことです。信仰を堅く持つことの必要性が説かれます。まずパウロの言葉を引用して要諦となるところが述べられます。

「主の体をわきまえないで食べて飲む者は、自分に対する裁きを食べて飲むことになるのです(一コリ11・29)」

そして聖餐によってわたしたちがキリストと一つであることが確認されることの意味の大きさが聖書を典拠として説かれます。問われるのは信仰です。

聖餐のパンとぶどう酒が、キリストの死とその記念が、また主の肉と血の拝領が素晴らしい合一のなかにあります。この合一はわたしたちとキリストを結びつける聖霊のはたらきによって、信仰深い人々の魂において持たれる信仰を通してあります。この合一によってその人々は魂が永遠の命を得るだけではなく肉体が不滅のものへと復活することへの強い確信を持つことになると聖書の中に書かれています(一コリ11・23~26)。

終わりに向かうなかで、聖餐に求められるこの1つ目と2つ目のことが再び確認され、短い祈りをもって結ばれます。信仰を持って霊的に食すべしとされます。

聖キプリアヌスが言うように、わたしたちには歯を研ぐ必要などなく、むしろ素直な信仰心をもってパンを裂く必要があります。わたしたちが聖餐において求める肉は霊的なものであり、魂の栄養であって天にあるものの映しであり地にあるものとは違います。不可視のものであり目に見える肉的なものではなく、霊に属するものであって肉に属するものではありません。信仰を持たなくてもわたしたちは聖餐において食べたり飲んだりすることを楽しむことができて、そうして結実となると考えるのは、卑しい肉的な食事を夢想して自身を地にある食物や被造物と結びつけるものでしかありません。


今回は第二説教集第15章第1部「私の体、私の血」の解説でした。次回はこの試訳をお届けします。


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