解説 私の家は祈りの家である(第二説教集1章2部) #71
原題: An homily of the Right Use of the Church or Temple of God, and of the Reverence due unto the same. (神の神殿たる教会堂を正しく使用することとそこに向けるべき畏敬の念についての説教)
第2部の解説をします。テーマを聖句で言えばこれでしょう。
あなたがたは、不信者と、釣り合わない軛を共にしてはなりません。正義と不法とにどんな関わりがありますか。光と闇とにどんな交わりがありますか。(コリントの信徒への手紙二 6章14節)
第2部のポイントは次の6点です。
①第1部の振り返り
②神殿におけるユダヤ人の誤った姿勢
③神の神殿でキリスト教徒が持つべき姿勢
④キリストが神殿でなされたこと
⑤皇帝も真に神に向かわねば神殿に入れない
⑥まとめと結びの祈り
まず第1部の振り返りがあります。教会堂での慎ましさに欠ける行いを戒めた上で、キリスト教徒のあるべき姿を確認しています。定められた時に勤勉さをもって教会堂に集うべきということです。次にキリスト教徒が教会堂にあって持つべき姿勢について、ユダヤ人をいわば反面教師にしながら、話が進められていきます。ユダヤ人が「神に」ではなく「神殿に」また「律法に」誉れを向けていたとみることのできる聖書の箇所がいくつか引用されます。そのなかにユダヤ人がパウロを指して語るこのような引用もあります。
神殿は神聖なところであるからそこを汚してはならない。たしかにそうではあるものの、ユダヤ人が神殿に向けるものはもはや偶像崇拝と大差のないものであるということがパウロの言葉を引用して述べられます。
神に崇敬を向けることと偶像を崇拝することはまったく相反します。このあとユダヤ人のこの過ちにキリスト教徒が陥らないようにと説かれていきます。「神に」対しての姿勢に加え、具体的な振る舞いの指針ととれるものもあります。一部を紹介します。
とはいえ、神殿への敬意を持たなくてよいというのではありません。「神に」崇敬を向けつつ、「神殿にも」敬意を持つべきであるということについて、キリストに倣うようにと説かれます。ユダヤ人の姿勢とは似て非なるものです。
キリストがこのようであったことにキリスト教徒は倣わねばならない。それはたとえ皇帝であってもそうであるということが史実から紹介されます。
神に心から向かい、その上で神の家たる教会堂に集い、慎ましくあること。そこで不敬な行いをしてはいけない。そこから遠ざかってもいけない。それが救いへの道であると説かれ、この章は終わります。
今回は第二説教集第1章「神の神殿たる教会堂を正しく使用することとそこに向けるべき畏敬の念についての説教」の第2部「私の家は祈りの家である」の解説でした。次回はこの試訳をお届けします。
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