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主の日、私は霊に満たされた(第二説教集8章1部試訳) #125

原題:An Homily of the Place and Time of Prayer. (祈りの場と時についての説教)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(13分35秒付近まで):


安息日を覚えて聖とせよ

 神はその全能なる力と知恵と善性によって、はじめに天地と太陽と、月と星と、空の鳥と地の獣と水の中の魚などあらゆる物を造られました。ご自身の形に似せて造った人間にそれらすべてを治めさせ、便利に活用するようにとなされました。そうして人間は神から授けられた責任においてそれらを使い、受けるにはもったいないほどの極めて自由にして慈愛に溢れる御恵みに対する感謝の念を表すことができています。わたしたちはいつでもどこでもこのことを覚え、慈悲深い神に感謝しなければなりません。これはまさに「私はどのような時も主をたたえよう(詩34・2)」であったり、「主の治めるすべての場所で、私の魂よ、主をたたえよ」とあったりするとおりです。ただしこのためにわたしたちは特別な時に特別な場所に集まって、神の御心や喜びに適うように御名に誉れを向け、神の栄光を讃えなければなりません。民が集うことを全能なる神が厳かに命じられていることにかかわっては、神の戒律の四つ目に「安息日を覚えて、これを聖としなさい(出20・8)」とあるとおりです。

キリストが復活されたのは日曜日

『使徒言行録』にあるとおり、その日に人々はいつも集って律法や預言者の書が読み上げられるのを真剣に聞かなければなりません(使13・14~15)。確かにこの神の戒律はすべての善きキリスト教徒に守られ続けなければなりません。とはいえこの戒律は七日目を正しく守り労働が大いに必要なときであってもそれを控えるようにとユダヤ人に定めているものの、安息日に儀式を執り行うことをキリスト教徒に求めているものではありません。わたしたちは日曜日を第一日と定め、それを安息日として救い主キリストを讃えるための休日としています。キリストはその日に死者のなかからよみがえられ、堂々と死を征服されました。本来の律法の中にあるものはどれも神の御心に適って極めて正しく、神の栄光を讃えるのに必要なものです。この戒律によってわたしたちは週のなかの一日を、律法に適って日頃の仕事を休むべき日として守るべきです。

残りの六日間は勤勉に労働すべし

ただこの戒律では残りの六日間を緩慢に怠惰に過ごしてよいとはされていません。むしろ神に与えられたその場所で勤勉に労働するべきです。神はすべての人々に明確な責任を与えておられ、安息日に一週間の仕事の日々をいったん止めるようにとされているのは、神ご自身が六日にわたって働かれて七日目に休まれ、その日を祝福して聖別し、その日を労働から離れての平穏と休息にあてられたためでした(創2・2~3)。ただそうはいっても、神に従う人々が普段の仕事を休んで日曜日を聖なる日として過ごすのは、神の真の宗教への礼拝という天に献げる行いを為すためです。神はこの聖なる日を守るようにただ命じられただけではなく、ご自身をお手本として、わたしたちにこの聖なる日を勤勉に守るようにとなされています。そもそも善き子ならば親が定めたことにただ従うのではなく、自分の行っていることを正しく見つつ、親が定めたことに従います。天なる父の子であろうとするなら、日曜日に定められているキリスト教の安息日を、神の戒律であるからというだけでなく、御恵み溢れる父なる神の手本に従う愛される子であるために守るように努めなければなりません。

主の日、私は霊に満たされた

 このようにして神の戒律と御心によって、週の中に神聖な時間や特別な日を設けることになったということがお分かりになったと思います。人々はその日に集まり、神の素晴らしい御恵みに思いを致し、柔和で従順な人々に向けられた御恵みについて神に感謝をするべきです。神がお示しになったこの戒律に、信仰に篤いキリスト教徒たちは主であるキリストが昇天なされたすぐ後から従い始め、週のなかの特別な日を選んで共に集う日を定めました。しかしその日とはユダヤ人が定めた七日目ではなく、主の日とは主の復活の日であり七日目の後であることから、週のはじめの日とされました。この日のことについて聖パウロは「週の初めの日ごとに、各自収入に応じて、幾らかでも手元に蓄えておきなさい(一コリ一6・2)」と、貧しい人々のことを考えて言っています。安息のための第一日とは日曜日を意味しますが、これはユダヤ教の第七日の後の一日目を言います。『ヨハネの黙示録』ではもっと平明に、聖ヨハネが「主の日、私は霊に満たされ(黙1・10)」たと言っています。どの時代においても何の異論もなく神の民はその日を守っており、男も女も、子どもも召し使いも、知古ではない者たちも日曜日に集うことが常となり、神の御名を祝福してほめたたえ、その日を聖なる休息と平穏のうちに過ごしました。その日を守らず破ることは大いに悲しまれることであると神ご自身が述べられていて、安息日に薪を拾い集めている者が石打ちで殺されるほどでした(民15・32~36)。

日曜日を聖としない者たち

 しかし、ああ、こういったことにもかかわらず、神の民とされるなかに、日曜日を聖なる日としてまったく守ろうとしない、邪にも傲慢な者たちがいるのは嘆かわしいことです。このような者たちは二つに分けられます。一方は、大してする必要のあることでもないのに、何かするべき仕事があるとして、日曜日に休むことをしない者たちです。日曜日に馬で遠くへ出向いたり、物を運ぼうとせっせと船を漕いだり、物の売り買いをしたり商品を並べたりするなど、日曜日を他の日と同じように過ごし、働く日と聖なる日を一緒くたにしている者たちです。そしてもう一方はこれよりも悪い者たちです。日曜日に遠くにも出ず働きもしませんがその他の曜日もそうで、神が定められた聖なる日であるから休むというわけではない者たちです。彼らは不信心と堕落のなかにあって高慢さをもって闊歩し、着飾って化粧をして陽気で豪奢であるように見せています。物が溢れんばかりにあるなかで、大食と大酒飲みに耽り鼠や豚のようにまどろんでいます。暴言を吐いて口論や喧嘩をして休みを過ごします。聞くに堪えないほどのくだらないおしゃべりや淫らな肉欲のなかで休みを過ごします。

彼らは獣たちにも劣る

こういったことによって、むしろ週のほかの日にまさって日曜日に神の誉れが貶められ、明らかに悪魔を礼拝するに至っています。みなさんにはっきりと言いますが、獣たちでさえ日曜日に休息をとっていて、このような類の者たちよりも神をほめたたえていると言えます。獣たちは神に反抗しませんし、聖なる日を破ることもありません。ああ、神の民よ、胸に手を当ててこのような欲深く危険な邪さを悔い改め、神の戒律を畏れ、神ご自身が示されたところに従い、使徒の時代から今日まで保たれてきたキリストの教会が持つ神の御心に適った秩序に逆らうなどということのないようにしましょう。安息日である日曜日に働いたり遠出をしたりするということについてよく自重せず、平穏な神聖さや御心に適った崇敬をもって神の御名を祝福してほめたたえるようと集わなければ、全能なる神のご不興を買うこととそれによる罰を受けることを覚悟しなければなりません。

日曜日を聖とするための教会堂

 さて、神の民が集うべき場であり、特に日曜日に定められている聖なる休日である安息日を祝福し聖とするべき場は、神の神殿である教会堂です。そもそもはまさに神の民が神殿そのものであるのですが、神の民は定められた日にそこに集うべきです。これは全能なる神に誉れを向けるための特別な時を持つためであるのですが、神の民が相まみえ、御恵み深い神である慈悲深い父を礼拝する場があるということは大いに神に喜ばれるところです。しかしながら実際には、聖とされているかつての族長たちはかなりの年月にわたって集うべき神殿や教会堂を持っていませんでした。その理由としては、彼らがひとつところに留まらず絶えず流浪や漂泊を続けたために教会堂を建てることができなかったということがあります。しかし、神はその民を敵から引き離され、荒野の中でとはいえ彼らに自由を与えられ、ほどなくして人目を引く幕屋を建てさせられました(出40・1)。その幕屋はいわゆる教区の教会堂のようなもので、すべての人々が集うところであり、いけにえを捧げたりいろいろな式典や儀式が行われたりするところでした。また、神はご自身の約束の真によってご自身の民を現在はユダヤと呼ばれているカナンの地に速やかに住まわせたのち、ソロモン王をして並ぶもののないほどに壮麗で巨大な神殿を建てるようにと命じられました(王上6・2)。その神殿はすばらしく意匠を施されてきらびやかに装飾されたもので、当時の人々の目をよく引き、それ以上に人々の心を躍らせるものはないほどの極めて麗しいものでした。これは神の神殿であり、あまたの御恵みとさまざまな約束とともに授けられたものでした。これは公の教会堂であり、全ユダヤのもととなる教会堂でした。ここで神をほめたたえる礼拝が行われました。ここにイスラエル人の王国すべてが結びつけられて、一年のなかで三度の大きな祝祭が行われ、主なる神への礼拝が行われました。

迫害のなかでも集った人々

 話を進めましょう。キリストと使徒たちの時代においてはキリスト教徒に神殿も教会堂もありませんでした。それはなぜでしょうか。彼らはいつもほとんどが迫害や妨害や苦難に遭っていて、そのようなものを造るだけの自由を認められていなかったからです。しかし神は彼らがしばしば一つのところに集うことを大いに望まれ、それゆえに彼らはキリストが昇天した後に家の上の階に集まったり(使1・13)、あるときには神殿に(同2・46~47)、またあるときにはユダヤ人の会堂に入ったり(同13・4~5)、さらには牢に(同5・17~21)、自分たちの家に(同5・42)、あるいは野原に集ったりとしていました(同16・13)。こういったことがイエス・キリストへの信仰が世界の多くのところに広がり始めるまでずっと続きました。やがてあまたの王国が神の真の宗教において打ち立てられ、王や貴族や市井の人々が神から平和や平穏を与えられました。そしてもろともに信仰への情熱をもって、共に集って神への務めを果たしたり、休日である聖なる安息日を守ったりする場所としての神殿である教会堂を造ろうと心をかき立てられました。

真の神殿はキリスト教徒の心と肉体

キリスト教徒はこのような神殿を、心を一つにして一堂に神の御名をほめたたえて栄えとし、慈悲深くふんだんに日々注いでくださるその御恵みについて神に感謝を表すための場としました。また、神の聖なる御言葉が読み上げられて教えがわかりやすく熱心に説かれるのに耳を傾ける場であり、正しく純粋に執り行われる聖奠を受けるための相応しい場であるとして、いつもそこに集うことを習慣としていました。ただしそもそも、神が極めて喜ばれてお住まいになっている特別の神殿とは、真のキリスト教徒や聖書の教えに従って神に選ばれた人々の肉体と心です。聖パウロはこのように述べています。「あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか(一コリ3・16)。」「あなたがたはその神殿なのです(同3・17)。」また同じ書簡のなかには「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです(同6・19)」とも書かれています。しかしこのようなことにもかかわらず、神は物質的な神殿が石灰や石で建てられ、そこを神の民が集って聖なる御名をほめたたえる場であり、ご自身を呼び求める人々からの祈りを聞かれる神の家であるとすることを許すままとされています。このことについては、キリストも使徒たちもすべての教父たちもともに、次のようにはっきりと述べています。たとえ彼らが洞窟であれ森の中であれ砂漠の中であれ、自分たちの定めたところであればどこでも祈りが聞き届けられると思っているとしても、できるだけ物質的な神殿に集い、そこで会衆となって祈りと真の信仰に参加するべきであるのです。

まとめと結びの短い祈り

 親愛なる者たちよ、自身をキリスト教徒であると告白し、御名において栄えを得る者たちよ、教えを乞うべき主なるキリストに倣うことを軽んじてはいけません。みなさんが学友とすべき人々のように、つまりキリストの使徒たちのようにあるべきです。いつでもどこでも清らかな心で、純なるもろ手を上げましょう。ただしそれを神殿である教会堂で安息日にも行うべきです。信仰に篤いわたしたちの先人たちや初期教会の教父たちは、教会堂を建てるのに自分たちの財産を惜しむことはありませんでした。それどころか迫害の時代にあって、命を危険にさらし自らの血を流すことも厭わず、教会堂に集っていました。それにひきかえわたしたちは教会堂に来て少しでも働きをしているというのでしょうか。彼らが示す手本や、わたしたちの務めや、わたしたちが得る恩恵を思うことに心が向いているでしょうか。神への畏れを持っていると言うなら、真のキリスト教徒であると言うなら、主なるキリストに倣い、先んじて生きていた信仰に篤い教父たちに続く者であり、真にして信仰深いキリスト教徒の報奨を受けていると言うなら、わたしたちは喜んで、敬虔さをもって、祈りのための神殿である教会堂に来るべきです。神の民が安息日に教会堂を祈りの場とし、肉体的で現世的な仕事を休み、聖なる休息と全能なる神への礼拝と黙想を行うのは大いに時宜に適うことです。教会堂でわたしたちは神と和解し、その聖奠を授けられ、敬虔な気持ちで御言葉に耳を傾け、あらゆる苦難を打ち消す希望と隣人への愛において神への信仰を立たせます。そのようにして善きキリスト教徒としての人生を送ることで、救い主キリストの功績によって、わたしたちはついには永遠の栄光という報奨を与えられるのです。キリストに、父と聖霊に、すべての誉れと栄えがありますように。アーメン。


今回は第二説教集第8章「祈りの場と時についての説教」の第1部「主の日、私は霊に満たされた」の試訳でした。次回は第2部の解説をお届けします。


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