心で信じ口で告白する(3)(第二説教集9章試訳3) #131
原題:An Homily, wherein is declared that Common Prayer and Sacraments ought to be ministered in a Tongue that is understood of the Hearers. (公祷と聖奠は人々に馴染みのある言語で行われるべきであることについての説教)
※第9章の試訳は3回に分けてお届けします。その3回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(22分20秒付近から):
わからない言語を用いるべきではない
サベリクスが述べているように、この皇帝はローマ教皇を擁護していたのですが、理解できる言語で祈りや聖奠を行うようにとして、彼がどれだけ平明に法令を定めているのかがわかります。人々に言葉を聞かせ、敬虔さを持つことの無知による裁きに向かわせるのではなく、きちんとした知識を与えて敬虔さを持たせるようにしました。彼は馴染みのない言語で祈りや聖奠を行うことを大きな罪としています。あらゆる善なる人々が意見を同じくするところをまとめますと、公祷も聖奠も聞き手に理解されない言語で行われてはならないということになります。次に、一言か二言の私的な祈りが馴染みのない言語で行われることについてお話しましょう。わたしたちはこのお話のはじめのところで、公祷も聖奠も聞き手にわからない言語で行われるべきではないということだけではなく、誰も自身の理解できない言語で私的な祈りを行ってはならないということを明らかにしようとしました。もっともこのことについては、わたしたちが祈りとは何であるかを忘れてさえいなければ、わかりやすくお話するのは難しくありません。というのも、祈りは心を献げるものであり、心それ自体を神に向けることを強めるものであるのですから、祈りの中で自分が使う言葉を理解できないなどということがあり得るというのでしょうか。またそのような言葉をその人が口にすることなど可能なのでしょうか。
内なる霊のほかに人を知るものなし
言葉を口にするというのは、声によって心の内にあるものを出すということです。人が口にする言葉は心の内にあるものを伝えるためのものですが、場合によっては心の内に秘密にしておいて、他に知られようのないことを表に出すためのものでもあります。このことについて聖パウロは「人の内にある霊以外に、一体誰が人のことを知るでしょう(一コリ12・10)」と述べています。自身の使う言葉を理解できない者がまともに語ることなどできません。人間の声を真似ているというよりは、オウムなどの鳥を真似ているのです。神の怒りが降りかかることを恐れているなら、神の存在について恭しく畏まることなく神を極めて不遜にまた野放図に語るなどということをしません。神を畏れる人は心を開いて神に語りかける前に自身の心を準備するものです。祈祷書の中で司祭がしばしば「祈りましょう」と言っているのは、神の御手に委ねる事柄を聞くために耳を傾け、それを確認するべく心を向け、そして終わりに「アーメン」と言うようにと人々を説くためです。このことにかかわっては、預言者ダビデが「神よ、私の心は確かです。私の心は確かです。私は歌い、ほめたたえよう(詩57・8)」と言って心を整えました。
心を整えたのちに祈るべし
ユダヤ人もまたユディトの時代に神がイスラエルの人々のもとに来られるようにと心のすべてをもって祈ったとき、その祈りを始める前に心を固く整えました。またマナセは祈りを献げる前に心を整えて、「今、私は心の膝をかがめて、あなたの慈しみを求めます(マナ1・11)」と言いました。このように心を整えれば、心から発せられる声は美しいものとして神に受け取られるのですが、そうでなければ、神は人間の声を受け取ってくださりません。神がおわしますことを踏まえない言葉を口走る者は、語りかける相手である神の偉大さを認めていません。神の御稜威を蔑む者であることを認めるべきですし、祈りの時に自らの心が聖であるふりをすればよいという忌むべき考えで満たされている偽善の報いを受けるべきです。王たちの書にあるとおり、神がご覧になっているのはわたしたちの心です(サム上16・7)。わたしたちが自分たちの祈りを神にとって忌むべきものとしないために、祈る前に心を整え、祈る中で求めたいものをはっきりとさせ、心も声もともに神に聞き届けられるようにしなければなりません。わたしたちも善き先達たちに倣ってそうすれば、求めるものを神の御手から受け取れなくなるということにはなりませんし、魂の平安を求めて先達たちが常に願っていたものを受け取ることができます。
心からの敬愛があって神の耳に届く
聖アウグスティヌスはこの問題について詳しく論考しており、文法や修辞で表現される事柄はキリストに帰されるものであり、それが教会堂の中で見られるべきであると述べています。「神の耳に届くのは、声ではなく心からの敬愛であることを知るべきである。主教や司祭が幸いにも教会堂で神を呼び求めるにあたり、ときに粗野な言葉や整わない言葉を述べてしまっても、それを理解することができていなかったり、あるいは発音する際にわかりにくく区切ったりとすることがあっても、それをあざ笑うべきではない。」ここまでのところですと、彼は馴染みのない言語で祈りをすることも認めているようにみえますが、これに続くところでは、彼は本心を隠さずに述べています。「しかしこのようなことは推奨されてはならない。よくわかりもしないことに対して人々が『アーメン』と唱えるようなことがあってはならない。信仰に関わるそのような間違いは、すべて教理問答や信仰の教えから明らかになるものであり、人々はこれを善なる教えが説かれる公共の場で学んでいる。これは教会堂で敬虔さを保つなかで存在するものである。」
まとめと結びの祈り
彼は祈りを献げる当人にとって馴染みのない言語での祈りを認めませんでした。しかし彼は技量のある司式者に、言いかえれば能力は低くても信心深い説教者の率直な言葉に耳を傾けるようにと説いています。「つまり集会において話される言葉がよくわからないもので、聞き手にとって実りのあるものとなっていないとするならば、それは語り手にとっても実りのないものとなるのではないだろうか。神の慈悲ある善性は、神の御栄えと我々の終わりなき至福に対して、我々が為すべきであるとおりに神を呼び求めることをお許しになっている。我々が神の目に慎ましくあり、公的でも私的でもあらゆる祈りにおいて神にすべてを献げれば、我々は至福を得るのである。」「身分の低い者の祈りは、雲を突き抜けて行くが、御もとに届くまでは慰められることがない。しかし、彼は祈りをやめない。いと高き方が彼を顧みて、正しい人々のために裁きを行い、公正な判決を下す時までは(シラ35・21~22)。」神にすべての誉れとみ栄えが世々限りなくありますように。アーメン。
今回は第二説教集第9章「心で信じ口で告白する」の試訳3でした。これで第9章を終わります。次回から第10章に入ります。最後までお読みいただきありがとうございました。
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