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偽預言者に注意せよ(5)(第二説教集2章3部試訳5) #95

原題: An homily against Peril of Idolatry, and superfluous Decking of Churches. (教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教)

※第3部の試訳は10回にわけてお届けしています。その5回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(47分42秒付近から1時間01分18秒付近まで):


キリスト教界における偶像崇拝の深刻

 ここまでお話してきましたとおり、偶像を正当化する者たちは、異教徒と同じく偶像を造ってそれを神殿に置いていたのですが、異教徒がその偽りの神々に対してしたように、自分たちが造った聖人の像に偶像崇拝者の考えを持って対していました。彼らは異教徒がそうしていたのと同じような儀式や典礼や迷信や慣習をもって偶像を崇拝していただけではなく、多くの点において、あらゆる邪さや愚かさや狂気をもって異教徒よりもおぞましいことをしていました。もしこういったことが、彼らを偶像崇拝者であると断じるのに十分ではないと言うのなら、みなさんは彼らが公に行ったことを知るべきでしょう。すでにお話しましたとおり、エイレーネーのもとでの第二二ケア公会議だけでなく、グレゴリウス三世のもとでのローマ教会会議での決定において、彼らは偶像に誉れと崇敬が向けられるべきであるとしています。偶像に対して堂々と崇拝が行われるべきであるとするこの冒涜的で図々しい決定を盾にして、彼らは用心深くおどおどとしながらもそうしています。

正しい人は偶像崇拝を犯さない

しかし神の真という光はあまりに輝かしいものです。かつての時代においてもこの時代においても、正しい人は忌まわしい行いや著作物をみて、彼らの厚かましく恥知らずな図々しさに驚きはしても、少なくとも恐ろしい冒瀆を語るのにこれ上なくふさわしいこの暗闇に入ることはありませんでした。また、精神的な密通をした罪悪感で顔を赤らめることもないような売春婦の顔をすることもありませんでした。崇敬すべき父なる神への明らかな冒瀆について、キオッジャの主教であるジェイムズ・ナクランタスは、近ごろベニスで印刷された聖パウロの『ローマの信徒への手紙』についての注解書の第一章で、偶像崇拝について、一部ではありますがラテン語で書いています。一言も違わずにお示ししましょう。

ナクランタスの説教(ラテン語)

 エルゴ・ノン・ソルム・ファテンドゥム・エスト、フィデレス・イン・エクレシア・アドラーレ・コライン・イマジネ、ウル・ノンヌリ・アドカウテラム・フォルレ・ロクウントゥル、セド・エット・アドラーレ・イマジネム、スィネ・クオ・ヴォルエリス・スクループロ、クイン・エット・エオ・イラム・ヴェネラントゥル・クルトゥ、クオ・エット・プロトティポン・エジュス・プロプテル・クオド・スィ・イルド・ハベト・アドラーレ・ラトリア、エット・イラ・ラトリア、スィ・デュリア、ヴェル・ヒペルデュリア、エット・イラ・パリテル・エジュスモディ・クルトゥ・アドランダ・エスト。

ナクランタスの説教(その訳)

 これを英語に直しますと次のようになります。「教会にいる信仰深い者たちは偶像を前にして崇める行動をとっているだけでなく、一部の者がひょっとすると用心深く話しているように、偶像それ自体を崇拝しているのであり、そこには一切のためらいも迷いもない。そう、彼らは何らかの崇拝の念をもって偶像を崇めているのであり、そこにおいては偶像を模したものを崇めている、つまりは、偶像に倣って造られたものを崇めているのである。偶像それ自体が高い誉れをもって崇められるのであるから、父なる神や、キリストや聖霊と同じように、偶像を模したものも高い誉れをもって崇められることになる。したがって、偶像に誉れや強い崇拝が向けられた場合、偶像を模したものも同じような誉れや崇拝を向けられることになる。」ナクランタスはこのように述べました。

教皇も偶像崇拝を冒涜とみなした

この冒瀆については教皇グレゴリウス一世が論駁し、教皇の権威によってこの冒瀆は地獄に行くものと断じられ、この教皇のあとに続く人々もこれを非難し続けました。たしかにグレゴリウス一世は偶像を所有することを認めはしましたが、偶像を崇拝の対象とすることについてはどんなことをも禁じていました。彼は偶像崇拝を禁じた主教セレヌスを大いに称賛し、彼をしていかなる偶像をも崇拝することを止めるようにと人々に説かせています。ナクランタスは偶像崇拝というこの冒瀆について、最も高いところにあるべき敬愛や崇敬が偶像に向けられているとしています。健全な教義が権威を失わないようにと、彼はアリストテレスの『デ・ソムノ・エット・ヴィジリア』、つまり『睡眠と覚醒について』という著作に典拠を求めています。これは彼の著作の余白に書き込まれています。 

キリスト教界に蔓延る偶像崇拝

「それゆえ私は、その厚かましい邪さと偶像崇拝をよしとする考え方を大いに問題としたい。ウェルギリウスがシノンについて言うように、あらゆる偶像崇拝者のうちひとりを知れば、結果的には人々が偶像を有しているということや、神殿である教会に偶像を持ち込んでいるということをある程度は知ることができる。」グレゴリウス一世の時代やその時代に書かれた事柄をみて、また、わたしたちのこの時代の偶像崇拝者たちの冒瀆についても言えますが、ナクランタスはこれをベリアルのようだとしています。このように、古い時代の信仰深い教父や博士たちの言葉や教会会議に集った主教たちの率直な告白をみれば、また偶像そのものや偶像崇拝の行いに対する極めて明らかな主張や意見をみれば、そして教父や博士たちの著作にある告白や教義をみれば明らかです。偶像はこれまでも今も崇拝されていることがはっきりとしました。

聖書にみる偶像崇拝者への呪い

なによりもまずわたしは、わたしたちの救い主キリストの言葉から始めたいと思います。「しかし、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、深い海に沈められるほうがましである。人をつまずかせるこの世に災いあれ。つまずきは必ず来るが、つまずきをもたらす者には災いがある(マタ18・6~7、ルカ17・1~2)。」また、『申命記』には「盲人を道で迷わせる者は呪われる(申27・18)」とありますし、『レビ記』にも「目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない(レビ19・14)」とあります。しかし、神殿である教会堂にある偶像は、このあと詳しくお話しますが、これまでも今もこれからも、弱く騙されやすく目の見えない人々にとっての災いや躓きの石であり続けます。技工たちの意匠によってそういった人々の心を騙し、聖書の多くの箇所で明らかにされているように偶像崇拝をもたらします。偶像を造り神殿である教会堂に置いてそれを正当化する者たちは呪われるべきです。そういった者たちには、肉体の死よりも重い罰が待っています(知13・10、同14・8)。

偶像と偶像崇拝は不可分である

 このような罪は真摯な教義をもった神の御言葉を説くなどすれば取り去られるのでしょうか。神殿である教会堂にある偶像は、一部の人々にとって危険であるだけで必ずしもすべての人にとって悪であるわけではないというのでしょうか。神殿である教会堂で公に偶像を置くことは不法でまったく邪なことであるというよりはむしろ危うさがあって好ましくないという程度であるというのでしょうか。そうであるならば、第三の事柄が証明されます。偶像が教会堂という神殿において神の御言葉を説くための方法として認められてしまったら、人々を偶像崇拝から遠ざけ、偶像崇拝に関わらせないようにするというのは不可能であるということです。

偶像がある中で説教はできない

まずは説教についてみてみましょう。神の御言葉を説く真摯な説教のなかでは、偶像崇拝は避けられるべきであるとされなければなりません。真の教義において偶像を持ち続ける必要があるとされたら、至るところで罪ある偶像が立てられ、信心深く誠実な説教者がその教義に従わせられることになります。当然のこととして、躓きとなる石は警告と同じくらいにありふれていて、罪は救済と同じくらいに大きく、毒は薬と同じほどにそこかしこにあることになります。しかし、真理と実際の両方に従うことはできません。偶像が公に認められていては、説教で偶像崇拝を止めることはできません。

収穫は多いが働き手は少ない

偶像は何百年にもわたってあり続けるなかで、少しは数が減ることもあるでしょう。しかし、善い説教者は多くのものがなければ保たれません。偶像を君主が容認すれば、少しずつ多くなっていって無限の数の偶像が生まれるでしょうが、誠実な説教者はこれまでもまたこれからも、教化されるべき人々に対して数が少ないのです。救い主キリストは「収穫は多いが、働き手は少ない(マタ9・37)」と言われました。これはいつも真であり、この世の終わりに至るまでそうであるでしょう。わたしたちのこの時代にあっても、このわたしたちの国にあっても真であるのですが、どこにおいても、分裂していたのでは、ほとんど誰も善き説教者を得ません。

偶像が絶えることはない

 偶像はこれからも絶えることなく、それを手にする者に対して都合のよい教義、すなわち偶像崇拝を説き続けるのでしょうが、それに対して人間は尋常ならぬほどに耳を傾けて信を置いていくことでしょう。これは国中の老若男女のこれまでの姿から言えることです。しかしこの害毒を食い止める真の説教者の言葉は、多くの土地において年に一度も耳にされず、土地によっては七年に一度しか耳にされていません。邪悪な考えは人間の心の中で長い時間をかけて根を張っているので、一度の説教で突然根こそぎなくなるものではありません。健全な教義に信を向ける人はごくわずかであり、その他のほとんどすべての人は迷信や偶像崇拝に向かいます。したがってここに、救済は難しいというよりも不可能なのではないかということが見えてきます。

善は朽ちて悪は勢いを増す

堅信に関わる言い伝えをみても、真の説教が百年を超えてどこかひとつの場所で続いたということはなく、むしろ迷信や偶像崇拝が何百年も続いたということのほうが明らかです。あらゆる著作や人類の経験から明らかであるのは、善いものは少しずつ朽ちてやがて消えてなくなってしまい、反対に、悪しきものは次第に勢いを増してついには邪さの完成態に至るということです。わたしたちはこの例を遠い昔に求める必要はなく、わたしたちのこの時代にそれをみることができます。神の御言葉を説くことは、そもそもは極めて誠実なことであるのですが、時代が下るとともに次第に純粋さがなくなり、腐敗がすすみ、しまいには崩れて倒れ、そこに人間による造りものが蔓延りました。

キリスト教界の偶像は絵画に始まった

そもそもキリスト教徒の間にあった偶像とは描かれたもので、いろいろな逸話をわかりやすく表して何らかの意味を持つものでした。のちにそれらは浮き彫り細工を施されるようになり、木や石や漆喰や金属で造られるようになりました。はじめは個人宅で私的に所有されていたのみであったものが後に神殿である教会堂に入り込んできたのですが、それでも当初は絵画の形であり、のちに浮き彫り細工を施したものとはなっても、まだ崇拝の対象となるものではありませんでした。しかしほどなくして、偶像は無知な人々からの崇拝を集めるようになりました。このあたりのことはローマの教皇グレゴリウス一世がマルセイユの主教セレヌスに宛てた書簡の中にあるとおりです。この二人のうちセレヌスは、偶像に向けて行われる崇拝をよしとせず、偶像を壊して燃やしました。グレゴリウス一世は偶像を立てておくことについては許容していたものの、そこに崇拝が向けられることは忌まわしいことと考えていました。

時が経つにつれて事は歪められる

また、すでにお話していることですが、神の御言葉を説きながら、偶像への崇拝は止められるべきであるとセレヌスをして人々に対して説かせました。これらもまたその書簡にあることです。しかし、グレゴリウス一世の考えがセレヌスの主張より善いものであるとしても、おわかりのとおり、時が経つにつれて、徐々にグレゴリウス一世の考えは歪められていきました。グレゴリウス一世の著作や説教があったにもかかわらず、ひとたび偶像が神殿である教会堂に公に置かれれば、男も女も信じ込みやすい者はほどなくしてそれを崇拝するという過ちに陥り、ついには学識のある者までが、暴力的なほどの洪水に流されるがごとく、誰が見ても明らかな過ちを犯すに至りました。

第二ニケア公会議の過ち

 第二ニケア公会議で、主教など聖職者たちが偶像は崇拝されてしかるべしとの宣明を出しました。人を躓かせる石のせいで、学識がなく信じ込みやすい人々だけでなく、学識があって分別のある人々もが、つまり市井の人々のみならず主教たちもが、忌まわしい偶像崇拝という奈落に一緒になって落ちました。羊だけでなく羊飼い自身もが、本来は光への導き手であり暗闇の中で輝く光となるべき者であるのに、偶像がかける魔法によって、盲人たちを導く盲人となってしまいました。その奈落に全世界が落ちたかのように、わたしたちのこの時代に至るまでおよそ八百年の間、誰も声を上げ続けないままとなりました。このように進んでしまうことのないようにとグレゴリウス一世の言葉があったのです。その言葉のとおりであったなら、かような害悪は決して起こることも、主教セレヌスの道がとられることもなく、あらゆる偶像や彫像が完全に破壊されて打ち捨てられたのです。というのは、認められていないものなど誰もが崇拝などしないからです。

かくして世は偶像崇拝に堕ちた

いかにして、偶像を私的に有するということが転じて神殿である教会堂に置かれることになったのか、みなさんはもうおわかりでしょう。はじめのうちは、一部の賢くて学識のある人々が、これを害のないものと考えていたのにこうなりました。ただ教会堂に置くだけということに始まり、ついには崇拝が向けられました。迷信や偶像崇拝に陥る危険のある無作法は、聖書にも書かれているように、はじめは市井の人々によるものであったのが、のちには主教や学識のある人々を含めて、多くの聖職者によるものとなりました(知14・16)。平信徒も聖職者も、学識がある人々もそうでない人々も、キリスト教界のあらゆる年齢や地域や位階の男女も子どもたちも、八百年以上にわたって、あらゆる悪徳の中で神にもっとも疎まれ、人間の破滅につながる忌むべき偶像崇拝に一斉に溺れました。考えただけで恐ろしくおぞましいことです。この結果として、教会堂に偶像を置くということが害のないものとされて始まりました。よく考えれば、害があるばかりでなく、人々に伝播してこの世のあらゆる善き教えに破滅をもたらすものであるのにです。

信仰深い人は躓きとなる石を置かない

わたしは断言します。どこかひとつの町や地方で偶像が神殿である教会堂に置かれても、神の真の御言葉や救い主キリストの福音を熱心にかつ日常的に説くことによって、偶像崇拝をつかの間であっても遠ざけることはできます。しかし全世界ではないにしても、複数の土地で置かれてしまえば、それはできなくなります。信仰に篤い人は同胞を含めてその時代に生きる人すべての安寧を願うだけではなく、あらゆる時代のあらゆる土地にいる人々の救済を願います。少なくとも、そのような人々は、世の破滅につながると知っていながら、いつの世の人々をも躓かせてしまう石や罠を置くことはありません。


今回は第二説教集第2章「教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教」の第3部「偽預言者に注意せよ」の試訳5でした。次回は試訳6をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。


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