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罵られても罵り返さず(2)(第二説教集13章1部試訳2) #151

原題:An Homily for Good-Friday, concerning the Death and Passion of our Saviour Jesus Christ. (救い主イエス・キリストの死と受難についての聖金曜日のための説教)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(11分3秒付近から18分00秒まで):


完全な忍耐は打算なく褒賞も求めない

 完全な忍耐とは、どのような仕打ちをどれだけ被ったのかということも、友人であれ敵であれ、誰から被ったのかということも意に介すものではなく、むしろ褒賞も求めず打算もなく被ろうとするものです。そうです、完全な愛の中にあられるキリストは、復讐をしようなどとは微塵も思うことなく、悪人に対しても善をなそうとされ、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい(マタ5・44)」とされました。伝えきくところによれば、救い主キリストは、激しい苦悩のなかで十字架につけられ、その祝福された肉体のあちこちから血を流されました。ご自身に敵対する者たちや処刑人たちのただなかに置かれるという苦しみを持ちながらも柔和さを持たれた方でした。キリストは、その敵たちも目にしていた耐えがたい苦痛を持たれていたにもかかわらず、何の同情や憐れみもなくその敵たちからあざ笑われて蔑まれておられました。しかし心の中ではその敵たちに憐れみを向けられ、天なる父に祈りながら、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです(ルカ23・34)」と言われました。さらには、キリストを信じてその使徒として使える者のひとりが、キリストを裏切り敵に走ってその死をもたらしたときに、キリストがお示しになったのはどのような忍耐であったでしょうか。キリストはその裏切り者をなじるどころか、「友よ、しようとしていることをするがよい(マタ26・50)」と言われました。

友にも敵にも偏りなく愛を示すべし

 善良なる者たちよ、キリストの受難を実りあるものとして覚えるのならば、わたしたちはキリストがその際にお見せになったこの大いなる愛を心に思い起こすべきです。真にキリストに仕える者であるならば、わたしたちはこのような大きな愛をこそ互いに持つべきです。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか(マタ5・46)。」「異邦人でも、同じことをしているではないか(同5・47)」とキリストは言われます。わたしたちが敵をも愛するべきであるのは、「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるから(同5・45)」です。このようにしてわたしたちは、天の父に従って、従順な子どものように、友でも敵でも誰にでも、偏りなく愛を示すべきです。キリストはその死についてさえも、ユダヤ人たちによる恥辱に満ちたあの「十字架の死(フィリ2・8)」についてさえも、父に対して従順であられました。それより手の届くところにある愛や忍耐において、わたしたちが神に対して従順であらなくてよいはずなどありません。神がキリストのためにわたしたちを赦されたように、「隣人の不正を赦せ。そうすれば、祈り求めるとき、お前の罪は赦される(シラ28・2)」とあります。

隣人に慈悲を示さない者は救われない

 自分に対して隣人が犯す小さな罪を赦せないのなら、自分の罪の赦しを神のみ手に求めることはできません。隣人に慈悲を示せない者は、神のみ手に慈悲を求めてもそれに与ることはありません。というのは、たとえわたしたちが怒りや不快をキリスト教徒の兄弟に対して本心からは向けないとしても、神はわたしたちがみ前で犯す不快や怒りという罪を赦されることはないからです。わたしたちが隣人を赦すとき、神はわたしたちを赦されます。互いにいがみ合うことも、隣人が神に赦されるに値しないなどと考えることもキリスト教徒にとって相応しいことではありません。たとえその隣人がどれほど赦されるに値しないとしても、キリストはみなさんに、その人を大いに赦すようにとなされます。みなさんはその隣人を赦されるに値すると考えて赦すべきです。神には誰もが服従するべきです。その神がわたしたちに、救い主キリストがその貴い血を流されてかつて神から授けられた容赦にわたしたちがいくらかでも与っているのだから、隣人を赦すようにと命じられています。慈悲と同情ほど、キリストに仕える人々に相応しいものはありません。

互いに罪を告白し合って祈り合うべし

 わたしたちは互いに罪を告白し、互いのために祈らなければなりません。そうすれば、わたしたちの命が持つあらゆる弱さが取り除かれますし(ヤコ5・16)、ましてや互いに気分を害し合うことなどなくなります。またわたしたちは、神に愛された子どものように、互いに兄弟のような愛や安らぎを持って、ひとつの心とひとつの魂によってあることができます(エフェ5・1~2)。このようにして、わたしたちは罪への慈悲を神から与えていただけ、祝福された聖奠において、造り主と救い主による永遠の安息と魂の健やかさに与ります。愛と慈しみに統べられ平安と安息のあるそのような魂にキリストは喜んで入られ住まわれます。聖ヨハネは「神は愛です。愛の内にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます(一ヨハ4・16)」と述べています。また、「事実、私たちは神の子どもなのです(同3・1)。」「私たちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。きょうだいを愛しているからです(同3・14)。」とも述べています。「きょうだいを憎む者は闇の中にいて、闇の中を歩み(同2・11)」ます。

憎しみや妬みは神に受け入れられない

破滅や悪魔の子となって神に呪われ、そうあり続ける限り、神に加えて天国の住人すべてから忌み嫌われます。柔和さと愛によってわたしたちは全能の神の祝福された子となるのですが、一方で憎しみや妬みによってわたしたちは呪われた悪魔の子ともなります。神はわたしたちすべてに、柔和さと愛をもち、忍耐と受苦をもったキリストの生き方に倣うというみ恵みをもたらされました。わたしたちはいま、キリストを自分の中に入られる客人とすることで、十分に満ち足りた気持ちで救済への確信を持つことができています。キリストとその愛を心に持てば、わたしたちは自分が神の愛を受けていることを確信することがでます。というのは、キリストはわたしたちの監督者としてまた弁護人として、父なる神の右に座しておられ、わたしたちにかわってわたしたちに必要なあらゆるものを神にお願いしてくださっているからです(ロマ8・34)。

愛と忍耐をもって柔和であるべし

 天なる知恵からの何らかの賜物を望むのなら、わたしたちはキリストを通して神にそれを求め、その賜物をいただくことができます。この愛と忍耐という美徳にかかわってわたしたちが望んでいるものの中に自身を置いてよく考えてみてみましょう。自分に対して罪を犯した者たちを赦すというときに、自分の心がその美徳に傾いてはいないとわかったのなら、自分の望むものを知り、それを持てるようにと神に願いましょう。しかし、わたしたちがその美徳を持ちたいと望むだけで、そこに対して自分の中に何の意欲もないとわかったのなら、まさにわたしたちは神のみ前で危ういところにいます。神に対して心からの祈りを大いに持つべきであり、そうすることでわたしたちは自分の心を変え、新しいものに接ぎ木されます。他者を赦さない限り、わたしたちが神から赦されることはありません。祈りを献げたり善い行いをしたりとすれば神の怒りを鎮めることができるというわけではなく、あくまでわたしたちが柔和であって、かつ隣人とともに柔和でなければなりません。

キリストに倣うべし~結びの短い祈り

 わたしたちが隣人を赦すということのほかに、どのような姿勢や善い行いをもってしたところで、神はご自身に対するわたしたちの罪をお赦しになることはありません。神は犠牲によってよりも慈悲によってあられます。慈悲によって救い主キリストは敵からの苦しみに耐えられました。わたしたちもキリストに倣うことが求められます。わたしたちが心の中にキリストに倣おうとする情熱を持たない限り、キリストの仲保があっても、また受難の果実や贖いに与りそれを栄えのあるものとして喜んで信じても、ほとんど何の恵みももたらされはしません。わたしたちはキリストの死をそのようにとらえ、その死による功徳や恵みへの健全な信仰を強く持たなければなりません。キリストがわたしたちの利益のためにご自身をすべて献げられたように、自身を献げ、隣人の利益のための慈愛とともに信仰を持つとき、わたしたちも真にキリストの死を覚えるに至ります。このようにしてキリストのみ足の跡を歩むことで、わたしたちは確かにキリストに倣うことになります。父と聖霊とともに、み座におられるキリストに、すべての誉れと栄えがありますように。アーメン。


今回は第二説教集第13章第1部「罵られても罵り返さず」の試訳2でした。これで第1部を終わります。次回は第2部に入ります。まずは解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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