リセット世代と呼ばれて

1976年生まれ、ロスジェネの備忘録です。 いろいろな会社や仕事を経験した思い出の書。…

リセット世代と呼ばれて

1976年生まれ、ロスジェネの備忘録です。 いろいろな会社や仕事を経験した思い出の書。 IT業界を中心としたSalesとMarketingの領域が主戦場のおじちゃんです。

マガジン

  • トランスミッション

    • 121,998本

    とらねこが運営する共同マガジン。グループ合計で参加者1,200名を超えました。フォロワ数2000名以上、120,000記事以上が収録されています。🌱コンテンツを広めたい方の参加をお待ちしています。🌱マナー:①連続投稿はしない②社会一般的に不適切な記事は投稿しない③トップ画面は変えない。参加希望の方は,マガジンの固定記事からコメントしてね(ง •̀ω•́)ง

最近の記事

鎮火せよ!33歳のハラスメント事件簿

同僚マネージャーが部下に人事に駆け込まれて大変だったお話。 Bossから連絡が「ちょっとマズいことになった。Bさん(女性)からパワハラのアラート出た」と。リーマンショックの傷も癒えてないのに。 当時本社チームは2チーム。私と同僚のマネージャー(以下”Mさん”)が1チームずつ管理していたのですが、小さな所帯だったので常に一緒に活動していました。その同僚のMさんはいわゆる ”空気を読めない系” の人で、まぁまぁ危なっかしい発言や行動の多い人ではありました。 そんなMさんが何

    • 32歳に非情な試練、リーマンショック。

      社会人10年生、駆け出しのマネージャーが3人のメンバーを辞めさせた話。 リーマンショック。大々的な報道でしたよね、でも恥ずかしながらそれがどんなインパクトがあるのか、ちゃんと理解していませんでした。報道から数か月遅れで凄いインパクトが来て、みるみるうちに状況が悪化していった。売れない。とにかく売れない。本当に売れないのだ。 早々に組織のスリム化が始まる。特に外資はこのあたりのフットワークがまぁ軽いし早い。間接部門を中心にガンガン人が減らされていく。別に人が辞めたからと言っ

      • 採用地獄でみた、31歳の哀愁。

        この頃、ビジネスの拡大と組織拡大が大きなミッションでした。毎日何回も採用面接を実施し、仕事の半分は採用!という日々を過ごしました。 公私ともに立ち上がりがいまいちなワタクシは、この頃からようやく”People Manager”という立場を自覚し始めていました(遅ぇ)。今もまだまだ勉強中ですが、組織の中でビジネスをリードするというだけはなく、誰かのキャリアや人生に関わる立場として毎日毎日毎日悩んでいました。 30代後半からはなんとなーく自分なりの答えを見出したのですが、この頃

        • 本社チームを任された30歳。イキる。

          思い出すだけで恥ずかしい。完全にイキってたしオラってた。 偉そうというか、自信満々というか、、いやいや!それは虚勢だったのだ!とも言えるけれど、自分でも本当はどっちなのかわからん。 宮崎とは違い、関東は最強の採用マーケットなので経験者の採用が普通にできるし、そもそも人材を選べる、何より会社自体のブランドが強い(採用はここがかなり大事)つまり強いチームが作りやすい。そんな恵まれた環境だということも理解せず、成果を上げている自分を凄いマネージャーだと勘違いしてたのだ。超絶恥ずか

        鎮火せよ!33歳のハラスメント事件簿

        マガジン

        • トランスミッション
          121,998本

        記事

          半年で降格した29歳。スネる。

          宮崎から強制帰還した私を待っていたのは、インサイドセールスのメンバーとしてのポジション。そう、改めていうと降格であります。 いわゆるTHE MODELが提唱される前のインサイドセールスの仕組みなので、朝から晩まで電話やメール、外勤営業を操って案件の発掘から提案、見積、受注、納期管理、請求、回収、クレームまでなんでもこなす。別にこの仕事は嫌いじゃないしむしろ好き。ただし、一度管理職になった人間がメンバーの仕事をするというのは、いろいろ葛藤があるものだ。今思えばどうでもいい話なの

          半年で降格した29歳。スネる。

          ビジネスの洗礼。29歳で向き合った現実。

          宮崎へ一人旅立った私。 ここは人もいい、陽気もいい、食べ物もうまい、お酒もうまい、自然もたくさんあるし、最高の場所だーーー。 なんてことは一切考えられない地獄の日々が始まった。現実は残酷だ。 現地採用のピヨピヨ社員が何十人もいる ほぼ全員が異業種からの転職でITを知らない のんびりした性格のメンバーが多く、何もかも遅い 上司との相性が最悪 常時10名ほどのピヨピヨメンバーを抱えるチーム運営の日々。9時からCallが鳴るので8:30くらいからは準備して朝礼、一日のス

          ビジネスの洗礼。29歳で向き合った現実。

          新婚の28歳に迫るトップセールスからの…

          28歳で結婚。仕事も波に乗り、何回かトップセールスや社長賞をいただくまでに成長。そんな一瞬の栄光から荒波に飲まれていった件。 残念ながら素直に思うのは実力ではなく、「運とスピード」で獲得したハリボテのトップセールスでしたね。だから未だに自信はない。「運と実力は違う」というのが持論なのだけど、、、でもまぁもうどっちでもいいかぁ。 実力主義・成果主義・キャリア志向という会社のカルチャーもあり、売れるとインセンティブは跳ねるし、どんどん上のレイヤーのチームに異動していき、対応す

          新婚の28歳に迫るトップセールスからの…

          27歳、衝撃の給料とキャリアの転機

          27歳最終話。 入社して4か月目の給料日、明細確認したら手取り18万円だった件。 はー!? 27歳!IT!外資!じゅうはちまん! のぉぉぃぉぉおああぁあ!初任給より安いぃぃぃぃぃ!! オレは外資のキラキラ営業ちゃうんか!! と言いたいところだったのですが、これはそういう仕組みだったのです。 入社3か月は目標数字の100%達成を保証してくれる。 その期間を経過するか、期間内に1回でも100%達成をすると保証は外れ、自力で戦うゾーンに突入していく。これ一時的にはキツイので

          27歳、衝撃の給料とキャリアの転機

          27歳でも大失敗、3か月でクビの危機。

          はい、、いきなりクビに”なりそうに”なった話です。今では笑い話だけど。 でもその話の前に記録用に少しだけ仕事のことを。 当時PCだけではなくハードウェア導入やシステム提案などは、国内大手のメーカーやSIerなどが主に行っていたので、インサイドセールスが電話1本で売ろうというのは結構難しい時代でした。当然お客様も不慣れなのでまぁ大変。毎日怒られてましたね。 「は?なんで営業に来ないの?電話で商売になると思ってんの?」 とか 「富〇通とかN〇Cは困ったとき飛んでくるぞ、なんだ

          27歳でも大失敗、3か月でクビの危機。

          2003年、27歳、外資デビュー。

          無職だった約4か月を乗り越え、間も無く27歳になる強運の大型新人であるこのワタクシが入社の日を迎える。 2-3年で辞めると思ってたのに、16年半もこの会社で過ごすこととなる。 仕事内容は全国の中小企業(従業員数1名~99名)にPCやサーバー、ストレージ、ネットワークなどのハードウェアを電話で提案するInside Sales。この記事を書いている時流では「え?電話?」という感じなのだけど、当時はまだまだ電話が主流。しかも新聞広告の反響営業がメインだったこともあり、新規のお客様

          2003年、27歳、外資デビュー。

          脱・日雇い!間もなく27歳の秋。

          生きるための日雇いバイトを全力で回しながらも、真面目に転職活動を開始 していた私。程なくして筋のいい話がいただけるようになってきて、当時は非常に親身だったリ〇ルートエージェントの担当者さんが外資ITの案件を持ってきてくださった。 「なに。。?外資だと、、、?」 その企業は前職では競合。「そんなことできんの??」というぶっ飛んだ営業で案件をガンガン横取りされていった苦い思い出がありました。当時は黒船呼ばわりされていて、国内の市場を破壊し勝ち続けていました。 「これは面白そ

          脱・日雇い!間もなく27歳の秋。

          26歳のわびさび。日雇いバイトの茶封筒

          晴れて無職の身となった私ですが、エージェントに登録したり、知り合いの紹介などを頼りに仕事は探し始めていて、根拠なく何とかなるだろうとフリーダムな時を過ごしていました。 (もう少し大人になった頃、心身の事情から働けなくなるロングバケーションが幾度か訪れることをこの頃は知る由もなし) 2003年当時、食いつないでいた日雇いバイトがまた渋い。 早朝に川崎駅に集合し、紺のハイエースに乗せられて工業地帯へ。仕事が終わるとまた川崎駅まで送られ、その日の日当を受け取りに事務所へ行くと窓口

          26歳のわびさび。日雇いバイトの茶封筒

          26歳の大失敗。大人の階段上ル。

          SESで某大手ITベンダの子会社にて金融IT営業に転身後は、今でいうJTCのカルチャーにどっぷり浸かっていました。バブルは何年も前に弾けていたのに、その時代を彷彿とさせるような夜の営業活動を部長の腰巾着として毎晩のように銀座に繰り出し、クラブ巡りからのタクシーチケットばら撒き生活。 そんな私を気に入ってくれた部長が、「SESではなく転職してこい」という話になり、「こんなチャンスねぇ!」と所属会社に辞表を出し、余生を過ごしていたらーーーーー (部長)「すまん、話してた人事の責

          26歳の大失敗。大人の階段上ル。

          25歳でエンジニアになり、25歳で営業に戻る話

          トイレ逃げ隠れ事件の後「ああ、、、俺の適性って営業なんだな」とすぐに素直に認めて偉かった自分。なにやってんだろね。でもまぁ仕方ない。 某外資系金融機関の情シス常駐の任を解かれ、某大手ITベンダーの子会社の金融営業部の課員として銀座・汐留界隈に常駐することに。銀行の情報系システム(お金の業務に関わらないところ)の提案営業となる。まぁパソコンとかサーバーとかネットワークとか。WindowsXPやWindows2000とかが世に出てきた頃ですな。 当時は都市銀行の統廃合が急速に

          25歳でエンジニアになり、25歳で営業に戻る話

          25歳の試練。トイレに逃げる。

          どうやって面接の調整とかしてたっけ。。。 20年以上前のことなので、よく覚えてない!思い出しながら書く。 1社目を辞めてMS系の資格を取り、いくつか会社を受けたけど、今思えば全部ベンチャーだったな。。その中から1社を選んだわけですが、今その会社結構大きくなってる。すごいなぁ。 当時転職エージェントなるものもまだまだメジャーな方法ではなく、普通に採用ページ探したり、マイナビみたいなもので企業アプローチしていた記憶が思い出されるな。とにかく転職をするにも今と比べて激烈に情報が少

          25歳の試練。トイレに逃げる。

          24歳でエンジニアへ転身を目指していたころのバイトを思い出した件

          1社目を2年間で辞めたのが24歳。2001年あたり?ITバブル期ですな。 実家暮らしをいいことに、アルバイトをしながら資格の勉強を始めたのだが、今考えてみると、まぁ思い切ったなー。若かったなー。と思う。 結論、自分の選択は間違っていなかったと思うが道のりは険しかった。 それはボチボチとこの先メモにしていこう。。 これを書いてて思い出したのは、当時やっていたアルバイト。朝から夕方までバイトして、夜は横浜のスクールに通うみたいな生活を半年くらいしていたと記憶しているのですが、当

          24歳でエンジニアへ転身を目指していたころのバイトを思い出した件