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続・小説にあって物語にはないもの(文字について・04)

 今回は「小説にあって物語にはないもの・03」の続きです。前回は、小説にあって物語にはない、空白とまっくろ黒なページについてお話ししました。

「小説にあって物語にはないもの」とは、たとえば音読すると伝わりにくかったり伝わらないものだとも言えます。小説は視覚芸術だと考える私にとって、小説では目で鑑賞できる部分にはできるだけ目を注いでやりたいという気持ちが強くあるのです。

 ただし、小説の朗読やオーディオブックを否定する気持ちはありません。作品にはさまざまな鑑賞の仕方があっていい、いや、あるべきだという意見です。

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 今回も、小説にあって物語にはないものの例を挙げます。ただし、以下の引用文をお読みになるには及びません。ただ、字面を眺めてください。

(……)そして、一日のさまざまな時刻から集まってきたかのように、異なった向きからはいってくるそうしたさまざまな明りは、壁の角をなくしてしまい、ガラス戸棚にうつる波打際の反射と並んで、箪笥の上に、野道の草花を束ねたような色どりの美しい休憩祭壇を置き、いまにも再び飛び立とうとする光線の、ふるえながらたたまれた温かい翼を、内側にそっとやすませ、太陽が葡萄蔓のからんだように縁取っている小さい中庭の窓のまえの、田舎風の四角な絨毯を温泉風呂のように温かくし、肱掛椅子からその花模様をちらした絹をはがしたり飾り紐を取りはずしたりするように見せながら、家具の装飾の魅力や複雑さを却って増すのであるが、丁度そんな時刻に、散歩の仕度の着換えのまえに一寸横切るその部屋は、外光のさまざまな色合を分解するプリズムのようでもあり、私の味わおうとしているその日の甘い花の蜜が、酔わすような香気を放ちながら、溶解し、飛び散るのがまざまざと目に見える蜂蜜の巣のようでもあり、銀の光線と薔薇の花びらとのふるえおののく鼓動のなかに溶け入ろうとしている希望の花園のようでもあった。
(マルセル・プルースト『失われた時を求めて』井上究一郎訳)(三島由紀夫『文章読本』第七章)より・丸括弧とリーダーによる省略は引用者による)

 めちゃくちゃ長いですね。マルセル・プルースト作『失われた時を求めて』(井上究一郎訳)の一節どころか一文です。

 これで一センテンスですから、すごいです。この直前にも、比較的長い一センテンスがあります。翻訳だから可能な文章とも言えます。

 これも小説ではありえますが、物語はありえません。

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 加筆や直しの可能な執筆と印刷ではありえても、語りと口伝(口承)ではありえないという意味です。

 上の例はフランス語からの翻訳ですが、原文のフランス語でも、これは一人の作者が、おそらくどこかに閉じこもって、紙にインクで書いた原稿を何度も何度もいじって「つくった」文章だろうと考える人が多いのではないでしょうか。

 実際に、そうらしいのです。ある意味、不自然な文章だとも言えます。

 不自然だというのは、口と耳でやり取りする話し言葉とあまりにも懸け離れているという意味です。

 そもそも文字は、人類の歴史の中では後発の発明品らしく、話し言葉のずっと後になって登場したものだと言われています。

 無文字の状態がずいぶん長かったらしい人類にとって、現在も無文字という選択肢があるのではないか、と私はよく考えます。

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 半分冗談はさておき(半分は本気です)、話を戻します。

 私がこの作品の井上究一郎訳が好きなのは、その文章の「ありえなさ」が日本語としてもよく出ていると感じるからです。

 話を少しだけ変えて、別の例を見てみましょう。

 以下の文は、黙読しやすいうえに、音読もしやすく、それを聞いても理解しやすいと思います。句読点に注意しながら、ざっと目を通していただくだけでもかまいません。

 あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっとふすまをあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ。濁って濁って、そのうちに、だんだん澱粉でんぷんが下に沈み、少しずつ上澄うわずみが出来て、やっと疲れて眼がさめる。朝は、なんだか、しらじらしい。悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮かんで、やりきれない。いやだ。いやだ。(……)
(太宰治『女生徒』・青空文庫より)

 以上は、太宰治作の小説『女生徒』の冒頭なのですが、比較的読みやすいのではないでしょうか。

 なぜ読みやすいのでしょう?

 話し言葉を書き写したような文体だからかもしれません。

 いわば「天然の音読」である「話し言葉」を書き写して体裁を整えた文章なら(整理し編集したという意味です、話し言葉をそのまま書き写しても読みやすい文章になるとは限りません)、音読しやすいだろうと想像できます。いわゆる「口述筆記」がそうでしょう。

 とはいえ、太宰はこれを小説として書いたわけですから、実際の談話を書き取った文章とは言えそうもありません。

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 この文章をよく見ると、竹の節で切れているリズムが読みやすさにつながっているようです。

 主部+述部 ⇒ 主部+述部 ⇒ 主部+述部 ⇒ 主部+述部 ⇒ 主部+述部……

 というか、そもそも日本語の話し言葉は、「主部+述部」がひとつの単位となって、延々と続くリズムになっています。

 だから、『女生徒』は読みやすいし音読しやすいし聞きやすいのです。日本語の生理に沿った、つまり自然なリズムなのだと言えます。

 物語、つまり昔々に口頭で伝えられていた口承文学と同様に、話し言葉に近い文体なのです。ですから、日本語では、多少句点までが長いセンテンスであっても、適度に読点があれば、読みやすく感じられると言えるでしょう。

 語弊のある言い方ですが、さきほど見たプルーストの文章の井上究一郎訳にくらべると、ずっと自然なのです。

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 以下は、英訳のプルーストの文章のセンテンスが長いことを嘆いているポスト(旧ツイート)です。日本語訳と同様に、複数の英訳があるようですが、確かにこの英訳ではかなり長いセンテンスが見られます。

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 最後に、私にとって「物語にあって小説にはないもの」を感じる文章について書き添えます。『遠野物語』を物語と呼んでいいのかどうかは知りませんけど、それはともかく、私は新潮文庫版によく目を通します。

 タイトルがなくぶっきら棒に漢数字が振られただけの各「断片」に見られる改行のない、つまり空白のない書かれ方というかレイアウトに「物語にあって小説にはないもの」を感じます。読んでいてどきどきぞくぞくするのです。

 物語を読むさいには、読者が語り手の声に耳を傾け、空白ではなく「間・ま」を感じ取りながら読むのかもしれません。知らず知らずのうちに呼吸を合わせて読んでいる自分に気づきます。

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 この「文字について」という連載は、体調を考慮して記事を短めに書くつもりなのですが、今回は長くなりました。長くなったのは、プルーストさんの長いセンテンスのせいです。

 それは冗談ですが、実は今回の二つの引用文とそれに対する私のコメントは、以下の二本の記事からコピーペーストして加筆したものです。そのため、書くのには、あまり時間はかかりませんでした。

 上の「音読・黙読・速読(その2)」と「音読・黙読・速読(その3)」は、以下の「音読不能文について」を書くために連載したものです。

 音読不能文というのは、音読すると意味がうまく伝わらない文という意味です。私のイメージする小説の文章はまさにこれであり、音読されると失われる要素(たとえばレイアウトやタイポグラフィやルビや約物)に満ちています。

 次回は、今述べた要素についてお話しする予定です。詩を例に取ります。詩には視覚芸術としか思えない作品が多いと私は感じています。ただし、冒頭で述べたように、詩の朗読やオーディオブックを否定する気持ちはありません。

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