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仮の人

隣にいるのは仮の人。そうだとしたら、見える景色はどう映る? 空洞、一人よりはましさ。跳ね返ってくる。ガラス板に言葉を投げつけ、それでも返ってくるものを受け取って、僕の心もガラス。意味が分からん。なにいってんの。僕も仮の人。 僕を見る僕。僕を見る僕。僕を見る人。僕を見る人。

    • 親を愛していない人はいない。

      親を愛していない人はいない。愛ってのはエネルギーのこと。 プラスのエネルギーが愛で、マイナスのエネルギーが憎しみ。 正確に言うならば、親へエネルギーを向けていない人なんていない。 だって、親なんだもん。これ以上の言葉は必要ない。 親は無意識に、子供を支配していたいと願ってしまう。 どんなにいい親でも。 だからある意味、とても幸せな家族で育ったとしても、愛を向け続ける限り、それは親の支配下にあり続けるということでもある。 愛だろうと憎しみだろうと、親へエネルギーを向け続け

      • 良い歌詞ってなんだろう

        個人的に最近とくに思うのは、メロディが正義ってこと。 もちろん歌詞は大事だけど。 んで、メロディが良くて一般的にいいものだと大衆に認知されてしまえば、もう歌詞のクオリティは関係ないよねて思ってしまう。 あとはたとえば、語感だけを意識している曲もあるし、歌詞の意味なんか気にしねぇよって人だっている。 それでもさ、歌詞の意味一切気にしないって人だってさ、ある程度のクオリティが保たれていないとどうなん? いわば、優しい人がいい(イケメンに限る)みたいな。 歌詞は気にしない(

        • 何歳からでも遅くない。

          祖父が亡くなった。70歳だった。 2022年3月24日。 祖父は40歳ごろから精神的な病気にかかってしまって、そのころから一切働いていない。 それまでなにをしてきたかって、どんちゃん騒ぎ、遊びまくり、DV、いまなら捕まるけど、動物を殺したりとか。 祖母はそんな祖父を何十年もめんどうをみてきた。 いまになって話を聞くけど、怖くてたまらなかったらしい。 口をまともに動かせなくなっても、体をまともに動かせなくなってもずっと。 そんなにも恐れていた祖父が亡くなるのを見て

          なんで自分が悪いと思わないんだろうという攻撃

          自己否定感が強かったり、自分を責めがちな人というのは、 なにかあるとつい、自分のせいなんじゃないかと思ってしまったりする。 悪いのは自分だ、と自分を責めてしまう。 問題というのは、グラデーションだ。 どんな問題であろうと、100パーセントで特定の人が悪いということはありえない。 それなのに、自分を責めてしまう。 わかる。とてもよくわかる。 でもそれが、ふとした瞬間に形を変える。 人というのはどうしても、自分を中心に考えてしまうもの。 自分はこう考えるから、他の人も

          なんで自分が悪いと思わないんだろうという攻撃

          物語が、嫌いだ。

          物語が、嫌いだ。 このつまらない日常に、帰ってこなきゃいけないから。 ドラマ、アニメ、映画、マンガ、たくさんの物語があるけれど、どうしても、見終わったあとの虚しさが本当に嫌いだった。 ありきたりだけど、物語の世界に入ったまま帰ってこなくて良いのならそれでいいのになって思ってたし、思う。 人生はなんてことない日のほうが多いってことに気がついてから、人は日々の積み重ねでしか変われないってことに気がついてから、 物語から帰ってきたときのギャップに押しつぶされる感覚が少し、

          物語が、嫌いだ。

          傷つきやすい人は、傷つけやすい人

          傷つきやすい人は、傷つけやすい人。 人は、他人を傷つけることなんてできない。 傷つけることができるのは、自分だけ。 たとえば「デブ」と言われて傷つくのは、太っていることを気にしている人だけ。 痩せていると自覚している人や、太っていてもそれを本人がまったく気にしていなければ、「デブ」と言われたって、まったく傷つかない。 「気が利かないね」とか「トロいね」とか言われて傷つくのは、気が利かない自分や、トロい自分を気にしている人だけ。 そんなことどうだって良いと、でーんと

          傷つきやすい人は、傷つけやすい人

          社会人は、害がない人が強い

          ・臭くない ・物理的にうるさくない (→貧乏ゆすり、くしゃみ、鼻息、骨ポキ、食事中など身体的ななにかがうるさくないということ) 見てて、聞いてて、同じ空間にいて不快になるものをどれだけ"持ってないか"が、社会人になるとすごく重要になってくるのではないかって思う。 どれだけ始めの印象が良かろうと、"長くいる"ということはそういうことで。 その場の付き合いなら変な癖だって隠せるし、関係ないけど、 長く職場で長く付き合うとなると、 なにも癖がなく、誰にも害を与えない人とい

          社会人は、害がない人が強い

          僕らには果たして、「日々の積み重ね」しかないのか。

          良く書こうとするのはやめる。 思ったことを書いていく。 最近よく思うんだけど、僕らには本当に、「日々の積み重ね」しかないのだろうか、ってこと。 なんていうんだろう。楽をするためには苦労する必要があるし、無理をしなくて良くなるために、無理をしなければならない。 働かなくて良くなるために働いている。 働き始めると、なにをするにしても、就業時間外でやることになる。 定時で終わったとしても、寝るまでの時間で家事、食事、風呂に入ったり最低限のことをするとあっという間に一日が

          僕らには果たして、「日々の積み重ね」しかないのか。

          僕らは常に、”ほんのり死んでいる”

          僕のひぃおばあちゃんが死んじゃった。 僕の家系はみんな比較的若くて、俺は今年28歳で、おばあちゃんは70歳。お母さんは50歳。 ひぃおばあちゃんは、96歳だった。 ちなみに、死んじゃったひぃおばあちゃんは、僕のおじいちゃんのお母さん。 おばあちゃんのお母さんは、95歳でまだピンピン。 でも、死んじゃったひぃおばあちゃんは、10年くらい、延命治療をして生きてきた。 簡単に言うと、人工呼吸器とか栄養を送る管をつけて、言い方は悪いけど、”ただ生きてる”状態。 僕のいと

          僕らは常に、”ほんのり死んでいる”

          忘れてはいけない?忘れてもいいよ。

          すべての人は、自分とつながる可能性を持っている。 つまり、あなたは、この世のすべての人と関われる可能性がある。 そんなことないって言える人はいない。 ゼロだって言い切れる人はどこにもいない。 科学的にも、「ある」ことの証明は簡単でも、「ない」ことの証明は遥かに難しいとされている。 宇宙に「ない」ということを証明するためには、宇宙中をくまなく探す必要があるから。 ゼロだって言い切ることは、少なくともいまの僕らにはできない。 それってつまり、 いまあるすべてと自分

          忘れてはいけない?忘れてもいいよ。

          "ただ食べるだけ"、に耐えられない

          今目の前にある食べ物。 それを、ただ食べる。 味わいながら。あ、あんま味しないな、ちょっと固いな、うん、でもずっと嚙んでると甘くなってくるな。 そんなふうに、"目の前の食べ物をただ味わう"ということが、どうしてもできないし苦手だ。 具体的に言えば、テレビが点いていてそっちばかり見ていたり、YouTubeを見ていたり、音楽をかけていたり、スマホをいじりながり食べたり、 どうしても、なにかを同時にしながらでないと、食べ物を食べられない。 他のどうでもいいことを考えながら

          "ただ食べるだけ"、に耐えられない

          なぜお世辞は言ったほうがいいのか。

          僕のかつての上司の情報なのでちゃんとした情報じゃないかもですが、「自分の言ったことが相手にどれくらい伝わっているのか」って話だったんですけど、 60パーセント伝われば、相当良い方なんだそうです。 つまりは、自分の伝えたいことが100あるとして、60伝えられれば良い方だということです。 だからこそ、お世辞って、大事なんだと思うんです。 多少盛ったって関係ないです。 相手のいいところ、すごいところ、尊敬するところ。 ただ正直に言ったって、60パーセントしか伝えられない

          なぜお世辞は言ったほうがいいのか。

          自分を責めない。必要なら、周りが勝手に責めてくれる。

          失敗したときにやってはいけないこと。 それは、自分を責めること。 退職していった方が最後に残して言った言葉でした。 本当に必要なら、勝手に周りが自分のことを責めてくれる。それだけ悪いことをしたということだし。逆に言えば、そうでないなら自分を責めたって何の意味もない。ただでさえ追い詰められているのに、自分で自分をさらに追い込んだって、それはなんにも生まないし、なんにも良いことはない。 周りに責められて初めて、自分のしたことの重さを認識すればいいのであって。 最初から闇

          自分を責めない。必要なら、周りが勝手に責めてくれる。

          【人を動かす切なさ】スピッツ つぐみ

          「愛してる」 この命 明日には 尽きるかも 言わなくちゃ 言わなくちゃ できるだけまじめに 目指したい姿、です。 「人を動かす切なさ」 スピッツが奏でる音楽のような記事が書けたら素敵だなあって思うんです… 歩き出せない暗い夜に 前触れなくぶつかった きっと運命とか 越えるほど ありえない 確率で 切なさに突き動かされる。ハッとする。 それは、驚きでもないしましてや恐れなんかじゃない。ただただ、心に響いてくる。 切なさで人を動かす人。 素敵だなぁ…そう思います。

          【人を動かす切なさ】スピッツ つぐみ

          "ゆずる"ということは"急かす"ということ。

          車で走っていると。横断歩道を渡る人たちをゆずることがあったり。逆に、ほかの車に「どうぞ」とゆずられたり。 でも僕は、"ゆずられて急がない人"を、まず見たことがない。 大抵の場合、会釈とともに、歩行者なら、"走る"。走らないまでも、"早歩き"はする。 だから、必ずしも"ゆずる"っていうことが良いこととは限らないよね…って思う。 間接的にでも、急かしていることと同じにならないか、って思う… だから僕は、ゆずらない。急かしたくないから。

          "ゆずる"ということは"急かす"ということ。