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俺が学生のときも先生の名前を呼び捨てにはしていた。 「なあなあ、田中の物理の宿題やった?」 「おいおい、席に着けよ。田中もう来ちゃったよ。」 という具合に、だ。

相手への呼称には、相互の関係性が関わっている。

どういう尊称をつけるか、また尊称自体をつけないのか、
呼ぶ本人の相手の区分けというか、ランク付けが表面化する。

以前週末に実施されている日本語補習校で教鞭を執っていた。
中高の国語の教員免許を持っていたのが海外で役に立ったのだ。人間、やっておいて無駄なことはないんだな、と採用されたときには思ったものだ。

当時のある時期、当時の中学生の生徒たちが、先生方の苗字を「呼び捨て」にしていた。知らん生徒からまで苗字を呼び捨された。もちろん俺だけのことではない。

いや、俺が学生のときも先生の名前を呼び捨てにはしていた。

「なあなあ、田中の物理の宿題やった?」
「やってねえの?やべえじゃん、田中こええぞぉ~。」
「おいおい、席に着けよ。田中もう来ちゃったよ。」

という具合に、だ。

しかしこれはあくまでも生徒同士の間の話であって、
先生を目の前にして直接呼び捨てにするようなことはなかった。
そんなことをしようとも思わなかったし、普段素行の良くない生徒にしたって先生に面と向かえば「先生」と呼んだ。

だが、これもテレビの影響なのか、どうなのか。

古いドラマになるが(←今この社会状況のおかげで再放送されている)「ごくせん」では生徒(例:沢田/松本潤)が山口久美子先生(仲間由紀恵)ことヤンクミのことを「やまぐち」と呼び捨てにし、「ルーキーズ」でも「カワトウ」(川藤先生/佐藤隆太)は野球部の連中から呼び捨て。 しかも「おまえ」呼ばわりされている。

ここで興味深いというかなんというか、この「やまぐち」も「カワトウ」もそのことで生徒を注意したりはしない。一切しない。

こんなのでいいのか、日本人?と思ってしまう。

本人を目の前にした苗字の呼び捨ては同等もしくは同等以下の意識下でするもので、 とても目上の者に対する接し方ではない。

英語圏だってそうだ。先生にはMrやMrsをつける。

一体、親はどんな躾をしているんだろう、普通にそう思った。
社会にでてから困るのはそいつ本人だろうに。
これはあくまで家庭内の躾の問題で学校の先生の生徒指導の範疇ではない。

話がちょっと逸れるが、当時ある生徒の父親から意見されたことがある。「親の躾」に引っ掛かったのでしばしご容赦願いたい。

「子供は人を見て態度を変えるもの。先生なら先生らしく厳しい態度でやってくれ。」 (よっぽどチャラチャラしているように見えたんだと思う。)

彼の子供の授業態度は褒められるものではなく、授業とは関係ない他のことをしていたり、物を食べたりして、注意をしても聞き入れないことが多々あった。

週5日現地校に通い、土曜の朝から補習校に通って知らない漢字だらけの勉強を強いられる子の身になれば、義務でもない補習校の授業なんて真面目に受けたくない、という気持ちも分からぬではない。

しかし義務でないのだから「通わない」選択もあるわけで、それは家庭内の問題だ。「通う」選択をしたのなら他人の邪魔や迷惑にならぬ行動をとるべきであろう。ちゃんと躾けて送り出すのは家庭の責任だ。

という論理から、俺はその父親に対して言って差し上げた。

「それは人を見て態度を変えるような子供に育てたあなたの問題で、それを学校の先生に責任転嫁するのはおかしい。」

そのときの父親の怒りワナワナぶりは漫画のようでもあり、ぐうの音も出ないようだった。子供の態度が変わることはなかったと記憶しているが、その父親はその後卒業するとき(俺は中学3年生の担任をずっとしていた)も、してからも、たとえ偶然レストランで一緒になったとしても、挨拶もしないし、寄っても来ない。まあそんな男が親ならどんな子が育つかは言わずもがなであろう。巻き返しに健闘を祈りたくはあるが…。

申し訳ない。相手の呼称の話に戻す。

さてもう一つ気になっていることがある。
このことには自問自答も何度もした。自分が自分を尊大に勘違いしていないかどうかを何度も自分自身に問うてみた。もちろんそれもないとは言えないのかもしれないが、とても悲しい感じがするのである。

それは「先生」いう呼称の使用期限だ。

俺自身は「先生」として教えを乞うた人に対しては生涯「先生」の呼称をつけて呼ぶ。そんなことは俺には当たり前中の当たり前である。もちろん自分の家族の先生だった人に対してもである。つまり過去に自分の(もしくは自分の家族の)先生だったことがある、という処理の仕方はしないし、そういう処理のしかたを考えたこともない。

先日補習校のときに担任した生徒の母親と偶然道で会って挨拶を交わしたときに「矢野先生、あ、それはもういいか、やのっち…」という風に言い換えをされた。「あ、この方はこういう考えをお持ちなのか。」と残念な気持ちになった。人物的にも意外だったので残念さが二重になった。

元生徒の場合はいくつも例がある。
会ったときにもあるし、メールやSNSでの会話でもある。
「れんさん」とか「やのさん」と呼ばれる。
「もう先生じゃないから」と彼らは考えている。全員に確認したわけではないが、「もう先生じゃないからね」と言われたことがあるので、方向としてはそういうことなのだろうと捉えている。

勿論これは呼び捨てではない。しかし過去に先生と生徒だったという相互の歴史は完全にご破算にされている。これに悲しさを感じずに、何に悲しさを感じろというのか。(←大袈裟)

先生と呼ばれる仕事をしているときはそれなりに生徒のためにあれこれ頑張るだろう。生徒たちの知らないところでの先生方の苦労は少なくも小さくもない。時には親たちとのバトルさえあるのだ。

もちろん金を貰っている仕事だからという面はあるにせよ、そういう時間を「生徒と先生」として過ごしてきた歴史を簡単にチャラにしてしまえる思考の構造は少なくとも俺にはない。

だからといって注意をすることはない。そう呼びたければ呼べばいい。
ただ悲しい気持ちにはなるのである。



だらだらと長い文を最後まで読んでくれた方、ありがとうございます。

写真はカップ麺の縁を抑えていてくれるフチ子さん。







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