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虹に手を伸ばせ、たとえ届かなくても ——バーチャルユーチューバー再考  (2021年1月-6月の記事振り返り)

他人を助けたんじゃない、僕は今、自分を助けたんだ                          終物語より、阿良々木暦


斉藤和義の『月光』では、イギリスの伝説的パンクバンドThe Clashのボーカル、ジョーストラマーの「月に手を伸ばせ、たとえ届かなくても」という言葉が引用されている


君が思い出になる前に ——杞憂・お気持ちは「あった方がいい」し、「出してよい」。ただし、その解決方法も自分の欲望もきちんと探っておくこと


我慢しなきゃいけないのが、そもそもおかしいんだよ。                    痛い時は痛いでいいんだ                                      阿良々木暦(化物語)

心理学、とりわけアドラー心理学でよく言われているのは「他人を救う前に自分を救うこと」の大事さです。卯月コウくんが「やさしさ」について述べていたように、実は、人間は「そもそも癖として人を助けてしまう(利他行動)」習性を持っているのですが、その行為はしばしば犠牲を伴うために、人のために動き続けることは苦痛を伴います。しかもこの苦痛は一定の依存性があるのです。

推しのことをおもんばかって、相手に不利なことを言わないのは間違いなく「やさしさ」です。ただ、これがエンターテインメント業界の場合、ファン感情が不満をため込むような状態にあるのは、怖い状態にあるのは間違いがありません。実際に被害者の出ているリアリティーショーがその怖い先例を示しました。

爆発した暗い感情をそのままぶつけるのがまずい事態を引き起こすのは事実です。

ファン研究や、以前の黛君の記事でも書いたように、現代はファンの声が「お互いがどう回避したって」本人に高い確率で届く世界です。そう、そもそも回避が難しい。YouTube生放送という、直観でコメントを打つ場所やSNSなど、人と人がつながってしまうのはたやすい。故に、哲学者によっては「閉じたコンテンツをいかに作り上げるかが大事」「関係性の切断が大事」ということを唱える人もいます。

私は、ファン文化研究の見地から考えて、何かVtuberの方の活動に不安や懸念点を抱いた際は、すぐにそれを口にだすのではなく、「自分が何をVirtual YouTuberにのぞんでいるのか」という自分自身の欲望の確認が必要だという立場を取ります。それは、まずはVtuberと自分がどう間をとるのか、インターネットとどう間を取るのかという問題にもつながります。また、大概の不安・杞憂は「問題」であるので、「問題解決」という考え方で見方を変えたり、行動をする(youtube・SNSの使い方を変える等)ことで個人でも変えることができると思います。

ちなみに私の場合、にじさんじには「アーティスト的なもの」を見に来ているところが大きいです。また、にじさんじと一緒に現代社会の勉強をしている所も大きい。

そのうえで、言いたいことがあるのなら、その不満を自分なりのやり方で昇華するやり方を探る。二次創作をするもよし、きちんとこんな形はどうかな?と示すのもよし。

これは、にじさんじ、ANY COLOR株式会社が「共創」を標語に掲げている以上、頭においておく必要があるかなと思います。(個人的に「共創」という言葉は軽く聞こえるようで、なかなか重いんじゃないかな…?と感じます)

私の文章は、議論を戦わせるよりも、アイデア出しとしてなるべくVの人やファンの人が発想を広げられるように置いています。議論で勝ち負けがついても、基本的に何も生まれないからです


タイムカプセルは、未来に残すプレゼント


卒業の件であれば、例えば東京事変が活動休止後に活動休止と言いながら当たり前に全員集まってライブをやっていた軽いレベルから、Daft Punkが映像の形で「もう復活はないな」と印象づけた重いレベルまであります。現状、「Vが卒業するとその姿で会うことが絶望的になる」という、V独特の問題が浮上しているため、これをいかに静めるか、そしてファンが別れを準備する時間を作ってあげることができるかがカギになりそうです。

また、これは個人的な倫理なのですが、自分の場合、ライバーさんが「十年後も活動をしているよ」と約束してきても、ご本人がそれでやめられなくて苦しまないことを考えて、あまり本気で受け取りすぎないようにしています。そのうえで、十年続けるためには何がいるかな…と応援の仕方を考えます。本人の意志とは別に、予想外の出来事のせいでやめざるを得ないことは、全然ありえます。

そして、ほかならぬ月ノさんが言っていたことですが―—いつ終わるかわからないから、輝く部分は間違いなくあります。


AKB48で活躍していた当時、前田敦子さんは「前田敦子はキリストを超えた」という強烈な本が出るほどセンセーショナルな人気が出ていました。しかし、今ではAKBの活動歴を女優の活動歴が超え、違う道を歩み続けているます。

松浦亜弥さんは、歌唱力を活かしてジャズシンガー寄りの活動も


まもなく1000万再生行きそう




にじさんじとバーチャルユーチューバー ーー技術からではなく「二次創作」から探るVtuberの新しさ

個人的には、バーチャルユーチューバーの革新性のひとつは、にじさんじを基軸に考えた場合、技術面は確かにあるのですが、それよりもファンとの距離を近づける「二次創作」の存在に強くあると私は感じます。キヨさんやレトルトさんの時代もファンアートはありましたが、このレベルの広がりはなかなかなかったでしょう。


ウィクロスの男性版はありませんか…(グッズ探し中)

やはり、声劇や演劇に興味のあるライバーさんが多い(成瀬くん、健屋さん、黛くん、サンゴさんetc)ことや、にじさんじが創作界隈に与えた影響を考えるに、やはりにじさんじは「アーティスト」よりに最初は見た方がいいのかなあ…と考えています。

この目線に立てば、「にじさんじの動画」自体も、一定の節度の中で自分で勝手に楽しみ方を作り上げてよいことになります。自分の場合、「勉強すること」が目的の一部に入っていたため、文学界とかesports界の人たちに色々文章も見てもらいながら、文章を書いていました。

以前も書きましたが、ここの課題は二次創作が変な序列を作らない工夫や、相互監視状態に陥らない工夫になると思います。

アイドルと推し―—現代文化の諸相

個人的に頭を悩ませているのは、こうしたYouTuber独特のDIY(自分で何でもやって作る)カルチャーや、「共創」の概念は、少なくとも私が見た限り、従来のテレビ的な意味でのアイドルの概念とめちゃくちゃ相性が悪いように見えるのです。AKB48であれば、かなり地域的限定(アキバの劇場)や、達成の方向性が定まった世界(総選挙やじゃんけん)で、恋愛が禁止で、推し方やオタ芸のやり方もある程度固まっています。ある程度世界観を様式美的に決めたうえで、そこから出てくるカタルシスを楽しむ部分があります。

一方で、YouTuberは「好きなことで、生きていく」の世界観なので、基本はやりたいことを自分で選んでいくのが価値です。だとすれば、アイドル的な「推し」方をしてしまうと、YouTuber的に新しいことをVtuberがしようとしたときに、ファンがおいて行かれてしまうのは当然なのです。しかもYouTuberは供給量がアイドルの比でない(週3~4回しかも4時間以上もザラ)なので、全て追うのは「物理的に無理」です。

だから、私はVtuberの場合、「推し」という概念を違うやり方で捉えておかないと絶対苦しくなるぞ…と思っていろいろ文章を書いておりました。恐らく、にじさんじの良さは「時にアイドルになり、時に芸人になる」変幻自在さにあると思うので…。

とはいえ、欅坂46やZOCの進出もあり、インターネットの存在による変化はアイドル界全体で起こっているようです。私もまたここは勉強が必要そうです。


アーティストにも愛される存在になった欅坂46

「夢の①バーチャル②アイドル③…?」が、アイドルのプロデューサーになる…?どんだけバーチャルやねん

アイドルってなんやねん(ガチ)

おそらく、男性Vの場合そらまふの二人の歩みはYouTuber活動の参考になるはず



月ノ美兎 ——臆病者の反撃/それでも彼女はコントローラーをみんなに渡した


月ノさんは、結局「バーチャルユーチューバー」とは何か?を考えるうえで外せないと思って色々書いていたのですが、好きな本とか取り寄せて読んだら、正直強烈に病みました…(小声)。絶望先生→なるたる→ぼくらの連続読みとかやるもんじゃないっすね…。

友達が言っていた月ノ美兎解釈をひとつ。

昭和の時代、寅さんのような風来坊の人がこの世にはゴロゴロしていました。どこをほっつき歩いているかわからないおじさんが、地元のやつと騒動を起こしながら、それでもいつもニコニコしている。なぜかわからないけどいつも自信満々。なぜかこの人について行ったらうまくいきそう。これは、北野武監督の作品の一部にも出てくるモチーフです。

平成、令和と時代が進み、「クリエイティヴ」や「デザイン」という言葉がどんどん力を持っていきました。寅さんのよくわからない芸術に関する講釈を、受け止めることのできる、余裕のある家族もなくなった。個性的であることがどんどん価値があり、余分なものをそぎ落とすこと・わかりやすいことが価値となっていきました(余分なところや、やばい所のない個性なんてないんですけどね)。

寅さんは変な人ではありますが、芸術家のように、自分から作品を作ろうとした人ともまた違います。どんな不幸が襲ってきても彼は彼らしくあろうとしただけです。そういう「無頼」がいる場所が、景気の悪化や社会の変化と共になくなってきた。あるいは、そういう変な人は、「ヒーロー」「ヒロイン」「アイドル」として全面に押し出されるようになった。YouTuberはまさにこの最先端ではあります。この現象は時代の要請であり、良いのか、悪いのかは今の私にはわかりません。

そういう子が偶然、下北沢にいて、偶然、Virtual YouTuberとかいうよーわからん所の試験を受けた。寅さんのように、内心臆病な彼女は、その臆病な自分に逆張りを張るように敬語のキャラを強引に打って、自分が笑われることを選んだ。

ひとつ、黛くんの話との関連で言うと…直球で言うと月ノさんはやさしい人で、一方で記事中でもよく引用した星野源と同じく、細やかな所に目が行く、メタに物事をすぐに見てしまう人だからこそ、自分自身が人を勇気づけるのではなく、月ノ美兎という自分を離れて飛び回るウサギのキャラクターにすべてを託した。それは、恐らくささやかな祈りだったのでしょう。

色々と暗い事件のことも見てしまいましたが―—それでも彼女は今も「みんな」の方に、人生というゲームのコントローラーを差し出し続けています。


黛灰 ——バーチャルと人の平凡な残酷さ

こちらの記事に、黛君に関わる記事と喪についての記事を引用していただきました。ありがとうございます。

noteに記事を書き始めたのは、最初は黛君についての記事を書き始めたところからでした。黛君の繰り出す、ファンならば心爆発しかねない視覚体験に、私も心痛めたりなんなり忙しくしております。

komiroyamaさんに引用していただいた文章に部分的に応答すると、コミックマーケットやSF大会、ニコニコ動画の重要な所は「共同性自体を押し付けてはいない」ことです。例えばコミケなら、R-18に行く人、企業ブースに行く人、自分を表現したい人、様々な違う思惑の人が集まることによって、お互いに同じ方向を向いてコミュニケーションしていないにもかかわらず、何故か集合的な意識・幻想が生まれてしまう。(この言い方は批評家の東浩紀氏を参考にしています)。東氏の言い方だとそうした「誤配(誤解)」が生まれやすい場所、よい偶然の生まれやすい場所に、間違いなくある時期のにじさんじはなっていた。

黛君の場合、おそらく、彼の物語に従ってしまえば待っているのは「デリート」です。それも感情も何も必要ない、まるで不必要なデータをゴミ箱に捨てる程度の。人間の判断には元来、そうした残酷な部分がどうしてもつきまとうことを、黛くんの物語からは思い起こさないといけないのかもしれません。

しかし、彼はこの現状を「悲しむ」ことができた。そこには明らかに人間性の発露があり、応答の可能性があるはずです。私たちは単線的なストーリーを、相互作用的なナラティヴに読み替えていく必要があるかも、しれません。

近年、物語には<ストーリー>と<ナラティヴ>二種類あることが注目されている。後者には、相互作用的でダイナミックな時間の流れが存在している。相互作用的な磁場が発生しやすいネットでは後者が重要だろう。

サテライトヤングは、インターネット以後の人々の変化を80年代のディスコミュージックに乗せて歌うアーティスト。

インターネットmemeの帝王Rick Astley。80年代大ヒットしたRickのダンスは時代を超え、ネットに生きる者のオアシスになっている(まもなく10億再生)

黛くんの抱える問題の回答の一部分は、三枝明那くんや美兎さんはつかんでいると思います。


ゲーム実況 ——にじさんじの活動の大半を占める重要要素

私は「アート」の一種としてにじさんじを見ていると言いましたが、その中で扱いが非常に難しいのがゲーム実況です。ゲーム実況は、人によってかなり評価の割れる行為で、「消費活動を、さらに赤の他人に代行してもらうことによって満足を得ているだけ」という批評を読んだことのある一方で、ゲームセンターCXのように、なくなった青春をなんとか埋め合わせる行為として褒めるものもみたことがあります。

しかしにじさんじの方の場合、「エンターテインメント」との距離をどうするかがポイントになるのかなと感じます。個人的にはこれほど影響力があるのなら、あるゲームに興味のない人とそのゲームの架け橋の部分を意識して、初心者向け動画を投稿しつつ、自分はガチ勢に入っていくなど、やり方はありそうですが…。

この辺は、むしろニコニコ動画の実況勢や、ゲーム自体の歴史をたどっておいておく必要がある気がします。ガチ勢とエンジョイ勢の対立は、どのゲームでも宿命的に起こることなので…。(ただ、個人的にはるるちゃんがここについて考えようとしたタイミングでるるさんが辞められるのが辛い…)

奇跡を起こし続けてきた男たち、幕末志士

にじさんじの外を見れば、色んな世界で実況者の人がいる

神田くんは葛葉くんが遠慮しないように色々考えている

ゲーム内に不法侵入する鷹宮リオン嬢

ライバー各論 ——そのひとの見ている景色を少しのぞく

ライバー各論は、基本的に作品を自分で作ってない方の場合、「その人が好きなジャンルの物事を紹介する」形で書いています。とはいえ、やはりVirtual YouTuberはリアル系の動画が取りにくいところもあるので、一回ゲーム実況についての考えを固めたいところです。

緑仙と遊びと「自分自身」 ーーこれからの課題・非関係性オタクの目線

にじさんじの中で、月ノさんと黛君以外にバーチャルユーチューバーの方法論について自覚的なのは緑仙でしょう。みどりさんの場合、キーワードは「嘘」です。この人ほど嘘がつけないひともすごいとは思うんですが…。

ただ緑仙のことを本気で書こうとすると、70年代の歌謡曲(黛ジュンとか中島みゆき初期とか)までさかのぼる地獄が待っているので、またじっくりとやります…。

もうひとつ、ゲーム実況のところでも書きましたが、「遊び」の概念を整理したいなと感じます。自分は恐らくにじさんじを見る人間でも珍しい関係性オタクではないファンなのですが、それはにじさんじの中に変なゲームばっか探っている人がいて、それをよく見ているからです。黛くんと委員長もかなりゲーム選出は変ですが、エビオさんとましろさんもすごいのを取ってきます。

ゲーム選出や企画のレベルでも、「楽しそうな空気」が作れたり、そういう一歩引いた目線で見ないと、にじさんじとゲームにまつわる視界は開けないように感じます。


ただひたすら笑ったやつ

いちいちかっこよさすぎるましろさんの配信と、謎ゲー

そしてできれば、自分自身のリアルの方に、にじさんじから得たものを還元する活動を何かやってみたいなとおもいはじめています。

私は究極的にはどのライバーさんも離脱することはあり得るし、にじさんじが終わる可能性すら普通に考えています。そして―—にじさんじの人と自分の人生が交わることはないのかもしれません。それでも、そこからもらったものを大事にしておくことが、もしもにじさんじが無くなっても―—あるいは続いていくとしても、彼らの存在を消費しないことだと思っています。


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