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推しが呪いを振りまいた時に ーー緑仙と、少女革命ウテナと王子様のいない世界



3年前、緑仙の放送を見ながら、最近の曲についてカラオケについての情報を集め出したのが、にじさんじを見始めた理由だった。その頃、にじさんじの曲は一曲もカラオケに入ってなかった。
時は経ち、いまやにじさんじの曲は50曲やそれ以上カラオケに入るようになった。

そして先日、ついに私も夢追翔の「死にたくないから生きている」と緑仙の「ステイルメイト」でカラオケ90点を取った。
それは、最初に緑仙の曲を聴いていたころに、歌のへたくそだった自分が立てた「にじさんじの曲がカラオケに入ったら絶対に良い点をとってやる」という小さな目標がかなった瞬間だった。

しかし、その時、わたしは複雑な気持ちを止めることができなかった。
なぜなら、この二人が呪いのような曲を出し続けていた時期だったからだ。

今回は、この二人のうち、特に緑仙の曲を取り上げる。


前提:Vtuberの曲をどう聞くのかと、「呪い」とはなにか


まず大前提として、私はにじさんじファンである以前に、ひとりのJ-POPと洋楽のファンであることを確認したい。つまりにじさんじの曲であっても、Spotifyに入れて、そのほかの曲と同じようなものとして聞くことがある。
つまり、ミスターチルドレンやプリンス、テイラースウィフトやB'zのようなアーティストと並べて聞くことがある。


①にじさんじの曲として聞く ⇒曲をライバー活動の文脈の上で聴く
②一般に流通する一人のアーティストの曲として聞く

①のことであれば、わたしもネットで活動する人の苦しみ自体については、さんざん見てきたものになる。そして、このような曲たちが生まれる状況もよくわかる。特に、これまでレビューしてきたように、にじさんじのライバーの曲は、その人の活動の中身を知っているひとたちにとってだけ見える、特別な意味が与えられるものが少なくない。

問題は②である。これらのものが、果たして一般の曲に交じって聞かれていた時、人がどう思うかを吟味する必要は、ある。


今回取り上げる曲たちは、強い「呪い」の力を持っているように私には聞こえる。「呪い」は例えば人に死んでほしいとか、対面では言うはずもない言葉をネット空間上に投げることである。この呪詛(バカチンとか、くそったれ)という言葉は、主語がなく、故に方向性もなくひとを巻き込む効果が強いのは事実である。攻撃性の強い言葉を投げかけられたら、自分相手でなくても気になるだろう。
呪いの言葉自体は、具体的な文脈や苦しみから出てくることが多いが、その言葉だけを聞くと、文脈がわからないが辛くなる。そういう言葉である。

しかし一方で、「呪い」の言葉は人を無力感に縛り付ける。なぜなら、抜けることのできない絶望のコミュニケーションに人を引きずり込むからだ。しかもやっかいなのは、呪いはその言葉を放った人そのものを引きずり込む自己成就予言的な部分がある。いわゆる蟻地獄なのである。

確かにアイドルの曲は、ある一人の人に夢中にさせるために、そうした呪いにも似た言葉をかけることはある。人に自分を振り向かせようとする欲求自体が暗い部分もあるのは間違いない。人の苦しみや呪いが曲にのった時、それを聴く人は何を考えればいいのか。それは以前「音楽でお金を稼いでいる自分が最悪だ」と歌っていたカンザキイオリさんについてのnoteを書いた時から強く意識された問題点だ。




緑仙『藍ヨリ青ク』『エンダー』『ステイルメイト』


夢追よりもさらに強烈に絡まった思いが込められているのが、アザミさんとの共作である『藍ヨリ青ク』『エンダー』『ステイルメイト』である。すでに公開から1年程度たっているが、以前レビューにいれていなかったのは、この曲のもついかんともしがたい怒りとか哀しみをどうすればいいのかわからなかったからだ。



果たしてアザミさん(つまり作詞者が別)の曲を、本人の考えと近づけるべきかは留保がつくかもしれない。
しかし、転生や醜さや愛といった言葉が一緒くたにされて終わらせられる『藍ヨリ青ク』と、自分の元を離れたファンに対して、「お前が僕を捨てた」と言い放ち、嘘つきと言い続ける『エンダー』は、どちらもファンの人の心をえぐりにえぐった曲になった。流石の私もカラオケで歌っていてかなり辛くなっていた。


PVにはなっていないが、『ステイルメイト』は、チェスにおける『引き分け』のことである。そしてこの曲も、友達になって、親しくなるとすぐに関係が終わってしまうこと(ここが恐らく大事である)と嘆きながら、またペラペラの愛をお互いにメンションしあっている様子を皮肉っている。しかし、意外とその真ん中にある感情はわかりやすい。



生きるための呪いと、少女革命ウテナ ーー王子様がいない世界で



呪いを吐き出すこと自体は、悪いことじゃない。

心理療法士の東畑(2022)さんは、自著で心の守り方について「スッキリ」するやり方と「モヤモヤ」するやり方、2つの重要性を唱えている。
「スッキリ」は、カラオケで熱唱したり、縁をバッサリ切ったり、論理的にものごとを整理してみることである。ミニマリストの人なら得意だと思うが、問題はこの整理の仕方は自分の人生に対して、時間をかけて迷うべき事柄や、耳の痛いアドバイスを全て切り離してしまうことだ。
東畑さんは、PDCAを回しすぎて(つまり全て論理で管理しようとした)、睡眠時間までPDCAで回した結果、自分の身体に不調をきたした女性の例が出てくる。

ここで、大事なのは人と人を結びつけるのは心のつよさではなく、弱さであることだ。強がっている人に、人はなかなか近づけない。むしろ、弱いところを怖くても見せることができる関係性は、お互いの辛いところを見ているからこそ、大事なセーフティネットになっている。

そして、今回取り上げた3曲は、すべて「スッキリ」させる言葉を言おうとして、失敗しているように見える(それよりも抱えている感情が重すぎる)。
『ステイルメイト』も一行目でいきなり友達関係の運命を宣言してしまっている。ここには、「時間が物事を解決してくれる」という余裕がない。

だからこの文章では、あえて「モヤモヤ」させるようなことを言ってみよう。



『少女革命ウテナ』のTV版、劇場版は一見ではなかなか理解のおいつかないスペクタクルと、甘い世界に包まれている。しかし、その登場人物たちは『決闘広場』と呼ばれる場所で、薔薇の花嫁をめぐって戦うように仕向けられている。

そして主人公のウテナは、劇場版でもTV版でも女性だが「王子様」になろうとする存在として描かれている。ウテナは、「王子様」を心の中に秘めて、純粋にかわいそうな女の子(アンシー)を助けようとする。しかし、TV版ではこの二人が結ばれることがない。

上田 (2017)によれば、その王子様の正体はお姫様と少女たちによって作り出された幻想・呪いだった。しかも、王子様になろうとして姿を消したウテナのこともあっさり忘れてしまう。だから、王子様を内面化して、王子様であろうとした人は孤独を深めてしまう。

お姫様を守ろうとする王子様はいない。ここにあるのは、好きな人が出来たらあっさり性的な行為にも手を出してしまう(TV版33話)くらいなびきやすい主人公が、まったく心を開こうとしないアンシーと一緒に、何でもない日常を(かなりひどいこともしあいながら)過ごした、ささやかな日々だった。



仙河緑は、自分がなりたいと望んだ自分を「緑仙」と名付けた。
自分となりたい自分が曖昧になってきた今、みんなの王子様であるひとに、仙河緑は近づいた。そして、アザミさんによってつくられた三曲は、おそらくその王子様から見た目線である。

ウテナとアンシーは「卵の殻」、つまりシステムと悪循環を断ち切るために、全ての人を救おうとする、架空の王子様を殺して外の世界に飛び出していった。そこに至るまで、長く苦しい戦いの時間を通りすぎる必要があった。

これから緑仙がどのような場所に向かっていくか、その細かい部分を知ることは出来ない。
ただ、ひとりの人間として――『エンダー』のPVのエンディングで手を握ってファンとのつながりを祈っている緑仙の、その手の赤い紐が呪縛と見るのか、絆とみるのか――その様子を、静かに枠の外から見守っている。


参考文献
内田樹 2011『呪いの時代』新潮社
(特に呪いの性質について)
東畑開人 2022『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』新潮社
 川口晴美 2017「王子様のいない世界でただ手をつなぐということ」
 上田麻由子 2017「薔薇の葬列 『少女革命ウテナ』と少女コミュニティに  おける王子様という生贄」
幾原邦彦 2017『ユリイカ2017年9月臨時増刊号 総特集=幾原邦彦』


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