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春のカミーノ⑥ 〜ロンセスバージェスからスビリへ

漢方薬がよく効いたせいか、私は少し寝過ごしてしまった。いや、オスタルの夕食で出された巡礼者のためのワインを、さくらちゃんにつられて何杯も飲んだせいかもしれない。

たとえ安いテーブルワインでも「巡礼者のための」という名がつくと、途端にありがたみとおいしさが増す。その結果、つい飲み過ぎてしまうのだった。

コーヒーだけでも飲もうと下に降りていくと、Miwakoが私を見るなり、バツが悪そうな顔をして、こそこそと食堂を出て行った。

「手遅れだったね~」さくらちゃんがニヤニヤしながら言った。「ミワコさん、パン祭りだったよ」
「しまった!」
と、私は思わず叫んだ。

朝食コーナーには、食パンからロールパン、クロワッサン、甘いデニッシュまで、ありとあらゆる種類のパンが並んでいた。Miwakoは全種類、平らげたのだという。

「カミーノを歩いて10キロやせる」と誓ったMiwakoの、私は厳しい見張り番だった。憎まれ役ではあるが、かつての華奢なMiwakoを知る幼なじみとして、当然の任務だ。朝のパン祭りなど、もってのほかだったのに……

まあ、済んだことは仕方がない。今日はこれからずっと山の中を歩くことになる。目的地のスビリは、山あいの小さな村で、宿の食事も質素に違いない。ここで少し食べておくのが賢明だろうか? 食欲はなかったが、私もパンをいくつかお皿にとってみた。小麦の香り高い、鄙(ひな)には稀なハイレベルのパンだった。

「まだフランスに近いからかな、パンがすっごくおいしいね! これからスペインのパンも楽しみだな~」さくらちゃんは朝からウキウキしている。ガリシア州に入るまでは、スペインのパンには期待できないということを、私は黙っていることにした。

ちなみに今回は、ガリシア州のずっと手前で旅を終えるので、あのモチモチしたガリシアパンには残念ながら出合えない。

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パウロ・コエーリョの小説『星の巡礼』に登場する場所の中でも、ここロンセスバージェスに、私はとりわけ憧れを抱いていた。3年前に初めて訪れたときは、教会とアルベルゲの撮影だけで、次のブルゲーテに移動してしまった。このたびようやく一泊できるということで、ひそかに心躍らせていた。

もちろん、パウロのように、教会で呪術師の修道僧に出会えるのでは……などと思っていたわけではない。それでも、その地で一晩眠るだけで、内的な変化が訪れるということだって、あるかもしれないのだ。

Miwakoもさくらちゃんも『星の巡礼』を読んでいなかったので、ここの教会にはさほど関心を示さず、私の心の内を知るよしもなかった。そして実際、特に何も起こらなかった。雨に降り込められて、村を散策することもできなかった。いろいろガッカリである。

今回のロンセスバージェスでの思い出といえば、漢方薬が魔法のようによく効いたことと、朝食のパンが奇蹟のようにおいしかったこと。とりあえずその2つだった。

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ロンセスバージェスから、スビリまでの21.9kmは、アップダウンの多い山道をゆく。雨は朝からずっと降り続いていて、当分、やむ気配はない。Miwakoのアルトサックスは、今日も荷物搬送に託すことにした。熊野名産の皆地笠(みなちがさ)に雨合羽という、完全防備で再び出発だ

森を抜けるゆるやかな下り坂を1時間ほど歩くと、ブルゲーテの村が見えてくる。かのヘミングウェイは、近くの川でマス釣りに興じていたそうで、村の入口のオスタル・ブルゲーテが常宿だった。いわゆる文豪の宿である。クラシカルな雰囲気で、食事もなかなかおいしい。

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3年前に泊まったときは、井島カメラマンも鳥居さんも、ピアノに残されたヘミングウェイのサインに大興奮していた。アシスタントのアヤちゃんは、「男のロマンってやつですかね」と情緒の欠片もなく呟きながら、ナバーラ風マスのソテーをせっせと口に運んでいた。

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📷 ナバーラ風マスのソテーは、生ハムをおなかに挟むのが一般的。オスタル・ブルゲーテのレストランでは上に載せていた

ブルゲーテはバスク地方らしいかわいい家並みで、洒落たカフェなどもあったが、今朝は雨に包まれ村ごと眠っているようだった。カフェも扉を閉ざしている。私たちは先を急ぐことにした。

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ぬかるんだ道を黙々と歩く。美しい茶色の馬が一頭、ゆっくりと瞬きをくり返しながら雨に打たれていた。巡礼道に沿って、牧場の柵がめぐらせてあったが、ほかに仲間はいなかった。寂しくないのだろうか、と思った。

気がつけば、私もひとりだった。振り返ってもMiwakoとさくらちゃんの姿はない。ロンセスバージェスを出るときはあんなに大勢いたのに、今は誰もいなかった。みんなどこへ行ってしまったのだろう?

まあいいさ、と私は呟いた。私はひとりになりたかったのかもしれない。心深く望んでいることが、自分を取り巻く世界をつくっているのだとしたら──結局、私はひとりで歩きたかったのだ。

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山の中をさらに1時間ほど歩いて、エスピナルの集落に出た。教会の前のバルは、雨宿りの巡礼者で大混雑だ。みんなここに居たのね、と思った。

皆地笠もレインウェアもリュックもずぶ濡れで、ずっしりと重くなっている。ちょうどおあつらえ向きに、入口の壁に沿って材木が2本渡してあったので、荷物を置いたついでに、笠と上着もかけて乾かした。

Miwakoとさくらちゃんも、程なく合流してきた。エスプレッソを飲んで、すぐに出発するという。私は少しゆっくりすることにした。カウンターに並んだタパスが、どれもおいしそうだったからだ。

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マスターは料理上手で話し好きだった。北のバスク州の、バル街で有名なサン・セバスティアンから移り住んだという。たしかに、こんな田舎で、こんな朝からいろいろタパスを並べるのは、サンセバ仕込みなのかもしれない。

ここには、バスク古来の楽器もあるんだ、とマスターが誇らしげに言った。チャラパルタ(Txalaparta)といって、2本の木を叩いて音を出すんだと──それは、私がさっき荷物を置いた材木だった。

たいへん恐縮したついでに、せっかくなので叩かせてもらった。叩く場所によって、微妙に音階がある。バリ島のガムランを思わせる、遠い世界から響いてくるような音だった。

そういえばバルの名前は、チャラパルタ・カフェだった。お店の象徴でもある大事な楽器に、荷物を置いたり上着をかけたりと、本当に罰当たりなことをしたものだ。楽器の神様、ごめんなさい。

どうかこの先、私に災いが降りかかりませんように……そう祈りつつ、すっかり長居してしまったバルを後にした。

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久々のひとり旅を、私は満喫していた。皆地笠から滴るしずくも、だんだん気にならなくなってきた。雨降りの巡礼も、また楽しいものだ。

このまま、どこまでもひとりで歩いて行けたなら──そんな甘い空想を遮ったのは、激しい水音だった。雨で水路が溢れて、巡礼道に流れ込み、濁流となっていた。歩いて渡ろうとすると、ひざまで水に浸かりそうだった。

しばし考えた末、迂回路の車道を通ることにした。私がもし流されても、誰も助けてはくれないからだ。今回の旅では「巡礼道を1メートルもズルしない」と誓ったのだが、これは致し方ない。Miwakoとさくらちゃんは、どうしただろうか……。

次のビスカレッタの集落までは約5km、峠越えの山道が続く。このあたりでは巡礼者を導く黄色い矢印も、ホタテ貝のマークも見かけない。その代わり、赤と白の短いラインを重ねたマークが、トレイルの目印になっている。

自然保護区でもあるらしく、日本の松茸に似たキノコを描いた看板もしょっちゅう現れる。うっかり採って食べようものなら、大変なことになりそうなキノコだなと思った。

なんとなく、キノコの看板をスマホで撮影してから、また歩き始めた。雨は小止みになっていて、時折、風が吹き抜けては木立を揺らしていった。道幅はどんどん狭くなり、私は少し不安になったが、深い轍に交じって、巡礼者らしき足跡も確かにある。

無心に歩いてゆくうち「亡者の出会い」という言葉を、唐突に思い出した。カミーノと姉妹道である熊野古道の、那智から本宮に抜ける大雲取越(おおぐもとりこえ)にそういう場所がある。2年前にひとりで歩いたとき、私には微かな期待があった。亡くなった父親に逢えるかもしれないと思ったのだ。

結局、父の姿を見ることはなかったのだが、時間の裂け目というか、心がざわざわするような不思議な場所だった。いま私が歩いている道にも、同じような気配が漂っていた。いつの間にか木立は途切れ、右も左も、打ち捨てられた牧草地だった。巡礼者の足跡はどこにもなく、深い轍だけが続いていた。

完全に、巡礼道をそれてしまったと気がついた。私はくるりと踵を返し、一目散に走った。半刻ほど走り続けて、見覚えのあるキノコの看板のところにたどり着いた。どうやらここで写真を撮った後、道を間違えたようだ。キノコの精に化かされたのかもしれない。

時間の裂け目から、うっかりあの世に迷い込むところだった私を、亡くなった父が助けてくれたのだろうか。それとも、悪い冗談が大好きだった父は、キノコとグルだったのだろうか?

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ビスカレッタの手前で、Miwakoとさくらちゃんの後ろ姿を見つけてホッとした。あの濁流を、二人はジャブジャブ歩いて渡ったらしい。他の巡礼者たちもそうしていたからと、さくらちゃんは涼しい顔で言った。Miwakoも意外と平気そうな顔をしていた。ともあれ、誰も流されなくて良かった……。

今日の行程は、3年前の取材では「地味だから」という理由で飛ばしてしまった道である。まさか、ピレネー越え以上に、アドベンチャーの連続になるとは──何事も、実際に歩いてみないとわからないものだ。

スビリまでの最後の3kmは、山の中の急坂をひたすら下ってゆく。降り続いた雨水が小川となって、細い山道の真ん中を勢いよく流れ落ちていた。濡れた石はツルツルして滑りやすく、とても危険だ。三羽ガラスはさすがに真剣な表情で、脇目もふらずに黙って歩いた。

そういえば大雲取越でも「亡者の出会い」の後、最後はこんなふうに、とんでもなく急峻な下りが続くのだった。私はまだ、パラレルワールドにいるのだろうか? たとえそうだったとしても、仲間がいるというのは何と心強いことか。

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夕方5時を回った頃、ようやくスビリに到着だ。アルガ川にかかる大きな石橋を渡って村に入る。ここ数日降り続いた大雨で、川は恐ろしいほど増水していた。

氾濫する一歩手前のようにも見えたが、村人はのんびり散歩などしていたので、きっとよくあることなのだろう。

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オリソンの山小屋で一緒だった、韓国人の女の子二人が、広場で手を振っていた。お昼過ぎにはもう着いていて、アルベルゲのチェックインを済ませたという。「若いっていいなあ」とMiwakoが羨望の声を上げた。

そもそも、若い頃のMiwakoは、歩くのが速かったのか? と聞いてみた。答えは「今と同じ」であった。子供の頃からゆっくり歩いていたそうだ。彼女は筋金入りのカタツムリなのだ。

山小屋風の民宿だと思って予約したオステリア・デ・スビリは、予想に反して瀟洒なプチホテルだった。レストランも本格的で、どうやら地元のグルメ誌で評判の名店らしい。さくらちゃんの目が輝いた。

巡礼者は、つましく粗食であるべきか? これは難しい問題である。

『星の巡礼』をひも解くと、パウロは山の中で釣った魚を焼いたり固いパンをかじったりするが、レストランでの食事とワインを楽しんでもいるようだ。宿もアルベルゲ(巡礼宿)ではなく、民宿だったり、ときには高級ホテルだったりもする。

私のスペイン巡礼の師匠である、カリスマガイドにしてカミーノの達人・中谷光月子氏も、その土地ごとの名物を味わうことを強く推奨している。「昼はヤコブ様のために歩く時間、夜はバッカス様のための時間」というのが、師匠の口癖だった。

中谷氏の名著サンティアゴ巡礼へ行こう!は私の愛読書であり、この本のおかげで、カミーノで何度もおいしいものにありついた。巡礼にまつわるスペインの歴史や文化についても、わかりやすく解説されているので、ぜひ一読をお勧めしたい。

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カミーノ800kmの、特に前半はワインの名産地や有名なバル街など、食のお楽しみが満載だ。フトコロに余裕があるのなら、巡礼者といえども、贅沢して罰は当たらないと私は思っている。それが地元の経済を潤すことになるのは言うまでもない。

歴史的にも、清貧なる修行僧であれ、錦をまとった王侯貴族であれ、それぞれの悩みを抱えてカミーノを歩いていたわけだから。

──というわけで、山あいの村のホテルで私たちは、ナバーラワインと郷土料理のフルコースに舌鼓を打ったのだった。

私は実は野菜ぎらいなのだが、名産の赤ピーマンやアスパラガスなど、ナバーラの野菜は滋味溢れるおいしさだった。私たちが越えてきたあの山々の、力強い土地の気を吸って育った野菜なのだと思った。

居合わせた年配のフランス人グループのために、Miwakoはアルトサックスで「オー・シャンゼリゼ」や「枯葉」を演奏し、喝采を浴びた。楽器を奏でるMiwakoは本当にイキイキと魅力的で、山道を苦しそうに歩いているときとは別人だ。

レストランの支配人は、低音ボイスのイケメンで、演奏を聴きながらこっそり目頭を押さえていた。「本当に……貴女の音楽は特別です」と囁かれ、Miwakoはうっとりしていた。幼なじみがイケメンに弱いということを、私は初めて知ったのだった。

支配人が振る舞ってくれた、ナバーラ名産のパチャラン(コケモモ酒)をショットでぐっと飲み干して、宴はお開きとなった。

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パチャランは度数の高いお酒だが、胃腸に良いといわれ、締めに飲むと悪酔いしないそうだ。私は今夜も飲み過ぎてしまったけれど、明日は絶対に寝坊しないぞ、と誓った。二日続けて、Miwakoにパン祭りをさせるわけにはいかないのだ。

春のカミーノ⑦ に続く)


明日は、久々の大都会パンプローナへ!
¡Hasta luego!(アスタ ルエゴ またね)
by さくらちゃん&Miwako

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◆Miwakoの新作CD「梛の木」「Camino」はこちらで購入できます。
熊野古道女子部 公式ショップ

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◆新装版が発売となりました!
スペイン サンティアゴ巡礼の道 聖地をめざす旅』(髙森玲子著 実業之日本社刊)

カバー

春のカミーノ⑦ に続く)

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