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春のカミーノ⑧ ~パンプローナからペルドン峠へ

ナバーラ名産パチャランのおかげで二日酔いにはならなかったが、久しぶりに悪夢をみた。意識の深い深いところまでブクブク沈んでいって、そこから一気に浮上してぽっかり目覚めた、そんな感じだった。

この十年くらいの間に出会った人たちが、次から次へと、これでもかというくらい出てきて、私は軽くうなされた。会いたい人も会いたくない人も、女も男もごちゃ混ぜだった。

悪夢をみるのは良い兆し。カミーノを歩いているときであれば、なおさらだ。自分ではどうしようもない、心に溜まった澱のようなものを、悪夢は力づくで大掃除してくれる。夢をみたということは、もう終わったということなのだ。

一方、カミーノでは毎日ちょっとずつ、歩くごとに余計なものが落ちていき、気づけばいつの間にか身軽になっている。漢方薬と荒療治の組み合わせというか、カミーノで悪夢、最強である。

「デトックスってやつだね」パンプローナの石畳をスキップするみたいに歩きながら、さくらちゃんが笑った。「いいな~。私、夢って全然みないんだよね〜」

Miwakoは目を丸くしていた。実はカミーノを歩き始めてから、毎晩のように悪夢をみているのだという。聖なる道でどうして悪夢なのかと、ひとり思い悩んでいたそうだ。きっと掃除に時間がかかっているんだよ、と私は慰めた。

昨夜のお祭り騒ぎのことなど、微塵も感じさせない朝の静けさだった。愛すべき都会パンプローナに、私たちは別れを告げた。

旧市街の出口のところに、豪華なホテルがあって、トレス・レイエス(三人の王様)というすごい名前がついていた。一体どんな人が泊まっているんだろう?

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シスル・メノールまでの約4kmは、車通りの多い舗装道路をひたすら歩く。アスファルトの照り返しで、みるみる体の水分が奪われていくのがわかる。昨日までの森の中の道が恋しい。雨に祟られたピレネー越えも、今となっては懐かしいばかりだ。

「オラ! ブエン・カミーノ!」どこかで聞いた声がした。

交差点の向こうで、懐かしい顔ぶれが手を振っていた。山小屋で同室だったベネズエラファミリーである。オリソンを発つ朝に記念撮影して以来だったが、私たちと同じ日程で歩いていたようだ。

相変わらず、みんなでスペイン語の歌を口ずさみ、ステップを踏みながら歩いている。お祭りがまた始まったようなにぎやかさだ。中世の昔にも、こんな巡礼者集団があったのだろうか。

あのひっくり返りそうな二段ベッドで向かい合わせだった長男夫妻と、しばらく連れだって歩いた。なんだか親戚に再会したみたいに嬉しい。奥さんのマリアは気さくな人で、お互いのここ数日の出来事について、話が弾んだ。

ほら私たち、大所帯でしょ? ロンセスバージェスでも、スビリでも、アルベルゲに泊まっていたのよね。パンプローナでは……ええと、どこだったかしら?

「トレス、なんとか」と髭面で恰幅のいい旦那さんが答えた。三人の王様ホテルに泊まっていたのだった。

またすぐ会うでしょうけど……と言いながら、村の入口でハグして別れた。ちなみに王様ホテル、部屋は狭かったけれど朝食はなかなか良かったそうだ。ベネズエラの彼らの自宅は、ものすごく広いお屋敷なのかもしれない。

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村の鄙びたバルで、私たちは遅めの朝食をとった。カフェ・コン・レチェ(ミルク入りコーヒー)と、スペイン流の固いトーストにジャム。卵はなし。巡礼者の姿はほかになく、地元の常連さんばかりだった。

お隣のテーブルを見ると、身なりのいい老人が新聞を広げながら、グラスの赤ワインを飲んでいた。何も言わずにワインが出てきたところを見ると、おそらくこれが日課なのだろう。

「なんか、自由でいいなあ」と、Miwakoがしみじみ呟くのが聞こえた。私からみると、Miwakoも十分に自由だと思うのだが──もしかして、もっともっと自由になりたくて、Miwakoはカミーノを歩いているのだろうか。

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シスル・メノールから先は、緑の小麦畑の中をゆく。Miwakoとさくらちゃんは楽しそうに歩いていたが、私はひそかに憂鬱だった。なにしろ8km先には、名高い難所のぺルドン峠が待っている──。

3年前の取材旅行では、時間がないという理由のもとに、ロケ車で峠を上って撮影をした。ペルドンは「許し」という意味。悪魔が巡礼者を試すという言い伝えの通り、濃霧が立ち込める不気味な場所だった。

峠のてっぺんから見下ろした巡礼道は、ほとんど垂直では?と思えるほどの急坂で、私はここを歩いて下りなくてよいことを、神に感謝したのだった。

まあ、そんなことはあの二人には黙っておこう。知らぬが仏という日本語は、本当に素晴らしいと思う。

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ぺルドン峠のふもと、サリキエギのバルでひと休みしながら、ここでタクシーを呼ぶかどうか、さりげなくMiwakoに聞いてみた。半ば予想はしていたが、案の定、歩いて峠を越えたいという返事であった。やっぱりな、と私はため息をついた。

Miwakoは私の幼なじみであり、優れた音楽家である。彼女の奏でるアルトサックスとフルートの音色は、カミーノを歩く巡礼者たちを癒し、勇気づけていた。

彼女を旅に誘ってしまったこと、私は今では後悔していなかった。願わくば、もう少し速く歩いてくれたらよいのだが……
Miwakoの歩みは、相変わらず、スペインのカタツムリも驚くほどゆっくりで、その遅さは揺るぎないものだった。

とはいえ、雨雪混じりのピレネーをも越えたMiwakoである。なんとかなる方に賭けよう。正直、私だけでもタクシーで行きたい気持ちでいっぱいだったが、覚悟を決めるしかない。冷たいビールが飲みたいのを我慢して、私はエスプレッソを気付薬のようにあおった。

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熊野比丘尼ならぬ梅比丘尼(うめびくに)として、熊野名産・梅干し「しらら」を巡礼者に配るのが、今回のさくらちゃんのミッションだ。英語が話せなくても、そのコミュニケーション能力の高さは、私の想像を遥かに超えていた。

照りつける日差しの中、ぺルドン峠の頂をめざしながら、彼女は会う人ごとに梅干しを勧めた。疲れに効くということで、みんな喜んで食べてくれた。おかげで、この先の巡礼仲間がたくさんできた。

5月は巡礼のハイシーズンだ。アルゼンチンやアメリカやイタリアなど、いろんな国からの巡礼者と梅干しを分かち合ったが、特にさくらちゃんと気が合ったのは、ドイツ人マダムのハイカさんだった。

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しばらく日本に住んでいたことがあるそうで、梅干しも好きだと言ってくれた。背が高く知的な雰囲気の、物静かなマダムだった。ひとりでカミーノを歩いている女性はたくさんいたが、彼女はちょっと独特なムードで興味を惹かれた。

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Miwakoとはいつしか、かなりの距離があいてしまった。これは仕方のないことだ。上り坂におけるMiwakoの遅さは、人類の常識を超えており、歩調を合わせていると日射病で共倒れになる危険性があった。

熊野古道女子部の部長である、スーパーガールのツキジさんなら、Miwakoに寄り添って歩いてくれただろう。しかし我々は凡人であるがゆえ、さっさと先に頂上にたどり着いてしまった。

3年前の同じ5月に見た光景とは、まるで違っていた。視界を真っ白に覆っていた濃霧は、影も形もない。青い空に雲がぽっかりと浮かんで、魔法が解けたあとの世界のようだった。巡礼者を試す悪魔は、今日は非番なのかもしれない。

地を這うカタツムリのように、Miwakoが下からゆっくりと登ってくるのが見えた。思ったより早い到着で良かった。強い風にあおられながら、巡礼者の銅板モニュメントと一緒に、お約束の記念撮影をした。

9 ペルドン峠2019年9月

ちなみに──3年前、井島カメラマンに撮ってもらった実に数百枚の写真の中から、このモニュメントが選ばれて本の表紙を飾った。心象風景のようで、とても気に入っている。
(その後、旧版に続いて2020年に発売された新装版でも同じ写真を使っている)

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峠の上から眺めている分には、幻想的で美しい風景である。しかし、ひとたびここを下るとなると、地獄の苦しみが始まるのだった。「下りだから楽」という考えは、まったく通用しない。急勾配の砂利道のうえに、やたらと大きな石がごろごろしていて、本当に地獄を歩いているようだ。そんな道が3kmあまりも続く。

油断すると砂利で滑ってしまいそうで、気が抜けない。ストックを小刻みに動かして痛む足首をかばいながら、さくらちゃんと私は、とにかく足元にだけ集中して必死で下った。

後ろを振り返ったときには、Miwakoの姿はもう見えなくなっていた。ここでしばらく待つのが、友達というものなのだろうが、足場の悪さを考えると、なかなか難しい状況であった。

私たちは目配せし合い、Miwakoを置いて先へ進むことに決めた。ピレネーに劣らぬ難所ではあるが、周りに人もたくさんいるし、遭難する可能性は限りなく低い。もちろんゼロではないのだが、許せミワコ……

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何度も石に足を取られながら、どうにかふもとにたどり着く頃には、足首の痛みは限界に達していた。ほっそりした脚に華奢な足首は、女性としては美点かもしれないが、巡礼者としては決定的に不利である。ということを、私たちは思い知った。

もう一歩も歩けない……と思ったとき、ウテルガ村のバルの看板が見えてきた。広い前庭がテラス席になっていて、巡礼者でにぎわっている。柵のところに黄色い矢印がいっぱいディスプレイされ、おいでおいでと私たちを手招きしていた。

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矢印の誘いのまま、私たちはバルに吸い込まれた。テラス席で重たいトレッキングシューズを脱ぎ、足を解放した。

さすがのさくらちゃんも、ちょっと疲れた顔だった。私はというと、椅子にへたり込んで、魚のように口をパクパクさせていた。何か飲みたかったが、カウンターに注文しに行く力も残っていなかった。

結局、さくらちゃんが二人分の生ビールを運んできてくれた。今夜の宿、プエンテ・ラ・レイナまではあと8.5kmだ。ここでフライングしてビールを飲んでも、構わないだろう。

悪魔がいたかどうかは別として、地獄のような峠を越えたあとの一杯は、まさに天の恵みだった。私たちは喉を鳴らして飲み、すっかり楽しい気分になっていた。

インスタに上げたいと言われて、バルのおねえさんと皆地笠(みなちがさ)で写真を撮ったりもした。

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「巡礼サイコー! やっぱ楽しまなくちゃだね」さくらちゃんのいつもの調子が戻ってきた。

周りを見渡すと、どのテーブルでもビールを飲んでいる。ベネズエラファミリーや、ハイカさんの姿もあった。みんながそれぞれ、峠越えの無事を喜び、巡礼を楽しんでいた。

何か忘れているような気がする。

さくらちゃんのリュックのポケットから、はらりと紙が一枚落ちた。昨日の教会でもらった「巡礼者の垂訓」だった。2番目の垂訓を、彼女は読み上げた。

巡礼者は幸いである。あなたが最も気にしていることが、ただたどり着くことではなく、他の人と一緒に目的地にたどり着くことであるならば。

私たちは、気まずそうに顔を見合わせた。友を地獄に置き去りにして、お茶ならまだしも、ビールを飲んでいるのはいかがなものか……?

証拠隠滅のため、慌ててグラスを片付けようと立ち上がった私は、ほどいた靴紐を踏んでよろけた。さくらちゃんが咄嗟に支えてくれて、危うく転倒は免れた。

ふと通りに目をやると、Miwakoがゆっくりと、バルの前を通り過ぎていくところだった。ストックに全体重をかけ、安定のカタツムリ歩行だ。

「ミワコさーん、足は痛くない? ここで休憩しようよ」さくらちゃんが呼びかけたが、Miwakoはにっこり笑って首を振った。「私、遅くて迷惑かけちゃうから、先に行くね。お二人はゆっくりしてて」

土ぼこりの中を、Miwakoはゆっくりゆっくり遠ざかって行った。遅いけれど、足が痛そうには見えなかった。地獄のぺルドン峠も、Miwakoにダメージを与えることはできなかったようだ。

ウサギたちがビールを飲んでいる間に、カメが追い越してゆく。カミーノでのイソップ寓話のひとコマであった。

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せっかくのMiwakoの申し出だ。さらに20分ほど休んでから、ウサギチームはようやく腰を上げた。足首はかなり復活した気がする。少し速足で歩き、2.5km先のムルサーバルの集落で、Miwakoに追いついた。地図にはカフェマークがあるのに、バルはどこにも見当たらなかった。日差しを遮る木陰もない。

仕方がない。次のオーバノスまで続けて歩いた。さっきより大きな集落だったが、やはりバルはない。ゴーストタウンのように誰もいなかった。地図によると、バルが数軒あるはずなのだが……もしかして、私たちにだけ見えていないのだろうか? ぺルドン峠の魔法が、今ごろ時間差で発動しているのだろうか?

そういえば、シスル・メノールで簡単な朝食をとって以来、何も食べていなかった。急に激しい空腹が襲ってきた。

いつもはお菓子や果物がリュックに入っているのだが、今日に限って何も持っていなかった。峠越えに備えて、荷物を軽くしたのだ。さくらちゃんも同様で、ウサギチームは、公園のベンチにガックリと座り込んだ。

はい、とMiwakoが差し出してくれたのは、どら焼きだった。羽田空港でイズミちゃんがくれた、岡埜栄泉の高級どら焼き。私もさくらちゃんも、自分の分はとっくに食べてしまっていた。

「ぺルドン越えたら、みんなで食べようと思って。1個だけとっておいたんだよね」Miwakoはニコニコしながら、貴重などら焼きを3つに分けて、私たちに配ってくれた。友を置き去りにした、私たちなのに。

ひと気のない公園のベンチで、三羽ガラス並んで、三等分されたどら焼きを食べた。粒あんのやわらかい甘さが、疲れた体をよみがえらせていく。

心優しいナバーラ王妃がかけた橋のある、プエンテ・ラ・レイナまではあと3km。巡礼者の垂訓が教える通り、三人一緒に歩いて、目的地にたどり着こうと思った。

春のカミーノ⑨ に続く)

なんだかんだ書きましたが、ペルドン峠、おすすめです。ぜひ挑戦を!
¡Hasta luego!(アスタ ルエゴ またね)

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◆Miwakoの新作CD「梛の木」「Camino」はこちらで購入できます。
熊野古道女子部 公式ショップ

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◆新装版が発売となりました!
スペイン サンティアゴ巡礼の道 聖地をめざす旅』(髙森玲子著 実業之日本社刊)

カバー

春のカミーノ⑨ に続く)

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