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小説『ある熟年夫婦の場合』

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妻が離婚の準備をしていることに気づいた誠一は、どうにか思いとどまってもらおうと、ブログにメールを送る。 ある熟年夫婦が再生する話。
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♯小説 自分には何もない

♯小説 自分には何もない

それからどれくらい時間が経っただろうか。
時計塔の時報が鳴った。
公園に来てから、まだ1時間も経っていなかった。
誠一は今まで時間を持て余したことはなかったことがどんなに幸せなことか気づいた。

スマホが鳴った。
無意識の習慣というのは不思議なものだ。
誠一は自分がスマホを持ったことを覚えていなかった。
幸恵からだった。
そして幸恵からの着信が並んでいた。
誠一は嫌な予感がした。
幸恵に連絡を返し

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♯小説44 後悔というには大袈裟な感情

♯小説44 後悔というには大袈裟な感情

誠一が無意識に向かった店はベローチェだった。
誠一は危うく店の中に入るところだった。
慌てて引き返した。

誠一はもはや自分が何を望み、何を拒んでいるのか、分からなかった。
何かがそうではなくなった時、身体がそれに慣れるまでは時間がかかるということなのだろうか。
まるで心や感情と身体が独立して存在しているようだった。
自分まで信頼できないとなると、これから何を信じて生きればいいのだろうか。
誠一は

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♯小説43 それが生きるということ

♯小説43 それが生きるということ

誠一はふと自分の手元を見た。
「蚊に刺され」の痕だった。
それはきっと2日前に祥子と出掛けた時に刺されたものだろう。
痒みはもうなかったが、掻きむしっていた痕があった。
眠たい。
誠一は逆らうことができないような眠気に襲われた。
そのまま目の前にあったリビングのソファに横たわった。

どれほど時間が経っただろうか。
電話の着信音で目が覚めた。
時計は15時を指していた。
誠一は無意識に会社に何て言

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♯小説42 嫌悪感という類

♯小説42 嫌悪感という類

あれから、どれ程時間が経っただろうか。
誠一はまだそこにいた。
祥子がいたのは、2日も前のことになる。

誠一は誰もいない部屋を見渡した。
あまりに部屋が広く感じられた。
そしてその理由は考えるようなことではないことを誠一は知っていた。
あれは、あの幸せを失う程のことだったのだろうか。
誠一は祥子を想った。
祥子というよりも、一緒にいるのが当たり前だと信じていたことを思い出した。
そしてあの感覚が

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♯小説41 決して縮まることのない距離

♯小説41 決して縮まることのない距離

「もういいよ」

誠一は気づいたらそう言葉を発していた。
祥子がこれ以上話さなくても、なんとなく祥子がしたことが分かった。
祥子や横山、そして幸恵も含め、みんな知っていたのだ。
そして知っていながら、誠一に知らないように振る舞っていた。
目的は、祥子と横山が結ばれることなのだろう。
みんながみんな力を合わせて、誠一に嘘をついていたのだ。

誰が何を考え、どう振る舞おうとしたのか。
そんなことを知っ

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♯小説40 そんなつもりはなかった

♯小説40 そんなつもりはなかった

「話さなくてもいい」という誠一の言葉に抗うように、祥子は、言葉を続けた。
誠一には祥子が無理をしてまで誠一に伝えようとする理由が分からなかった。

「そんなつもりはなかった」

誠一は、そんな言葉を聞きたかったわけではなかった。
嘘でもいいから、傍にいて、嘘でもいいから、時々笑ってくれるだけでよかった。
嘘でもいい。
それはもしかしたら無理をしているのかもしれない。
でも本当だった。
祥子を失うこ

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♯小説39 近いのに遠い場所

♯小説39 近いのに遠い場所

祥子は誠一に手を伸ばしてきた。
誠一は、突然すぎて、不意にその手を避けてしまった。
次の瞬間、誠一は祥子が誠一の髪についたゴミを取ろうとしてくれたようだと気づいた。
でもその時にはもう遅かった。
祥子が誠一を見る目がさっきと違った。

「どうして?」

その祥子の言葉に誠一は言い訳がましいことしか言えなかった。
元来、誠一は人に触れられるのが苦手なのだ。
それは生まれつきと言うか、自分でどうにか克

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♯小説38 その優しさの意味

♯小説38 その優しさの意味

祥子はまだ何か隠しているようだった。
でもその秘密についてはどうしても話し難いようだった。
誠一は無理に話さなくていいと祥子に言った。

その優しさは祥子に向けたつもりだったが、もしかしたら他の誰かに向けられた優しさでもあったのかもしれない。
誠一はその秘密が何か分からなかったから、自分の優しさがどんな意味を持つのかさえ自信がなかった。

祥子はひどく後悔しているようだった。
でもその後悔が何に対

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♯小説37 夫婦って何だろう

♯小説37 夫婦って何だろう

日常と言うのは簡単にひっくり返ってしまうものだ。
さっきまで、自分が信じていた日常が、実は違ったとしたら、何を信じればいいのだろうか。
誠一は祥子が祥子の言葉で話せるまで待った。
そして祥子はついに言葉を発した。

誠一が想像していたよりも、誠一も祥子も感情的にはならなかった。
きっと祥子ではない他の誰かが発した言葉であれば、それは感情的なものとなっただろう。
でももう祥子の言葉すらも疑うようにな

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♯小説36 知りたくない

♯小説36 知りたくない

「ごめんなさい」

それは唐突過ぎた。
なぜかその言葉で、誠一はさっきまで幸せだった自分にはもう二度と戻れないことを悟った。
何に対しての謝罪かは分からない。
でもただの謝罪ではないことは明らかだった。
それはその言葉を発した祥子自身が自分の発した言葉に驚いていたからだった。
その様子だと、祥子自身、なぜこの言葉を自分が発してしまったか、よくわかっていないのかもしれない。
でもそれは何でもないと誤

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♯小説35 確かなこと

♯小説35 確かなこと

祥子は美味しそうに手羽を食べていたが、二口食べて、また誠一にその食べかけの手羽を差し出した。
目の前に差し出された、その祥子の食べかけの手羽に誠一は迷って、食らいついた。
なんだか自分らしくなくて笑ってしまった。
祥子も笑っていた。
もし二人があともう少し若かったら、もっと仲良くしてもいいかもしれないが、さすがにそこまでしたら笑えない。
それを考えると、30年以上も一緒にいて、変わらないものがある

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♯小説34 いつも求めてばかりいた

♯小説34 いつも求めてばかりいた

ケンタッキーは20分もしないうちに届いた。

でも届いたものは当時のあれとは違った。
誠一は急に不安になった。
30年以上も前のことだ。
同じ商品がなかったのだろう。
誠一は無理やりそう自分に言い聞かせた。
そもそも誠一は特に何か食べたいものがあったわけではないのだ。
だから当時食べたかったものがあってもなくても、とくに問題はなかった。
ただ誠一の違和感がさっきまで幸せだった誠一を変えてしまった。

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♯小説33 心地がいい無言

♯小説33 心地がいい無言

誠一は恥ずかしさを振り払うように時計を見た。
時計は17時をまわっていた。

「ケンタッキーにしない?」

そう祥子が誠一に話した。
それは誠一の好きな食べ物だった。
でもいつ食べたか覚えていないくらいそれは食べていなかった。
もしかしたら子どもが生まれて以来、一度も食べていないかもしれない。
子どもである幸恵の栄養を考え、いつの間にかケンタッキーと言う選択肢はなくなっていた。
最近も、幸恵は、太

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♯小説32 大事なことは言葉にしたくなかった

♯小説32 大事なことは言葉にしたくなかった

適当に歩いて来たのに、帰りは何となくでもしっかり家の方に向かっていた。
そしてついに家に着いた時、一緒に家に入ったのに、もう二度と祥子に会えないような寂しさを感じた。
なぜこれから横山に会うのか分からなかった。
それを決めたのは、誠一自身だったが、誠一はまるで他人事のように感じていた。
スマホを見ると、横山はまだラインを見ていないようだった。
既読にはなっていない。
誠一は「送信取り消し」の表示を

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