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綺麗な物語の是非

――世界が綺麗だって言ってもいいじゃん。夢は報われるし、終わらない恋もある。そんな綺麗な言葉を、綺麗事で片づけたくない。


人生は物語。
どうも横山黎です。

今回は「綺麗な物語の是非」というテーマで話していこうと思います。


◆文学の教授からの感想

先日、『Message』という小説を出版しました。

成人の日の夜に亡くなった青年の遺した「110」というダイイングメッセージの謎を解くヒューマンミステリーです。僕の20年分の思いを込めた力作です。現在期間限定で無料公開中ですので、是非以下の記事を覗いてみてください。


まだ何者でもない作家の作品なんて普通見つけてくれないので、小説『Message』を一人でも多くの人に届けるために、毎日誰かに手売りしています。

先週、大学の文学の授業の後に、その授業の教授が2冊買ってくれました。それから一週間が経った昨日、教授が感想を伝えてくれたのです。

今回はそれについていろいろ思うことがあったので、まとめていきますね。

大きく分けて2つのことを言われました。

1、「綺麗である」
2、「続編の方が気になる」


◆「綺麗な文章」の是非


さて、まずは「綺麗である」という話ですが、これは褒め言葉でもあり問題点でもあります。

教授から「詩のような文章」と言われましたが、僕の文章はそういう側面を持っていると自分でも思います。

中学時代からめちゃくちゃ詩(歌詞)をつくっていたので、ありふれたものでもその切り取り方で特別に見せる術を身につけることができました。小説もそんな風に言葉を選んでいるので、教授からの言葉も頷けます。

それについて、僕は好意的に受け取りました。それが僕の文章の持つ個性でもあり、それを好いてくれる人は少なくないからです。「この人の文章が好き!」と思われれば、「次回作も読もう!」という気になります。どんな物語か分からなくとも、「文章が好きだから」を理由に手に取ることは珍しくありません。作り手からしても嬉しいことなのです。

さて、それでは「綺麗である」が問題点とはどういうことでしょう?



◆「綺麗な物語」の是非


教授いわく、「読者」は「悩みを持っているから本を読む」わけであって、「物語」に求められるのは、「葛藤からの解放」や「挫折からの成長」など、主体の変化です。

小説『Message』は、三人称一元視点をとっていて、すなわちひとりの人物にスポットライトをあてて書いています。章ごとに、息子、母親、父親、息子の幼馴染という4人の人物にスポットライトがあたります。

序章と終章が息子の物語なので、主人公が息子と捉えられがちなんですが、そうすると、主体の変化が描かれないんですよね。回想はするけれど、葛藤から解放されるわけじゃないし、挫折から成長するわけでもありません。「110」というダイイングメッセージの謎の解明するための役割は担っているので重要どころではありますが、「物語」においても同じことがいえるかといわれればそうではないんですよね。


教授が求めていたのはきっと、罪とは何か、死とは何か、愛とは何か、など人間の根源的な疑問について考えさせられる物語で、綺麗か汚いかでいわれれば汚い要素だったのではないでしょうか。


誤解を恐れずいいますが、僕は世界の綺麗なところばかりを生きてきた人です。それは環境が良かったんだと思います。だから、僕は人より世界が綺麗に見えるし、人間が美しく見えると分析しているんです。

だからきっとそんな僕が書く物語は綺麗になりすぎてしまうのかなあ、、、実はいわゆる「文学」とか「物語」とは遠いものを書いているのかなあ、、、なんて思ったりしてしまいました。



でもね。

世界が綺麗だって言ってもいいじゃん。

夢は報われるし、終わらない恋もある。

そんな綺麗な言葉を、綺麗事で片づけたくない。


僕はこれからも自分のフィルターを通して知覚したことを言葉にしていくし、それを出来る限り100%伝えたいから表現を探っていきます。実際、僕の文章が好きと言ってくれる人はちゃんといます。その言葉をひとつ拠り所にして、これからも自分の物語を綴っていこうと思います。


明日は教授からのもう一つの指摘「続編の方が気になる」について話していこうと思います。


最後まで読んで下さりありがとうございました。

20220723 横山黎


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