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教育で自己責任を持ち出すのは諦めだよね。

こんにちは、ビルドフォースRedです。

イベントまちづくり会社に勤務しながら、
任意団体でイベントを開催し、地域のお祭り協力などしています。

今日は、
教育で自己責任を持ち出すのは諦めだよね。
というテーマでお話しさせて頂きます。


1.意欲と創造性を育める社会なのか。

NPO法人カタリバさんの活動背景にある言葉が目にとまりました。https://www.katariba.or.jp/outline/reason/

どんな環境に生まれ育っても意欲と創造性を育める社会か。

「いまの若者は…」という言葉は、あまり僕の周りでは聞きませんが、
それでも社会人になって振り返ると「自己責任」というものが強く求められ続けているのを感じます。

ですが、これ。
教育まで及んでいたりはしないだろうか。

2.線引きだけの自己責任は面白くない。

自己責任は、「自分の起こした行動の責任を自らとる」
という意味で書かれていますが、これが起こるパターンとして2つあると思っています。

①主体的な自己決定がもとになって生まれるパターン
②予期される危機リスクをだれがとるかの線引きパターン

①のパターンは、
自ら行動する内容を自分事として受け止め、主体的に責任を果たすこと
「部活動に入部して、その中の役割を”自ら”全うする」イメージ。

②は、予測されることリスクを誰が責任を持つかの線引きです。
よくある「勉強しなかったら苦労するのは貴方だよ」の裏に隠された自己責任でもあると思います。

どちらが良い悪いではなく、
使い方を一緒にしてしまうと意図しない方向に物事が進む場合がありそうですよね。


(先に言っておくと、自身のストレスコントロールのために使うときの自己責任の話ではありませんからね!)

肌感でしかありませんが②の使われ方が多い気がします。
それが必ずしも要因の全部とはいいませんが、きっと関係していますよね。(政治、メディア、社会、などなど)

②予期される危機リスクをだれがとるか。
という前提が起点となった話は好きじゃない。面白くなければ成長もない。


3.「あげる、してあげる」は、そもそも違う

共に学び考え進まずして、成長はない。

これは僕の経験と、周りの方々をみての持論です。

教育環境を提供するほとんどが、教育を享受する人の先人だと思います。
その中でも繊細で多感な時期であればあるほど複雑で重要です。


そして尚且つ、
教育のきっかけ(環境)は、伴走がスタートする瞬間でしかない。

教育環境を提供する先人の心構えとして、
教育は与えるものではなく、共に学び考え、継続して歩むべきものですよね。

教師でイメージすることが多いかもしれませんが、
それは上司や親も同じはずです。


この僕の根底にあるマインドとしては、

「あげる、してあげる」といった現場での
上から目線を一切取り除き、現地で人々を心から尊敬する

アジア各国の貧困地域支援を行う
NPO法人アジアチャイルドサポート池間哲郎さんの講演で話されていたことが強く根付いています。


決して甘やかすということではなく、
双方向の関係性かつ相手を尊重し、互いに影響することが大切だと信じています。

と・は・い・う・も・の・の
大口叩いてはいますが勉強の身です(笑)


それでも、私も日々の仕事や活動を通して、
排他的な自己責任ではなく、自他共に”教育”という部分で社会に貢献できないかを向き合いながら歩み続けます。

というわけで今回は、
教育で自己責任を持ち出すのは諦めだよね。
というテーマでお話しさせて頂きました。


今日の僕からは以上です〜!
一緒にがんばりましょう^o^/*

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