「半自伝的エッセイ(35)」2本の百合
百合ちゃんが亡くなってから三年か四年後ぐらいのことだった。百合ちゃんの、つまり私の義理の父が亡くなった。私はその頃、理由はよく憶えていないのだが、なぜか多忙で、義理のお母さんが無理をしなくていいと言ってくれた言葉に甘えて、通夜にも葬儀にも不義理をした。実際、同じ関東圏とはいえ、仕事を休まないではいけない土地でもあった。
せめて心ばかりの義理を果たすべく、義父が亡くなった半年後のあたりに私は百合ちゃんの実家に足を運んだ。あらかじめ行くことを電話で伝えておいたからに違いないが、義理のお母さんが手料理の皿をテーブルから溢れんばかりに用意してくれていた。墓参りを済ませてから、テーブルに着いた。百合ちゃんもそのお墓に入っていた。
しばらくの間、義理のお母さんからビールを注いでもらい、手料理に舌鼓を打っていた。近況などを報告しあったりしながら。
「あなた、あの人の書斎に入ったことあったかしら?」お母さんの言うあの人とは義父のことだった。
「いや、ないです」
私が百合ちゃんの実家に来たのは結婚の挨拶を含めてこれが確か三回目ぐらいであって、義父の書斎の存在などもとより知らなかった。
「ちょっと、来て」という義理のお母さんについて義父の書斎に入った。そこは十二畳ほどの洋間で、三方の壁に天井まで届く書棚が設られていた。どの棚もびっしりと本で埋まっていた。部屋の中央に大きなデスクがあった。義父は地方の会社のそれなりの立場の人であったが、こんなに立派な書斎を持っていたとは想像していなかった。知的な人だという印象はあったが、百合ちゃんからもほとんどなにも義父については聞かされていなかったので、意外ではあった。
「よかったら、好きな本を持って行って」と義理のお母さんは言って、部屋を出ていった。
一人部屋に残された私は、端から書棚を見ていった。ぱっと見て、日本語の本は代数や幾何や物理の本であった。洋書は知らない言語の本も含めて、やはりその分野の本らしかった。らしかったというのは、ページをめくると数式や図形が目に入ったからである。時折気になった本を手に取ったりしながら、書棚の前を移動していたら、ある一画がチェスの本であった。ここで私の足が止まった。百合ちゃんがチェスをやっていたのは義父の影響だったのか。
それはおそらくなんの不思議でもない。しかし、次に私の目に飛び込んできたのは、ポーランド語であった。なぜそれが私が知りもしないポーランド語の本であるかとすぐにわかったかといえば、百合ちゃんとポーランドに行く前に、一応は挨拶ぐらいはと考え、百合ちゃんから『ポーランド語会話、これ一冊』みたいな本を借りて、ちょっとだけ勉強したからである。
私はその本を手に取った。ページをめくっていった。ポーランド語がわからないからはっきりしたことは不明であったが、符号や図を見る限り、どうやらチェスの上級者向けの本らしかった。ここで私の頭にはなにかが引っかかった。百合ちゃんはかなりのチェスの指し手であった。加えて、ポーランドの大学に留学までした。なにかが繋がったようでもあり、謎が加わったようでもあり、私はどこか居心地の悪い気持ちになった。百合ちゃんとチェスとポーランドには、私の知らないなにかがあったのではないだろうか。
そこからはもう書棚を見る気がなくなった。私はそのポーランド語のチェスの本を手にして、義父の書斎から出た。居間に戻ると、お母さんが自分で作った煮物を食べていた。私が戻ってきたのを見て、「やっぱり、その本、見つけたのね」と言った。
「見つけてもらいたかったの」とお母さんは重ねて言った。
「どうしてですか?」私は尋ねた。
お母さんの話は私が想像だにしなかったものだった。
義父は大学院生の時に、ドイツに留学した。留学先の大学にポーランドから来た女の子がいた。義父はその女の子と親密な関係になった。女の子は義父の子供をお腹に宿した。しかし、その当時の政治体制などその他複雑な理由で、女の子には義父と結婚して子供を産むという選択は難しかった。しかし、その女の子はどうしても義父の子供を産みたいと願った。義父も子供を見たかった。そこで義父はその女の子を日本に連れてきて出産させた。義父は産まれた女児を一人で育てることにした。女児の母親となった女の子はドイツ、そしてその後ポーランドに戻らなければいけなかった。一女の父親にして唯一の保護者となった義父は日本の大学に戻ったものの、勉学と育児の両立で困憊していた。それを、当時大学生だったお母さんが見かねて助け舟を出した。助け舟というような生やさしいものではなく、お母さんは二人を引き受けることにした。つまり、義父と結婚し、その女の子を自分の子供として育てることにしたのだった。お母さんは義父に勉学を続けてもらいたかったし、ぜひそうしてくれと何度も説得したのだったが、義父は義理堅いというのか、お母さんの献身に報いるためなのか、その両方であったのか、大学を辞めて就職した。
そこまでをほとんど一息に話したお母さんを見て、私はひとつとても不思議だった。百合ちゃんがその話のとおり、義父とポーランド人の女の子の子供だとして、なぜ百合ちゃんはお母さん、ここでいうお母さんとは私の目の前にいる日本のお母さんのことなのだが、とよく似ているのだろうか? たしかに百合ちゃんは肌が透き通るように白く、それはけっして東洋的特徴とはいえなかったが、顔つきはどこから見ても東洋的であり、黒髪が美しい女性だった。私はその疑問を率直に口にした。
「そうよね、不思議よね。ずっと一緒に暮らすと似てくるのかしらね」とお母さんはあまり不思議でもなさそうに言った。「でもね、百合がポーランドに留学すると聞いた時、ああ、知ってるんだなって」そう言うとお母さんは立ち上がり、どこかに消えた。戻ってきた時には手になにかを持っていた。
「これ」と言ってお母さんは封書を私に差し出した。エアメールだった。開封されていなかった。
「百合がポーランドから帰ってきて、ちょうどあなたと籍を入れたぐらいのことだったかしら。それが郵便受けに入っていたの」
封筒の表を見ると、お母さん宛だった。切手はポーランドのものだった。
「その手紙が来たことはあの人にも百合にも言ってないの。なんだか怖くて開けられずにそのまま。あなたが開けてくれない?」
私はその封書を開けた。中からは薄い便箋が出てきた。開くと英語だった。
私は百合ちゃんの生物学上の母親の手紙をところどころ詰まりながら日本語にしてお母さんに読み聞かせた。
「あの子が亡くなったことを知らないのね」と言ってお母さんはエプロンの裾を目頭に当てた。
私は自宅に戻ってから一週間ほどをかけて、百合ちゃんが亡くなったこと、あと何ヶ月かで母親になったこと、チェスがとても強かったこと、タカシも亡くなったこと、ぜひ日本に来てほしいこと、それらのことを拙い英語で書いて、百合ちゃんの生物学上の母親に送った。
(この回終わり)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?