レーチカ

大学時代からロシア文学が好きです。特にプーシキンが好きです。ユーリー・ロトマンがプーシ…

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大学時代からロシア文学が好きです。特にプーシキンが好きです。ユーリー・ロトマンがプーシキンの人生とその作品について書いた伝記を翻訳していきたいと思います。よろしくお願いします。

マガジン

  • アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン 作家の伝記

    ユーリ・ミハイロヴィチ・ロトマンによるプーシキンの伝記を少しずつ訳したものをまとめました。序章から第9章まであります。

  • 6月はプーシキンの詩

    1799年6月6日はプーシキンの誕生日です。6月はプーシキンの短い詩を訳します。

最近の記事

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉔

 この時期に詩人が作った政治的な抒情詩は、デカブリストのサークルにおける彼の特別な立場を確実なものにした。《短剣》、《ナポレオン》、《忠実なギリシアの女よ!泣いてはいけない、 ― 彼は英雄として死んだのだ…》、といった数々の詩は、プーシキンと政治的陰謀の参加者たちとの緊密なつながりを表していた。しかし、これについてより大規模に語られたのは、В.Л.ダヴィドフへの書簡(《その一方でオルロフ将官は…》)、あるいは将官プーシンへの書簡(《煙を、血の海を、矢の雨を通り抜けて》)であっ

    • プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉓

       特筆すべきは、オルロフの家でプーシキンが永久平和について説いていたまさにこの日々に、彼は詩《戦争》を書いたということである。詩はこの言葉でしめくくられている:《最初の戦いはまだはじまっていないのだろうか?》(II,1,167)。革命的な戦争(この当時の場合、ギリシア人解放のための戦争)は、プーシキンにとって世界を否定するものではなく、唯一の実現可能な戦争根絶への道であった。オルロフにとっては(ほかの多くのデカブリストたちと同じように)、自由は、18世紀のフランス革命と同様に

      • 「漁師と魚の話」について

         「漁師と魚の話」は1833年秋に執筆され、1835年に出版されました。原文の注釈によると、この民話は、様々な民族に広く流布している、富と権力への欲求を罰せられる老婆についての民話の、完全にプーシキン独自の変異型です。この筋立てをもつロシア民話では、老人と老婆が森の中で暮らしていて、老婆の望みを奇跡の木が、あるいは小鳥が、あるいは聖人などがかなえます。プーシキンはドイツの民話を利用しました。ドイツの民話では、出来事は海辺で起こり、老人は漁師で、すべての望みのかなえる役として登

        • 漁師と魚の話③(完)

           お爺さんは青い海へ出かけていった; (青い海は穏やかではない。) 金の魚を呼びだすと、 魚は彼のもとへ泳ぎついて、たずねた: 《なんの用でしょう、お爺さん?》 お爺さんは魚にお辞儀をして答えた: 《憐れんでおくれ、魚の女王! 婆さんは前より一層 腹をたてて、 わしはうるさくてたまらない: もう農婦でいたくないんだと、 名門の貴族夫人になりたいんだと》。 金の魚はこう答えた: 《悲しむのはやめて、さあ行きなさい》。  お爺さんはお婆さんのもとへ帰った。 すると彼が見たものは

        プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉔

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        • アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン 作家の伝記
          64本
        • 6月はプーシキンの詩
          16本

        記事

          漁師と魚の話②

           お爺さんはお婆さんのもとへ帰り、 とんでもなく不思議な出来事を話した。 《わしは今日 魚をとったが、 ふつうのではない、金の魚だった; わしらと同じことばで魚はしゃべり、 故郷の青い海へ帰りたがり、 高価な身代を払うと言った: 望むものはなんでもやると。 わしは魚から身代を取る勇気がなかった; それで 魚を青い海へ放してやった》。 お婆さんはお爺さんをののしった: 《あんたはばかだね、まぬけだよ! 魚から身代を取れなかったなんて! せめて魚から桶を取ってくればよかったものを

          漁師と魚の話②

          漁師と魚の話①

             漁師と魚の話   お爺さんがお婆さんと住んでいた。 青い海のすぐそばに; ふたりは古びた土小屋に ちょうど三十と三年住んでいた。 お爺さんは網で魚をとり、 お婆さんは糸をつむいでいた。 ある時 お爺さんは海へ網をなげこむと、―  網は藻を一つ ひっかけた。 二度目に網をなげこむと、― 網は海草をひっかけた。 三度目に網をなげこむと、― 網は魚を一匹ひっかけた、 ふつうの魚ではない、― 金色の。 金の魚が嘆願している! 人の声でこう言った: 《どうか、お爺さん、わたしを海

          漁師と魚の話①

          明日はプーシキン生誕225周年です。

          1799年6月6日は、プーシキンの誕生日です。 明日から9日まで、ロシア連邦プスコフ州にある、国立記念プーシキン保護区域博物館《ミハイロフスコエ》で、 「プーシキンの詩とロシアの文化の記念日 第63回全ロシアプーシキンの詩の祭典」が開催されます。 この祭典のタイトルを読んで、ロシア人にとってプーシキンはやっぱり、絶対的に詩人なんだな、とあらためて思いました。つまりロシア人には、プーシキンの詩のことばは直接胸にとどいて、心がぶるぶるっと震えるんだろうなあと思いました。私にはそれ

          明日はプーシキン生誕225周年です。

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉒

          オルロフの妻、エカテリーナ・ニコラエヴナは1821年11月23日、弟А.Н.ラエーフスキイに書いている:《私たちは非常にしばしばプーシキンに会います、彼はありとあらゆる事柄について夫と議論をするためにやって来ます。彼の今のお気に入りの話題は ― サン=ピエール師の永久平和についてです。彼は確信しています、政府は、より完全なものになりつつ、だんだんと永久不変的な世界を確立する、その時には、強い意志と情熱、進取の気性をもつ人々の血だけは流されないだろう、彼らを今私たちは偉大なる人

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉒

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉑

          オルロフは、デカブリストから成るロシア騎士団 ― 決断力ある行動戦術を目標とした組織の参加者であった。本来、彼は遠く離れた国境ではなく、モスクワ近くの師団を与えられることを期待していた。《もし私が師団を得られるなら、ニージニィ・ノヴゴロドだろうとヤロスラヴリだろうと、どんな違いがあるだろうか。私は水を得た魚のようなものだ》。オルロフはこれらの都市にはどこでも拠り所となる基地をもっていたので、その時期に国内の軍隊をほとんど持っていないモスクワへ、十分現実的な行軍プランを立てるこ

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉑

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑳

          まさにこれらの出来事が、おそらく、ぺステリがキシニョフにやって来た理由であった。プーシキンはこの時ぺステリと、《形而上学的、政治的、道徳的、等々の会話》をした。《彼は、私が知っている最も独創的な知性ある人々のうちの一人だ》(XII,303)、 ― 詩人はこのようにキシニョフでの日記に書き留めた。ぺステリとともに彼は、おそらく、ギリシア人の蜂起の指導者たちとの交渉に参加することを引き受けた。何年も経った1833年に、プーシキンはぺステリの外交活動の非常に興味深い詳細を日記に書き

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑳

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑲

           プーシキンがキシニョフでおかれた状況は、何よりもまず活動状況がペテルブルクとは違っていた。その時代の南ヨーロッパ:スペイン、ギリシア、ナポリ、ピエモンテ州 ― を揺るがしていた革命の反響が、はるかに直接的にここに達していた。その一方で1821年1月、Т.ウラジミレスクの指揮のもとトルコ領モルダヴィアで蜂起が勃発し、そのすぐ後の2月22日、ロシア軍の将官であり、モルダヴィアの統治者の息子であるギリシア人А.イプシランティがプルト川 ― ロシアとトルコ領モルダヴィアとの境界-を

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑲

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑱

          しかしながら極めて巨額の売上金からプーシキンはほとんどなにも受け取れなかった。過分な分け前は出版者のН.И.グネージチの手に渡ったのだ。一部の研究者はグネージチを非良心的であると非難する向きがある¹。しかしその時代の認識では、グネージチは非難に値するようなことはしていなかった。文学の所有権という概念は、当時は存在しなかった、またあらゆる詩選集の出版者は、死んでいる詩人の詩だけではなく生きている詩人の詩に対する売上金も、平然とポケットにしまっていた。出版の仕事は《卑しい》ので、

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑱

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑰

           しかし詩人の文学との関係はまた、ロマン主義の理想と要求とは強烈に対象をなしている、もう一つの側面を持っていた。プーシキンは切実に金を必要としていた:取るに足らぬ地位の俸給はわずかで、父は事実上、物質的援助を拒否した(父の古い幾つかの燕尾服をキシニョフへ送るというような滑稽な援助は、長く続く文通を招いたに過ぎない)。そのうちに、プーシキンの詩の人気と、詩の出版に対する読者の需要の急速な高まりが、かなりの報酬をもたらしうるということが明らかになった。  しかしながらこの途上には

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑰

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑯

           しかしさらに多くの疑問がのちに生じている:プーシキンはこの女性の一つの思いを全読書界の意見よりも大切にしている、という言葉は、こみ上げるような誠実さをもって響いている。彼女の名前は、自分の名を夕べの星と呼んでいるこの《若い乙女》が ― プーシキンの《秘められた愛》の対象となる役として最も推定できる候補者である以上、当然ながら、伝記作家たちの興味を引いた。ここでは、グルズーフでのエレジーのなかでラエーフスキイ家の令嬢たち、あるいはラエーフスキイ家の妻たちのうちの一人について触

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑯

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑮

          1821年から1823年におけるプーシキンは、このテーマに対して皮肉な態度を取ることなど毛頭なかった。むしろ、彼はきわめて積極的に、自分の叙情性や、光輪輝く人格の神秘性や、秘められた情熱をほのめかす内容の創作に取り組んだ。この時期の彼は読者との皮肉な戯れに、また時には、あからさまに人を煙に巻くことに関心がないわけではなかった。 秘められた愛のテーマは 《クリミア》を起源あるいは色調とする叙情的な一連の詩を統合し、物語詩《バフチサライの泉》に響いている。しかしながらそのテーマが

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑮

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑭

           プーシキンはキシニョフに疲れた。オルロフとВ.Ф.ラエーフスキイのサークルの崩壊の後、キシニョフは彼にとって特に耐え難くなっていた。しかし、それでもやはりキシニョフは牢獄ではなかった、一方オデッサは ― 解放されていなかった。しかしながら、ロマン主義的主人公の人物像(この場合 ― 有名なジュネーブの囚われ人ボニヴァル)を通して自分自身を見る必要性があまりに差し迫っていたため、名宛人には十分理解できる手紙からの引用という一つの方法で、彼はほとんどすべての自分の体験を描写した:

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑭