レーチカ

大学時代からロシア文学が好きです。特にプーシキンが好きです。ユーリー・ロトマンがプーシ…

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大学時代からロシア文学が好きです。特にプーシキンが好きです。ユーリー・ロトマンがプーシキンの人生とその作品について書いた伝記を翻訳していきたいと思います。よろしくお願いします。

マガジン

  • アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン 作家の伝記

    ユーリ・ミハイロヴィチ・ロトマンによるプーシキンの伝記を少しずつ訳したものをまとめました。序章から第9章まであります。

  • 6月はプーシキンの詩

    1799年6月6日はプーシキンの誕生日です。6月はプーシキンの短い詩を訳します。

最近の記事

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑱

しかしながら極めて巨額の売上金からプーシキンはほとんどなにも受け取れなかった。過分な分け前は出版者のН.И.グネージチの手に渡ったのだ。一部の研究者はグネージチを非良心的であると非難する向きがある¹。しかしその時代の認識では、グネージチは非難に値するようなことはしていなかった。文学の所有権という概念は、当時は存在しなかった、またあらゆる詩選集の出版者は、死んでいる詩人の詩だけではなく生きている詩人の詩に対する売上金も、平然とポケットにしまっていた。出版の仕事は《卑しい》ので、

    • プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑰

       しかし詩人の文学との関係はまた、ロマン主義の理想と要求とは強烈に対象をなしている、もう一つの側面を持っていた。プーシキンは切実に金を必要としていた:取るに足らぬ地位の俸給はわずかで、父は事実上、物質的援助を拒否した(父の古い幾つかの燕尾服をキシニョフへ送るというような滑稽な援助は、長く続く文通を招いたに過ぎない)。そのうちに、プーシキンの詩の人気と、詩の出版に対する読者の需要の急速な高まりが、かなりの報酬をもたらしうるということが明らかになった。  しかしながらこの途上には

      • プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑯

         しかしさらに多くの疑問がのちに生じている:プーシキンはこの女性の一つの思いを全読書界の意見よりも大切にしている、という言葉は、こみ上げるような誠実さをもって響いている。彼女の名前は、自分の名を夕べの星と呼んでいるこの《若い乙女》が ― プーシキンの《秘められた愛》の対象となる役として最も推定できる候補者である以上、当然ながら、伝記作家たちの興味を引いた。ここでは、グルズーフでのエレジーのなかでラエーフスキイ家の令嬢たち、あるいはラエーフスキイ家の妻たちのうちの一人について触

        • プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑮

          1821年から1823年におけるプーシキンは、このテーマに対して皮肉な態度を取ることなど毛頭なかった。むしろ、彼はきわめて積極的に、自分の叙情性や、光輪輝く人格の神秘性や、秘められた情熱をほのめかす内容の創作に取り組んだ。この時期の彼は読者との皮肉な戯れに、また時には、あからさまに人を煙に巻くことに関心がないわけではなかった。 秘められた愛のテーマは 《クリミア》を起源あるいは色調とする叙情的な一連の詩を統合し、物語詩《バフチサライの泉》に響いている。しかしながらそのテーマが

        プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑱

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        • アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン 作家の伝記
          58本
        • 6月はプーシキンの詩
          11本

        記事

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑭

           プーシキンはキシニョフに疲れた。オルロフとВ.Ф.ラエーフスキイのサークルの崩壊の後、キシニョフは彼にとって特に耐え難くなっていた。しかし、それでもやはりキシニョフは牢獄ではなかった、一方オデッサは ― 解放されていなかった。しかしながら、ロマン主義的主人公の人物像(この場合 ― 有名なジュネーブの囚われ人ボニヴァル)を通して自分自身を見る必要性があまりに差し迫っていたため、名宛人には十分理解できる手紙からの引用という一つの方法で、彼はほとんどすべての自分の体験を描写した:

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑭

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑬

           追放された脱走者という人物像は別の心理的資質と関連していた:ここでは《早すぎる魂の老い》ではなく、反対に ― 闘いに対するエネルギーと覚悟が求められていた。それに応じて作者の個性のタイプも変化した。    容赦なきスラブ人、私は涙を流さなかった (II,1,229);     いつも私は同じだ ― 以前もこんな風だった;     無学者には挨拶して歩かない、     オルロフと論争する、めったに飲まない、     オクタヴィウスに ― 盲目的に期待して ―     

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑬

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑫

           バイロンの《チャイルド‐ハロルドの旅》の後、詩人-逃亡者の人物像が、ヨーロッパにおけるロマン主義の主要なテーマの一つとなった。その人物像は、《息詰まるような都市の束縛》(IV,185)、奴隷制度と文明の閉鎖的な世界と、野生の大草原の自由な空間、ロマン主義的主人公が旅をする果てしない《世界の荒野》という対照に融合するのに都合が良かった。その人物像の追放者と囚われ人としての解釈は、結果として決まった流刑地へ連結され、《移動する主人公》からロマン主義の詩風に矛盾する《不動の主人公

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑫

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑪

           プーシキンは世間から離れたところに建つインゾフの家の、一階の部屋に住みついた。地震の影響で家が半壊し、インゾフが家を捨てたときでも、彼はその家に残った。プーシキンは廃墟で生活することが気に入っていた。家のまわりを取り囲む荒れ地や葡萄畑とともにいることは、《荒野》に生きる《逃亡者》としての自分自身のイメージと調和していた。彼は騒がしいキシニョフと名づけた。(町はここ数年で非常に人口過密となった:実際のところ、それほど大きくない入植地であったが、そこにロシアの行政機関の官吏たち

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑪

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑩

           現代心理学は個性の本質を単純化しているような、いかなる創造的な個性の解釈も否定する。詩人の個性は、もちろん、不可分のものでありまた、疑いもなく、外部の世界から持ち込まれる印象の広大な領域と関連している。しかしながら多種多様な社会関係に加えられることによって、個性はたくさんの言葉で世界と会話をし、世界はさまざまな声で個性に答える。結果として、同じ人間が、いろいろな集団に入り、目標を変えながら、変化することができる ― 時にはかなり限界まで。特にこれは、外の世界に対する反応の複

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑩

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑨

          いまここではプーシキンが、本人の告白によると、《いままで一度も満喫したことがなかった》、そしてそれを精神的にひどく渇望していた、家庭的な幸福と相思相愛の雰囲気が支配していた。プーシキンはまるで身内のように、まるで家族の一員のように、そして同時に子供としてではなく同等の者として、このグループに無条件に受け入れられた:まだ少女の娘たちは彼よりも若かったが、同じく自分を大人の貴族の娘として感じようともがいていた、そして将軍自身にも子供のように無邪気なところがたくさんあった。(バーチ

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑨

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑧

           クリミア半島での滞在は、その短さにもかかわらず(数週間だけだった)、プーシキンの人生と詩情に大きな影響力をもった:この時期までに、のちに詩人の意識において練り上げられ変容していったたくさんの創作上の構想と印象が生まれている。しかし、まさにこの時期は、きわめて重大な人生における印象と関係していた。クリミア半島のイメージは、幸せについてのプーシキンの認識に加えられた。1830年2月2日彼は書いた:《私の暗い悔恨の念のなかで、私を魅了し生気を取り戻すものはただ一つ、いつの日か私は

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑧

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑦

          そこでわたしは3週間過ごした。わが友よ、私は人生において最も幸せな時間を尊敬すべきラエーフスキイの家族に囲まれて過ごした。私は彼に英雄、ロシア軍の誉れを見たのではなく、私は彼の明晰な知性と、率直な、すばらしい心を持つ人物;寛大で世話好きな友、いつも感じのよい、やさしい主人を愛した。エカテリーナ女帝時代の目撃者、1812年の記念碑;偏見を持たず、強い気質を持ち、感受性の鋭い彼は、ただ彼の高い資質を理解し評価するに値する者ならだれでも、われ知らず自分になつかせているのだ。彼の長男

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑦

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑥

           しかしながら、別のモチーフもあり得る:遠い祖国で逃亡者は、心に秘めた、分かち合えない ― 時には罪深い ― 愛情を捨てた。この愛情には希望がない。逃亡者は愛情を心から消した、しかし彼の心は愛情のために衰弱していた、それで彼は《野蛮な娘》の無邪気なみずみずしい感情に応えることができない。分かち合えない、心に秘めた愛情についての神話が生まれる。  概して、ロマン主義的人物の神話はこのようなものだった。我々は知っているように、プーシキンはその描写の盲従的な模倣にははなはだ遠かった

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑥

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑤

           心の構造が机上的なことは、同世代の最も良い代表者が不誠実あるいは気取っているということを、決して意味しているわけではない。その反対に、机上的なことはしばしば無邪気さと結合した。顕著な例はおそらくプーシキンのタチヤーナである。彼女は    クラリス、ユリヤ、デルフィーナ*、    自分の最愛の創作者たちの、    ヒロインのように思い込み、    …森の静寂のなかへ    ひとり 危険な本をもってさまよい歩いている、    彼女は本の中に探し求め、見つける    自分の秘め

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑤

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824④

           このような能力は心の柔軟性と豊かさを物語っていた。しかしながらの心の中で、内面的な統一性を喪失する危険もはらんでいた。はなはだ卓越した多面性と柔軟性は自分自身の位置を失う恐れがあった。ロマン主義はここでは時代に合っていた。それは、プーシキンが自分と同世代の表明者として韻文の前に立つことを助けただけではなく、彼の個性を独自に建設することを可能にした。  天才の個性に対するロマン主義の基本的な必要条件の一つは、不変性、同一の情熱への服従、統一性であった。    彼はどこにいて

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824④

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824③

           はじめはプレロマン主義、のちにロマン主義が詩人に見られた、何よりも天才、唯一無二の独特な天才の精神が、彼の創作物の独創性に現れていた。詩人の創作物は、1つの壮大な自叙伝的な長編小説として認識されるようになった、そこには幾つもの詩や物語詩が章を構成していた、一方で伝記がプロットとなっていた。ヨーロッパのロマン主義には2人の天才がいた:バイロンとナポレオンである ― この2人のイメージが定着していた。1人目は ― 自分の個人的な人生を全ヨーロッパ人の目の前で演ずることによって、

          プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824③