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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑳

まさにこれらの出来事が、おそらく、ぺステリがキシニョフにやって来た理由であった。プーシキンはこの時ぺステリと、《形而上学的、政治的、道徳的、等々の会話》をした。《彼は、私が知っている最も独創的な知性ある人々のうちの一人だ》(XII,303)、 ― 詩人はこのようにキシニョフでの日記に書き留めた。ぺステリとともに彼は、おそらく、ギリシア人の蜂起の指導者たちとの交渉に参加することを引き受けた。何年も経った1833年に、プーシキンはぺステリの外交活動の非常に興味深い詳細を日記に書き留めた。ぺステリは詩人が豊富な知識を持っていることを証言していた。出来事の進展はプーシキンのイプシランティに対する深い失望を呼び起こした。もしギリシア人の蜂起の経過を観察することが、プーシキンに、国民的運動と教養ある貴族階級の少数派の革命的精神の相関関係という、デカブリストにとって悲劇的な問題について熟慮することを導いたとしたら、それはイプシランティの個人的特性が、《偉大なる人物》のロマン主義的な崇拝に対する失望の原因となったといえる。のちに、物語詩《エゼルスキイ》の草稿に、素朴な、《偉大ではない》人間に対する自分の態度を正しいと認めながら、プーシキンはこう書き込んだ:《ごく少数のヒーローたちは何のために?何をしたのか ― 私は[イプシランティ、パスケーヴィチ、エルモーロフ]と会った》(V,410;すべての書き込みは強調されている)。
 しかしながらこの時期、プーシキンにとって最も意義あることは、М.Ф.オルロフと彼の周囲に集まったキシニョフのデカブリストたち、特にВ.Ф.ラエーフスキイと、緊密な交際をしたことである。
 М.Ф.オルロフは1820年夏にキシニョフに到着し、第16師団の指揮を受け入れた。彼は独立した大規模な軍隊を手に入れるために、より有利な職務上の可能性を拒否し、アレクサンドル一世の不満を招いた。これは彼には、先まで見通した戦闘的-革命的計画を実現するために必要だった。《16,000が戦闘態勢にある〈…〉こんな冗談をいうことができる》 ― 師団を受け入れてから間もなく、オルロフはА.Н.ラエーフスキイにこう書いた¹。
  ¹オルロフ М.Ф. パリの降伏. 政治的文集,手紙. モスクワ, 1963, p.225.
 手紙の文脈から、オルロフは対トルコ戦に参加することについて語っていることが明らかであるが、しかしながら最近のС.С.ランダ²の研究論文は、ギリシア人の蜂起への介入は、オルロフにとって1820年のロシア革命の計画の一部だった、ということを証明している。
  ²ランダ С.С. 1816年‐1821年のロシアにおける革命思想形成のいくつかの特徴について ― 収録文献:プーシキンと彼の時代、研究、資料. No.1. レニングラード, 1962, p.148-168, および、ランダ С.С. 革命的変革の精神, モスクワ, 1975, p.169-179.


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